【小説:55歳無職ですが、何か?】〜クビになったバカおやじが、バカのまま伝説になる話〜
第25話 『大樹と恵子、それぞれの決断』
大樹がリビングに来たのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。
九十九は小説の改訂版を読んでいた。恵子はもう寝ていると思っていた。
「父さん、話がある」
「なんだ」
大樹が椅子を引いて座った。いつもと少し違う座り方だった。姿勢がよかった。
「大学——来年、ちゃんと卒業する」
九十九は本から目を上げた。
「そうか」
「去年、大学やめるって言った。でも——やめない。卒業する。就職もする」
「どこに就職する」
「音楽関係の会社を探してる。制作かマネジメントか、まだ決まってないけど。バンドをやりながら、音楽で食べていく方法を、仕事として学びたい」
九十九は少し考えた。
「バンドは続けるのか」
「続ける。就職した後も続ける。両方やる。それが俺のリストだ」
「①武道館は変わらないか」
「変わらない。就職してても、武道館は目指す。時間がかかっても」
「時間がかかっていい。書いたなら辿り着く」
大樹が「……父さんって、最初から反対しないよな」と言った。
「反対する理由がない」
「普通の親は就職とバンドの両立を心配するんじゃないの」
「心配は?」
「……してない」と九十九は言った。「お前が自分で決めたなら、俺が心配する必要はない。心配するより信じる方が、お前の役に立つ」
(大樹が自分で決めた。)
(去年の春、大学をやめると言って爆弾を落としたあの夜から——大樹は、自分で決める人間になった。)
(それが一番、大事なことだ。)
そこへ——廊下から足音がした。
恵子が出てきた。寝間着のまま、髪を下ろしていた。
「聞こえてたわよ」と恵子が言った。
大樹が「……母さん、起きてたの?」と言った。
「大樹が起きてるとなんとなくわかるの。親だから」
大樹が「そんなわかるもんなの?」と言った。
「わかる。何十年もそうしてきたから」
◆ ◆ ◆
恵子がお茶を三つ淹れた。
三人でテーブルに座った。
夜中の十一時過ぎに、家族三人がテーブルを囲んだ。
それがいつぶりか、九十九には思い出せなかった。
恵子が大樹を見た。「いい決断ね」
「……母さんはどう思う、就職とバンドの両立」
「どっちもやりなさい。バカでいいから」
大樹が「……母さんもそれ言うの?」と言った。
「父さんから習ったの」
「父さんから?」
「一年間、見てたら、そういう生き方もあるんだと思って。私も少し変わったかもしれない」
九十九が「恵子が変わったのか」と言った。
「あなたが変わったから」
「俺が変わったか?」
「変わった。でも——根っこは変わってない。それがわかった」
「根っこ?」
「書いたことをやる人、というのは昔から変わってない。三十年前も、あなたは営業の目標を手帳に書いて、全部達成してた。やり方は変わったけど、やる人だということは変わってない」
(……三十年前から、俺はそういう人間だったのか。)
(恵子は三十年間、それを見ていた。)
(俺より先に、俺のことを知っていた。)
「恵子」と九十九が言った。
「なに」
「お前は——俺が変わったと思うか。本当に」
恵子がお茶を一口飲んだ。
「変わった部分と、変わってない部分がある。変わったのは——笑うようになったこと。昔は笑わなかった。でも今は、公園で転んで笑われても笑ってる」
「笑うようになったか」
「笑顔が変わった。カオルちゃんに笑顔が怖いって言われたんでしょ?」
「……よく知ってるな」
「小説に書いてあった」
九十九が「ああ」と言った。「全部書いたからな」
「今の笑顔は——怖くない。それが一番変わったと思う」
大樹が「それ、俺も思う」と言った。「昔の父さんの笑顔は近寄りがたかった。今は——普通に笑ってる。普通の父さんだ」
「普通か」
「普通、で一番いいじゃん。紅白出るけど、普通の父さん。それがいい」
◆ ◆ ◆
しばらく三人でお茶を飲んだ。
大樹がトイレに立った。
二人になった。
恵子がお茶を持ったまま言った。
「私も——一個だけ、決めたことがある」
九十九が「なんだ」と言った。
「仕事を再開しようと思って」
恵子は結婚してからずっと専業主婦だった。大樹が生まれる前は働いていたが、出産を機に辞めた。それから二十一年、家を守ってきた。
「仕事か。どんな仕事だ」
「翻訳よ。英語の翻訳。昔、少しやってたから」
「英語ができたのか」
「大学では英文科だった。あなた、知らなかったの?」
「……知らなかった」
「三十年隣にいて知らなかったの?」
「すまない。知らなかった」
恵子が「まあ、話したことなかったから」と言った。「でも——みのりちゃんが翻訳の仕事を始めたって聞いて、私も、と思った」
(みのりが、恵子を動かした。)
(みのりが英語を始めて、翻訳の仕事を得た。)
(それを見た恵子が、封印していた英語を思い出した。)
(地図が広がるということは——こういうことだ。)
(一人が動くと、隣が動く。隣が動くと、また隣が動く。)
「大樹が就職したら、時間ができる。その時間で、翻訳を再開したい。最初は小さい仕事でいい。でも——やってみたい」
「やれ」と九十九は言った。
「反対しないの?」
「反対する理由がない。お前が自分で決めたなら」
「……あなたって、本当に反対しないのね」
「やりたいことをやると言ってる人間に反対しない。それだけだ」
恵子が「……バカでいい、から?」と少し笑いながら言った。
「そうだ」
「その言葉、一年前には絶対言わなかった」
「言わなかった。でも今は言える」
「なんで言えるようになったの?」
「俺がバカをやって、それで全部うまくいったからだ。バカは正しかった。だから言える」
恵子が「……あなたのバカのおかげで、私も少し動けそう」と言った。
「お互い様だ」
「私、何かしてあげたっけ」
「三十年、隣にいた。それだけで十分だ」
恵子がしばらく黙った。
「……ありがとう」と恵子が言った。
「礼はいい」
「言いたいから言う。あなたが言ってたでしょ、それ」
「……そうだな。ならどうぞ」
「ありがとう。三十年、一緒にいてくれて」
◆ ◆ ◆
大樹が戻ってきた。
テーブルの空気が変わっているのに気づいたのか、「何かあった?」と言った。
「母さんが翻訳の仕事を再開すると言った」と九十九が言った。
大樹が「え?! 母さんが?!」と言った。
「悪い?」と恵子が言った。
「悪くない! すごい! 母さんって英語できたの?」
「英文科だったの」
「全然知らなかった!!」
「あなたのお父さんも知らなかった」
大樹が九十九を見た。「父さん、三十年隣にいて知らなかったの?」
「知らなかった」
「どういうこと!!」
「俺も今日知った」
「夫婦ってそういうもんなの?!」
「三十年経っても知らないことがある、ということだ」
大樹が「……それ、怖い話なの、いい話なのどっちなの」と言った。
恵子が「両方よ」と言った。
三人でまた笑った。
夜中の十二時に、三人が笑った。
窓の外は静かだった。
でも——この家の中は、温かかった。
(こういう夜が、あったんだ。)
(一年前には、なかった夜だ。)
(冷めた味噌汁の夜から、この夜まで——どれだけの道を来たんだろう。)
◆ ◆ ◆
笑いが収まった後、大樹が「もう一個だけ」と言った。
「なんだ」
大樹が少し間を置いた。
「……バンジー、一緒に飛んだ日のこと、覚えてる?」
「覚えてる」
「あの日、電車で帰りながら——父さんが笑ってた。珍しかった。あんなに笑う父さん、見たことなかったから」
「そうか」
「あの日から——父さんが変わった気がした。いや、あの日から俺が、父さんをちゃんと見るようになった」
大樹がテーブルを見ながら言った。
「大学やめるって言ったのは——父さんに気づいてほしかったのかもしれない。ちゃんと見てほしかった」
九十九は何も言わなかった。
「でも——気づかせるより前に、父さんが先に変わった。それで俺も変わった気がする」
(大学をやめると言ったのは——気づいてほしかったから。)
(二十一歳の息子が、父親に気づいてほしかった。)
(俺はその時、何をしていたんだ。)
(でも——バンジーの日に、笑った。)
(その笑顔が、大樹に届いた。)
「大樹」と九十九が言った。
「なに」
「気づくのが遅かった。すまない」
大樹が少し驚いた顔をした。
「……父さんが謝るの、初めて聞いた気がする」
「そうか。謝るのが苦手だ。でも——遅かったのは事実だ」
「いや、別に謝らなくていいんだけど——」
「言いたいから言う。お前が言ってたな、それ」
大樹が「……そうだったね」と笑った。
「一個だけ聞いていいか」
「なに」
「今——ちゃんと見えてるか。俺に」
大樹がすぐに答えた。「見えてる。めちゃくちゃよく見えてる」
「そうか。それなら十分だ」
恵子が「……私にも見えてるわよ」と言った。
「何が」
「あなたが。今が一番よく見える」
九十九は少し黙った。
「……そうか」
「そうよ」
「なら——よかった」
◆ ◆ ◆
翌朝、公園でハナ婆さんに言った。
「昨夜、三人で話した」
「どんな話?」
「大樹が就職とバンドを両立すると言った。恵子が翻訳を再開すると言った」
ハナが「そう」と言った。缶コーヒーを飲みながら。
「大樹が——バンジーの日の電車の話をした。あの日の父さんの笑顔が、最初に父親を見た瞬間だったと」
ハナが「……そう」と今度は少し違う声で言った。
「それから恵子が、三十年隣にいてくれてありがとうと言った。俺も同じことを言った」
「お互い様ね」
「そうだ。全部、お互い様だった」
ハナがしばらく空を見た。
「黒岩さん」
「なんだ」
「あなた、いい家族を持ってるわ」
「そうか」
「そうよ。でも——あなたが走り始めなかったら、この家族はなかったかもしれない」
「走り始めなくても、家族はいた」
「いたけど、つながってなかった。つながり始めたのは——あなたが転び始めてからよ」
(転び始めてから、つながり始めた。)
(転ぶことが、つながることだったのか。)
(バカなリストを書いて、転んで、笑われて——それが全部、この家族をつないでいた。)
さとこが走ってきた。「黒岩さん、昨夜なんかいいことありましたか? 顔が違います」
「なんで顔でわかるんだ」
「毎朝見てるから!!」
「一年間見てるとそうなるか」
「なりますよ! 何があったんですか!!」
「家族で話した」
「それだけ?」
「それだけだ」
「……それだけで、そんな顔になるんですね」
「なるんだ。家族と話すと、こういう顔になる」
さとこが「……私も帰ったら子供と話します」と言った。
「いくつだ、子供」
「七歳です」
「七歳とどんな話をする」
「ポケモンの話です」
「それでいい。内容より、話すことだ」
さとこが「……そうですね」と言った。「ありがとうございます」
「俺に礼はいらない。子供に言ってやれ」
◆ ◆ ◆
その日の午後、みのりに連絡した。
「恵子が翻訳を再開するそうだ。お前がきっかけだと言ってた」
しばらくして返ってきた。
「……私がきっかけですか。嬉しいです。でも——私は黒岩さんがきっかけでした。黒岩さんは奥様のきっかけで、奥様は私のきっかけで、私はまた誰かのきっかけになる。それが広がっていくんですね。地図みたいに」
九十九は「地図みたいに」という言葉を、しばらく見た。
「リストは地図だ、ゴールじゃない」と田所が言った。
「地図の先が、今日、少し広がった」とサンフランシスコの夜に書いた。
地図は、自分の前だけに広がるんじゃない。
隣にも、後ろにも、見知らぬ誰かの前にも広がっている。
一本指で返した。五分かかった。
「そうだ。地図みたいに。お互い様だ。」
みのりから「はい。お互い様です」と来た。
それだけで、十分だった。
◆ ◆ ◆
夜、大樹が「一個だけ確認させて」と言った。
「なんだ」
「紅白——俺が一番前で演奏していい?」
九十九が「バンドのリーダーだ。どこでも立っていい」と言った。
「でも父さんがフロントでしょ、ボーカルだから」
「俺はフロントじゃない。俺はバンドの一員だ。リーダーはお前だ」
「……父さんって、ボーカルなのにそういうこと言うんだね」
「ボーカルが一番えらいわけじゃない。声が大きいだけだ」
「……音痴だけどね」
「音痴だが、魂はある」
「それはそうだ」と大樹が笑った。
「大樹」
「なに」
「一個だけ言っていいか」
「どうぞ」
「お前が大学に戻ると決めたことが——一番嬉しかった」
大樹が少し間を置いた。
「武道館より?」
「武道館はお前の夢だ。それも嬉しい。でも——卒業すると決めたのは、お前が自分の足で立とうとしてるということだ。それが一番嬉しい」
大樹がしばらく黙った。
「……父さん、本当に変わったな」
「何が」
「昔だったら『大学は卒業して当たり前だ』って言ったと思う。今は——嬉しいって言う」
「当たり前じゃなかったからだ。お前が一度やめようとした。それが戻ってきた。当たり前じゃない」
大樹が「……ありがとう」と言った。
九十九が「お互い様だ」と言った。
「俺、何かしたっけ」
「バンジーで一緒に飛んだ。それで俺の笑顔が変わった。お前がそう言ってた。俺はお前のおかげで笑えるようになった。お互い様だ」
大樹が「……なんか」と言いかけて、止まった。
「なんだ」
「……父さんの息子で、よかった」
九十九はその言葉を、しばらく黙って受け取った。
返す言葉を探した。
でも見つからなかった。
だから——正直に言った。
「……お前の父親で、よかった」
大樹が「……照れくさい」と言った。
「俺も照れくさい」
「でも言った」
「言いたかったから言った。お前もそう言ってたな」
大樹が笑った。「そうだったね」
「おやすみ」
「おやすみ、父さん」
大樹が部屋に戻った。
リビングが静かになった。
九十九はしばらく、動かなかった。
(お前の父親で、よかった。)
(この一言を言うのに、五十五年かかった。)
(でも——言えた。)
(遅くなかった。)
(まだ、間に合った。)
◆ ◆ ◆
その夜、九十九はメモ帳を開いた。
余白に書いた。
「大樹:就職とバンドを両立する。卒業する。」
「恵子:翻訳を再開する。みのりがきっかけ。」
「大樹に『お前の父親でよかった』と言えた。」
「遅くなかった。まだ間に合った。」
リストを見た。
残り三つ。
③漫才師 ⑫紅白(出場決定) ⑬味噌汁。
でも今夜——リストより大事なことがあった。
リストに書けないことが、今夜も起きた。
大樹の言葉。恵子の翻訳。三人でお茶を飲んだ夜中の十二時。
これは、チェックをつけるものじゃない。
ただ——あった。
ここに、確かにあった。
九十九はメモ帳を閉じた。
電気を消した。
寝室に向かいながら、ドア越しに恵子の寝息が聞こえた気がした。
三十年間、聞いてきた音だ。
でも今夜は——少し違って聞こえた。
温かかった。
それだけで、今夜は完璧だった。
◆ ◆ ◆
【 第二十五話 了 】
~次回予告~
紅白本番まで、あと一ヶ月。
昭和ロックの新曲が完成した。
タイトルは——「まだ終わっていない」。
大樹が「父さん、この曲のラスト、轟さんのソロにしたい」と言った。
「轟に聞いてくれ」と九十九が言った。
大樹が轟に聞いた。
轟がしばらく黙って、言った。
「……歌う」
その一言で、全員が動き出した。
紅白まで、あと一ヶ月。
昭和ロックが、本番に向かう。
次回 第26話 『昭和ロック、紅白へ——新曲「まだ終わっていない」』
55歳無職ですが、何か?
