正義、力。
正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。
力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。
力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は 非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが 強いか、強いものが正しくなければならない。
正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。
ブレーズ・パスカル「パンセ」第5章 正義と現象の理由 298

急がれる国連改革と日本が取り組むべき課題 | 一般社団法人平和政策研究所

正しいもの( #国際連合 )が 強いか、強いもの( #核保有 #軍事大国 )が正しくなければならないとするなら、正しい者(国際連合)が強くあるべきではないでしょうか。
#国連 #安保理 #常任理事国 (5大国)中、 #権威主義 #全体主義 国家の #露国 、 #中国 の2大国を除く、 #自由主義 #民主主義 国家の #米国 、 #英国 、 #仏国 の3大国は、 #主権者 たる #国民 さえ望むなら #国際連合憲章 第42条、第43条に基づいて、 #国連軍 を組織し、正しいもの( #国際連合 )を最も強くすることが可能なはずです。
正しくて、最も強いものに従うのは、正しくて、必然のことです。
しかし、 #ウクライナ や #ガザ の惨状をみていながら、米国、英国、仏国、が国連軍を組織しようとせぬのなら、 #日本国 が率先して( #日本国憲法 に則って)、国連憲章 第43条 #特別協定 ( #兵力提供 協定)を締結する最初の国となり、他の #国連加盟国 に対しても特別協定(兵力提供 協定)締結を求めるなら、少なからぬ賛同国、追随国が出てくる可能性も皆無ではないはずです。
必ずしも #大量破壊兵器 の保有数が力の証ではありません。
(大量破壊兵器はその性質からして、 #武力紛争 の初期段階から実戦投入できるとは考え難い #最終兵器 #終末兵器 です)
190ヵ国余りの国連加盟国から多くの賛同国、追随国、特別協定締結国(兵力提供国)が出現しさえすれば、武力紛争初期段階での #軍事的強制措置 には十分に有効な力となり得るはずです。
国連軍( #平和強制部隊 )の武力による援護があるなら #国際司法裁判所 において、 #プーチン #ゼレンスキー #トランプ #ネタニヤフ #ハマス 幹部、等々の #戦争犯罪者 達を公正かつ厳正に裁くことも決して不可能ではないはずです。
#戦争犯罪 は引き合わぬと悟らせることができれば、武力紛争が発生する前の段階で、第2、第3のプーチンやゼレンスキーやトランプやネタニヤフやハマス等々(戦争犯罪者達)の出現を防ぐこと( #予防外交 )にもつながります。 #平和への課題
難しいこと(簡単なことであれば、とっくに実現しています)は重々承知のうえですが、国際連合設立(1945年)以来、これまで、この兵力提供協定を結んでいる国がないため、 #国連憲章 第7章に基づく、国連安保理が指揮する国連軍が組織されたことが一度もない中で、 #平和憲法 を持つ日本が世界に先駆けて #国連軍創設 の端緒を開く意義はとても大きいはずです。
https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/law/law_89_3/each/02.pdf
#ブトロスガリ #国連事務総長 #平和への課題 ( #AgendaForPeace )
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明治20年(1887年) #中江兆民 著「 #三酔人経綸問答 」#太平洋戦争 敗戦より遥か昔に日本人の手によって、完全非武装中立の平和思想が書かれていることを、いまこそもっと多くの日本人に知ってもらうべき時だと思います。
かつて日本は豪傑君の暴論を実践し、完膚なきまでに叩きのめされたのち、70年以上にわたって南海先生の #専守防衛 論を建前としてきました。
唯一、洋学紳士君の説く理想論(非武装中立平和主義)だけがまだ試されていません。
それどころかまた凝りもせず豪傑君の過激思想に傾きそうな気配すら感じる昨今、「 #官僚たちの夏 」のモデル #佐橋滋 が書いた平和戦略も是非ご一読ください。↓
佐橋滋著「平和の戦略─実験国家への道」1973年 #毎日新聞 創刊百年記念事業として「 #日本の選択 」と題して全国から募集した論文の入選作
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─ 引出される結論は、われわれは完全な非武装国家として国際場裡に立つこと以外に道はないということである。これは決して夢物語ではない。日本の憲法に書いてある字句の通りのことを、その希求する精神にそって現実に完全に実行しようというだけのことであって、全く新しい発想ではない。簡単にできることではないかも知れない。簡単にできることならもうできているはずであろう。難しい道だからこそ、また、だれかがいつかはやらなければならないことだから、われわれが先鞭をつけるべきだと思う。幸いにしてわれわれはわれわれの理想を明文化した憲法を持つ。この文言通りに実行する決意を持つことである。一切の武器を捨てて丸腰になったら、いつ無法に、理不尽に侵略を受けるかもしれないという危惧が頭をもたげてくるであろう。そういう事態は絶無であると断定することはできないであろう。その時はその時で仕方がないというのではない。しかしその時はもはや戦争ではない。相手が武器をもって攻め込んで来ても、こちらは武器を持たない。したがって戦いはないのであるから戦争ではない。相手の蹂躙に任すのである。乱暴な意見のように聞こえるかも知れないが、武器をもって戦った場合と、どちらの損害が大きいのだろうか。人命についても、物的施設にしても、議論の余地なく武器をもって戦う場合の方が大である。丸腰の人間が一億人も殺傷されるであろうか。物的施設が破壊されつくすだろうか。その前に反問したいのは何のために非武装の日本を相手国は攻撃するのであろうか。平和な国づくりに挺身して相手に迷惑をかけない日本人を地球上から抹殺しようと考えるものがいるであろうか。そして世界中の国がこの暴挙を拱手傍観しているだろうか。残るところは民族の名誉だけである。世界の人類の平和を希求して、自ら実験台になる、これほどの名誉がほかにあるだろうか。戦って死ぬだけが英雄であったり、勇気であるのではない。理想に挺身する姿が尊いのであり、武器をもって戦うよりはるかに勇気を必要とする。世界は決して見殺しにはしないであろう。これは他力本願の非武装とは本質的に異なる史上初めての実験であるという自負を持つべきものと考える。━
