両親高卒・岡山のド田舎から多浪までして東大理三に行って得られたもの その1
先日私は東京大学医学部を卒業しました。これを機に今までの人生を振り返って、私が受けた教育や、東大で得られたことをまとめてみようと思います。
この記事は、大学受験生だけではなく、保護者の方向けに
「凡人が東大理三に入るにはどのような教育を行えばよいのか」「東大理三に行く価値がどれだけあるのか?」を真剣に考察するものです。
長くなるのでまとめると
幼少期はのびのび遊んでた 特別な教育はなし
公文式が自分にはあっていた 小学校の間に高校数学まで進んだ
中学受験成功の鍵は塾の友達 遊びに行く感覚で塾と勉強を楽しめた
です。
東大理三に合格する人とは
私が実際に東大に入って感じたのは、大多数が都内、もしくは関西圏の超進学校出身で鉄緑会に通っていたという現実です。大体理三合格者のうち、70名くらいはこのルートです。同じような経歴の人が多すぎて、彼らは自分のことを半ば自虐的に「量産型理三生」と称します。
鉄緑会の合格実績を見れば分かりますが、東大理三はもはや「鉄緑会のトップ層がそのまま上がった」ような構成です。高校の頃から顔なじみだったケースも珍しくありません。
その一方で、残りの30人ほどは、地方から努力と工夫で理三に来た猛者たちです。大学に入って僕が出会ったキャラが濃いメンツも地方出身者がなんとなく多かった気がします。
2026年の東大理三合格者数(引用:産経オンライン)
私の出身である岡山県では2、3年に1回理三合格者が出るくらいで、毎年中国地方で一人くらい合格者が出るくらいの割合しか東大理三生はいません。大体出身高校は広島学院か岡山朝日のことが多いです。私の出身の岡山白陵は5年に1回くらいの割合で理三に合格する人が出る高校でした。
地方出身の凡人が、なぜ理三に入れたのか。
そして入ることが本当に正解だったのか。
自分の大学生活も含めて人生を振り返っていきたいと思います。まずは、幼少期から中学受験までを振り返ります。
誕生〜幼稚園
私は岡山県の田舎で、サラリーマンの父と専業主婦の母のもとに生まれました。ごく一般的な家庭であり、いわゆる教育熱心な家ではありませんでした。親の願いは一貫して「健康に育ってくれればそれでいい」というものでした。
第一子ということもあり、愛情は十分に注がれていたと思います。ただし、それは「勉強で成功してほしい」という方向のものではなく、幼児教育や英才教育、特別な習い事などはほとんどありませんでした。
この頃の記憶はほとんどありませんが、一つはっきりしていることがあります。それは、私がいわゆる“早熟な子ども”ではなかったということです。むしろ遅いぐらいでした。特に身体が小さく、運動機能の発達が遅かったそうです。幼稚園の卒園アルバムの写真は私以外全員一輪車に乗って写真を撮っていましたが、私だけ乗ることができず、手に持って写真を撮っていたという悲しい過去があります。
幼児教育を受けるべきだったのか
ここで一つ、今振り返って思うことがあります。幼少期のいわゆる“勉強系の習い事”は、本当に必要なのかという点です。
もちろん、幼稚園受験や小学校受験を目指すのであれば、早期からの教育は一定の意味を持つと思います。しかし、中学受験や大学受験といった長いスパンで見たときに、幼少期の教育投資がどこまで決定的な差を生むのかについては、冷静に考える必要があると感じています。
実際、私の東大医学部の同期には、幼少期の習い事としてインターナショナルスクールに通っていた人が複数います。そうした環境に触れると、正直に言えば羨ましいと感じることもあります。
ただ一方で、そこには当然ながら大きな経済的コストが伴っています。誰にでも再現できる選択ではありません。
だからこそ思うのは、金銭的に余裕がない状況で無理に教育費へ投資することが、本当に合理的なのかという点です。少なくとも、自分の実感としては、幼少期の教育投資がその後の学力に与える影響は限定的であり、「レバレッジが極めて大きい投資」とまでは言えないのではないかと感じています。
実際、私は特別な教育を受けることなくこの時期を過ごしましたが、そのことが後に大きな不利になったと感じたことはほとんどありませんでした。むしろ、「何も与えられていない状態」だったからこそ、自分で考え、自分で選択する余地が残されていたとも言えます。
小学校低学年
小学生の頃は、勉強は比較的他人よりできる人間だと感じていました。学校のテストはほぼ毎回満点、授業では一番に手を挙げて何でも答える、といったよくある勉強が少しだけできるクソガキでした。私の小学校は1学年18名と超少人数の学校で、卒業後はみんな大体公立の中学に行くのが当たり前の環境でした。中学受験する人はほとんどいませんでした。しかし、運や人に恵まれた結果、中学受験をすることになりました。
習い事と「長男」という心理
幼少期(小学校1〜3年生)に通っていた習い事は以下の4つでした
公文式(国語・算数)
水泳
習字教室
ソフトボール
週6で習い事に通うような生活をしていました。これらは全て、自分から強く望んだわけではありません。親が私を体験学習に連れていき、親に「やる?」と聞かれ、私は「やる」と答えていました。しかしそれは、本心からやりたかったわけではありません。私は三兄弟の長男でした。「自分がしっかりしなければいけない」「親の期待に応えなければいけない」何でも「はい」と答えるのが親を喜ばせるのではないか。そう思っていました。
もともと運動は苦手でした。それでもソフトボールや水泳をやりたいと言いました。運動が苦手なので、当然上手にプレーすることはできず、練習は決して楽しくありませんでした。前日の夜には明日の練習に行きたくないと毎回泣いていました。
しかし、それでも辞めませんでした。なぜなら、「途中で辞めるのは負けた気がする」「親が悲しむのではないか」このような心理が働き、意地でも辞めませんでした。
この「辞めない性格」は、後に自分の強みになったと思います。
習っておけばよかったと感じている習い事
逆に音楽系の習い事を全くしてなかった私は小学校の音楽から躓いてしまいました。歌のテストは下手すぎていつも居残り。楽器も何も弾けず、幼少期に手先を使う練習が少なかったため、手先が不器用でした。(今もです)少なくとも私の周りでは、東大医学部の同期は幼少期にピアノを習っていた人がとても多く、少し後悔しています。
また英語ももっと触れておくべきでした。東大理三は学年の半分くらいは帰国子女で、英語のレベルが極めて高く、大学6年生の実習では学年の3分の1くらいは海外の大学で実習をしていました。幼少期に身につけた英語力と、受験勉強で身につけた英語力は大きな差を感じました。
公文式とライバルの存在
公文式での勉強は比較的よくできました。特に算数は先生が褒めてくれたので、どんどん進めていきました。当時、同じ小学校に自分より早く公文を始めて先に進んでいる子がいました。私は彼に追いつきたい。負けたくない。そう思っていました。親も上手くライバル意識を持たせてくれました。「◯◯君にあと少しで追いつくよ」「もう分数をやってて凄い」多い日は1日200枚のプリントをやる勢いでした。
そして公文には「3学年先を進むとトロフィーがもらえる」という制度がありました。最初にそのトロフィーを取ったのは、実は私ではなく弟でした。
弟は3歳から英語を始めており、私が入った時にはすでに3学年先を進んでいました。

透明で光り輝くトロフィー。小学生にとってはあまりにも魅力的で、なんとしてでも欲しいと思えるようなオブジェでした。この明確な目標が、私をさらに駆り立てました。
結果、小3で小学校算数を終了し、トロフィーを獲得。国語も3年間継続し、トロフィーをもらい続けました。
単純な性格が好転
今振り返ると、私はとても乗せられやすい性格であったため、親がわかりやすいエサで釣ってくれた結果、行動につながるという循環になっていたと思います。子供にとってやる気を引き出すコツを試行錯誤しながら見つけ出すことが幼少期の勉強の鍵だと感じます。
中学受験という転機
私が小学校4年生になったくらいの時に、公文の先生が、親に中学受験を勧めました。前述の通り、当時の私の小学校では、ほぼ全員が地元の公立中学へ進学していました。親も中学受験の経験はありません。右も左も分からない。
とりあえず岡山県で一番合格実績の多かった「鷗洲塾」の入塾テストを受けることになりました。
これは後から聞いた話ですが、母も中学受験をよく分かってなかったので、「一番下のクラスでも入れたら万々歳」くらいに思っていたそうです。
しかし、入塾テストは公文式で小学校の算数を終えていた私にとって簡単すぎました。60分の算数の試験を20分で解き終え、残り時間ぼーっと待っていました。国語も無難に解けました。
結果、最上位クラスに入ることになりました。
一方で、同じく入塾テスト隣で受けていた子の保護者は、成績があまり良くなく、塾の先生に1番下のクラスを勧められており、「どうしても上のクラスに入れてください」とお願いしていたという話も聞きました。公文式を一年生からやらせていて良かったと思ったそうです。
小テストと「居残り」
入塾テストも無事突破し、小4から塾に通い始めました。
算数は自信がありましたが、公文式ではあまり扱わなかった中学受験特有の図形問題には苦しみました。国語も知識問題に苦戦しました。
しかし、塾には「小テスト」があり、点数が悪ければ居残りになるという制度でした。ビビりだった私は、居残りをしたくなくて必死に勉強しました。居残りをして親を悲しませたくない。単純に居残りしたくない。早く帰って遊びたい。そのような思いから小テストの前には自分なりに一生懸命勉強するようになりました。(たいてい前日に焦ってやっていたのですが、、)
ここで重要なのは、子どもが勉強する理由は
必ずしも崇高な目標である必要はない、ということです。
褒められたいでもいい。怒られたくないでもいい。
結果的に自発的に勉強をしようと思える環境を作ること。
これがとても大事だと感じました。
塾のおおまかな成績 5年生〜
5年生からは4科目になり、勉強量は一気に増えました。国語、算数、理科、社会と、それぞれに特徴があり、自分の中でも得意不得意はかなりはっきりしていた。
算数と社会は得意でした。算数は公文式をやっていたこともあり、計算力や処理スピードにはある程度の自信があり、クラスの中でも上位にいることが多く、唯一「自分はできるかもしれない」と思える科目でした。
社会はシンプルに努力が結果に結びつく科目でした。塾のテキストの赤字をひたすら覚える。やることが明確で、やれば点数が伸びるという感覚があっりました。鉄道が好きだった影響か、特に地理は好きで、地図を見ながら覚えていくのが楽しかった記憶はあります。
一方で国語はどうしても苦手でした。慣用句や熟語は知らない言葉ばかりで、語彙力の不足を強く感じていました。小さい頃もっと本を読むべきだったと少し後悔しました。読解問題もなんとなくの感覚で解くしかない状態でした。そのせいで全然できるようになりませんでした。中学高校でも国語は苦労しました。
理科は生物や地学の内容にはあまり興味を持てず、成績はそこまでよくありませんでした。社会に比べて理屈で理解することも多く、当時の私の理解力では、まだ理屈で物事を理解する力が十分ではなかったことも関係していると思います。
総合成績としてはクラス内でトップ10くらいだったが、自分の中では「勉強が得意な人間」という自信はほとんどありませんでした。
志望校と併願校

私の第一志望は岡山県内トップ校である岡山白陵中学校でした。当時の自分にとって、「県外に出る」という選択肢は現実的ではなく、親元を離れる勇気もなかったため、県外受験は全く考えていませんでした。
しかし、通っていた塾の方針が少し特徴的でした。いわゆる「受験旅行」という形で、県外の中学校を複数受験することを強く勧められたのです。さらに、友人と同じホテルに泊まれるということもあり、正直なところ、当時の私は受験というより“イベント”や“旅行”のような感覚でこれを捉えていました。
実際に受験した学校は、岡山、岡山白陵、AICJ、広島学院、広島大学附属、修道、ラ・サール、そして早稲田、慶應といった学校です。ただし、ラ・サール以降の学校については、模試の偏差値的にも明らかに足りておらず、ほとんど記念受験に近いものでした。塾の先生の勧めがなければ、おそらく受けることはなかったと思います。
結果としては、広島学院は補欠、早稲田・慶應は不合格、それ以外の学校には合格しました。
今振り返ると、特に東京での受験は、受験というよりも完全に「東京観光」でした。初めて宿泊した品川プリンスホテルに感動し、どこか浮かれていた自分がいたことを覚えています。当時の先生には申し訳ない気持ちもありますが、志望校にすでに合格していたこともあり、受験に対する緊張感はそこまで高くありませんでした。
一方で、ラ・サール中学校の受験は印象に残っています。正直なところ、「絶対に受からない」と思って臨んでいました。しかし、本番で算数が思った以上に解け、結果的に合格することができました。
この経験から感じたのは、中学受験というのは必ずしも「実力通りの結果」だけで決まるものではないということです。特に当日のコンディションや問題との相性が大きく影響する場面もあり、ある意味で運の要素も無視できないと感じました。
また、塾の方針として「実力以上の学校を受けさせる」という戦略には一定の合理性があったとも思います。結果的に、自分の想定を超える経験をすることができましたし、「意外といけるかもしれない」という感覚を得られたことは、その後の受験にも影響を与えたと感じています。
とにかく楽しかった塾
中学受験の塾(鷗洲塾)は、とにかく楽しかった記憶があります。まず大きかったのは、気の合う友達がたくさんできたことです。成績も近く、自然とライバル意識が生まれ、負けたくないという気持ちが湧いていました。それ以上に休み時間に遊ぶのが楽しかった。これに尽きると思います。定規バトルやゲーム、消しゴムで野球をしたり(怒られた)などお世辞にもお行儀が良いとは言えない遊びばかりでしたが、長時間の授業時間からの開放感も相まって、とても楽しかったです。授業は朝10時から夕方5時までと長く、体力的にはしんどかったですが、「友達と遊びに行く 勉強はおまけ」という感覚でした。もし友達もいなくて、ただひたすら勉強するだけの環境だったら、続かなかったと思います。
塾の先生も面白く、授業そのものを楽しめていたことも大きかったです。その結果、辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。振り返ると、努力できた理由は意思の強さではなく、楽しめる環境だったと感じる。
5年生・6年生の平日の過ごし方
平日の生活はとても中学受験する小学生とは思えない過ごし方だったと思います。学校が終わると、宿題と公文の宿題をできるだけ早く終わらせる。習い事がある日はそのまま向かい、何もない日は友達と遊ぶか、ソフトボールの自主練習をしていました。遊ぶ内容もいったって普通で、外で野球やサッカー、鬼ごっこをする日と、友達の家でゲームをする日が半々くらいでした。
夜は夕食とお風呂を済ませた後に、塾の課題に取り組む。主に算数が中心で、小テストの対策は金曜日の夜に焦りながらまとめてやっていました。今思えばかなり直前詰め込み型でしたが、それでもなんとか成績は維持できていました。
6年生になると日曜日にも模試や講習が入り、生活はさらに忙しくなりました。それまで続けていたソフトボールにも行けない日が増えてしまいました。当時はチームのキャプテンをやっていたこともあり、チームに対する申し訳なさや罪悪感は常にありました。それでも自分のプライドの高さが勝り、辞めることはしませんでした。「途中で辞めたくない」という気持ちが強く、最後まで続けることを選んだ。この性格は、後々振り返ると自分の大きな強みになっていたと思う。
親に感謝していること
勉強をするきっかけをたくさん与えてくれたこと
公文式や中学受験の塾など、習い事に関しては積極的に習わせてもらうことができたことはとても感謝しています。詰め込み教育とか毎日忙しくて大変そうみたいな意見も聞きますが、私はしんどいと感じたことはありませんでした。むしろ幼少期から毎日忙しい日々を過ごすことでタフさを身につけることができたと思います。
ほぼ毎日のように家から車で30分かけて塾の送り迎えをしてくれたこと
当時は当たり前のように感じていましたが、実家が田舎だったた最寄りの公文式の教室や塾はレベルが低く、いい先生がいる公文式の教室、一番レベルの高い本部校に私が通えるように車で送迎してくれていました。めちゃくちゃ神です。家の家事やパートをこなしながら子供の送迎をしてくれる親すごすぎます。自分はこんな親になれる気がしません、、
勉強に関して一切口出ししなかったこと
いい意味で私の両親は勉強に興味がなかったので、模試の成績や宿題であれやこれや言われることはほとんどありませんでした。唯一言われたのが、本命の中学受験の前日に、小学校から帰宅して真っ先にテレビゲームを始めたときです。流石に緊張感なさすぎじゃないの?その通りです。舐めすぎていました。おかげで試験本番は大失敗をしてしまいましたが、ギリギリ合格することができました。
終わりに
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
振り返って強く感じるのは、「特別な才能」や「完璧な教育環境」がすべてではないということです。もちろん、環境や早期教育が有利に働く場面はありますが、それ以上に重要なのは、自分に合った環境の中で、どうやって継続し、どうやって努力できる状態を作るかだと思います。
そして、その“状態づくり”には、本人の性格だけでなく、周囲の関わり方や仕組みが大きく影響します。私は決して意志が強い人間ではありませんでしたが、環境や仕組みによって自然と努力できる状態を作ってもらっていました。
現在、私が関わっている医学部受験指導の現場でも、同じことを強く感じています。勉強ができるようになるかどうかは、才能以上に「設計」の問題であることが多いです。
もしこの記事を読んで、「どうやって勉強すればいいのか分からない」「今のやり方で本当にいいのか不安」と感じた方がいれば、一度立ち止まって、自分の学習環境を見直してみるのも一つの選択だと思います。
私が講師代表を務めている医学部受験予備校レユシールでは、そうした「環境設計」と「継続できる仕組みづくり」に重点を置いた指導を行っています。大手予備校のような画一的な指導ではなく、一人ひとりの状況に合わせた学習計画と管理を徹底しています。
ご興味のある方は、以下のページもご覧ください。
https://www.reussirlexamen.com
今後は、高校時代から大学受験、そして東大理三での生活についても、順を追って書いていく予定です。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。
片山
