見出し画像

#10【ラジオ📻・試写会編】「さよなら、私のロシア」を観て感じたこと

熊本地震の被災者の皆さまへ想いを馳せて

このたびの熊本地方等を震源とする地震により、多くの方がお亡くなりになりましたことに、謹んでお悔やみ申し上げます。また、被災されたすべての皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

ちょうど前回の投稿内容がリンクしていたこともあり、報道を目にするたび、胸が痛み、何を書けばよいのか分からなくなりました。

そのため、しばらくの間、noteでの発信を控えておりました。

日々を大切に生きることや、感じたことを言葉にすることを、これまで私はnoteで発信してきました。

けれど、今この瞬間にも不安や悲しみの中にいる方々がいることを思うと、いつものように文章を書くことにためらいがありました。

それでも、少し時間が経ち、私にできることのひとつは、日常を大切に生き、その中で感じたことや考えたことを、丁寧に言葉にしていくことなのかもしれないと思うようになりました。

地震、台風による水害など、予期せぬことが次々に起こっていますが、被災された皆さまが、一日も早く穏やかな日常を取り戻されますことを、心よりお祈り申し上げます。

私も日々に向き合い、感謝しながら、また少しずつ、ここで言葉を綴っていきたいと思います。

「さよなら、私のロシア」を観て――どこの国かではなく、「私とあなた」ということ

映画「さよなら、私のロシア」あらすじ

ロシア国営放送の海外特派員として活躍していたジャーナリスト、ジャンナ・アガラコワは、2022年3月、ロシアによるウクライナ侵攻に抗議して辞職します。

そのとき彼女の胸にあったのは、「私は、いつの間にプロパガンダに加担していたのだろう」という問いでした。

映画では、ジャーナリストとして、そして母として、ジャンナ自身が自らの過去を振り返ります。ニューヨークで暮らす娘アリーチェにロシアという自分のルーツを伝えようと、二人はロシアを旅します。しかし、娘から投げかけられた言葉をきっかけに、ジャンナは「ロシア人であること」「愛国心とは何か」「自分は何を信じて生きてきたのか」と向き合い始めます。

これは、ロシアとウクライナの戦争を扱った作品であると同時に、一人のジャーナリストが、自分自身の過去と向き合い、「真実とは何か」「人間としてどう生きるのか」を問い直す、個人的なドキュメンタリーでもあります。


映画を観て

先日、映画「さよなら、私のロシア」の試写会に行ってきました。

上司宛に送られた試写会のチケットを譲っていただき、この映画を観ることになったのですが、観終わったあと、しばらく心の中に残ったのは、
戦争そのものよりも、一人の人間が「自分は何を信じて生きてきたのか」と問い続ける姿でした。

主人公のジャンナ・アガラコワは、ロシアに生まれ、ロシア人としての誇りを持ち、ジャーナリストとして仕事をしていました。

けれど、ある日、自国の政府がウクライナへの戦争を始める。

そのとき彼女が突きつけられたのは、

「私は、いつの間にプロパガンダに加担していたのだろう」

という、自分自身への問いでした。

私は、この問いがとても怖いと思いました。

なぜなら、プロパガンダは、最初から「私はプロパガンダをします」と思っている人だけが担うものではないからです。

仕事として。
組織の一員として。
自分の立場を守るために。
誰かから認めてもらうために。
安心して暮らすために。

少しずつ自由を手放し、その代わりに安定や地位、帰属意識を選んでいく。

そうしているうちに、気づけば自分も歯車の一部になっている。

それは、遠い国の、特別な人たちだけの話ではないのかもしれない。

私はそう感じました。

戦争は「国家」だけの話ではない

戦争について語るとき、私たちはつい「ロシア」「ウクライナ」「日本」と、国家単位で考えてしまいます。

政治。
外交。
軍事。
経済。
安全保障。

もちろん、それらは大切な問題です。

でも、その「国」という言葉の中には、一人ひとりの人生があります。

母親がいて、子どもがいて、恋人がいて、友人がいて、仕事があって、毎日の生活があります。

国の事情で始まった戦争によって、その人たちの人生が突然変わってしまう。

私は、そこを忘れたくありません。

戦争を「国家と国家の問題」として語ると、その中で巻き込まれていく普通の人たちの存在が、いつの間にか見えなくなってしまうように感じるからです。

「やられたら、やり返す」
「やられないように、核を持つ」

そんな言葉が飛び交う時代に、私は強い違和感があります。

戦後80年以上が経った今、再び「戦争」という言葉が身近に語られている。

そのこと自体を、私は一人の市民として、立ち止まって考えたいと思っています。

海外で出会った人たちから学んだこと

私はこれまで、海外でさまざまな人と出会ってきました。

サウジアラビア、セネガル、台湾、中国、ニュージーランド、オーストラリア……。

生まれた国も、育った文化も、話す言葉も違う。

それでも、一緒に笑ったり、悩んだり、誰かを大切に思ったりする気持ちは、驚くほど似ていました。

国籍が違っても、人間として感じることには、共通するものがある。

私は海外で暮らした経験を通して、そのことを何度も感じてきました。

だから、最後に大切なのは「どこの国の人か」ではなく、

「私とあなた」という関係なのではないか。

私はそう思っています。

プロパガンダは、他人事ではない

そして、この映画を観て、もう一つ強く思ったことがあります。

プロパガンダは、どこか遠い国だけで起きるものではないということです。

情報を発信できる人。
影響力を持つ人。
組織の中で発言する立場にいる人。

誰でも、知らないうちに「何か」に加担してしまう可能性があります。

特に今は、SNSや動画など、誰でも簡単に情報を発信できる時代です。

だからこそ、自分が発信する言葉について、立ち止まって考えることが必要なのだと思います。

これは事実なのか。
誰かの都合のいい情報を、そのまま伝えていないか。
自分は本当にそう思っているのか。

損か得かではなく、

「私は今、何を思っているのか」
「私は何を感じているのか」

そこを失わないこと。

良心を置き去りにした発信は、ときに武器になります。

私は、右でも左でもなく

私は、右派でも左派でもありません。

リベラルに近いのかもしれませんが、そういうイデオロギーそのものには、あまり興味がありません。

ただ、自分が生まれた日本が好きです。

家族が好きです。
友人が好きです。
大切な人たちと、これからも愛のある生活を続けていきたい。

だからこそ、戦争に巻き込まれたくない。

大切な人を守れる自分でいたい。

日本が再び戦争のできる国になってしまわないように、私は小さな声でも、自分の考えを持ち続けたいと思います。

大きな声で主張できなくてもいい。

でも、何となく流されるのではなく、自分の頭で考える。

何となく誰かの言葉を信じるのではなく、自分の良心に問いかける。

その積み重ねが大切なのだと思います。

一人の人生から考える、戦争の先にあるもの

この映画を観て、戦争の先に幸せはあるのだろうか、と改めて考えました。

戦争によって、誰が得をするのか。

そのために、誰が犠牲になるのか。

国家という大きな言葉の陰で、一人ひとりの生活や人生が失われていくことを、私たちは忘れてはいけないと思います。

そして、「戦争は遠い国の話」と考えるのではなく、自分自身の問題として考えたい。

たまたま上司から譲っていただいた一枚の試写会チケット。

その偶然が、このタイミングで私にこんな問いを投げかけてくれました。

私は、何を信じて生きていきたいのか。

自分の良心を、誰かの都合のために手放さないでいられるだろうか。

大切な人たちと、戦争ではなく、愛のある日々を生きていきたい。

私は、そう思っています。

どこの国かではなく、

「私とあなた」。

その関係を大切にすること。

そして、他人ごとではなく、自分ごととして考えること。

このことを、これからも忘れずにいたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集