ナウシカはモノリスを壊してよかったのか――『2001年宇宙の旅』から漫画版『AKIRA』、『もののけ姫』へ
1 「モノリス」から始まった偶然
あるnote書きについてChatGPTと話していた。
その人は二十年ほど文章を書き続けているらしい。ひとつひとつの文章に、それまで考えてきたことが大量に折り畳まれている。一見すると豊かだが、論点が相互に密結合していて、第三者が一部分だけを取り出し、別の議論の部品として再利用するのが難しい。そこでChatGPTが、その文章を「モノリス」と表現した。
もちろん、この場合のmonolithはITアーキテクチャの用語である。機能がひとつの巨大なシステムに密結合されたmonolithic architectureという意味だった。
ところが、ぼくの連想はそこで別方向へ飛んだ。
モノリスといえば、まずスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』ではないか。
そして『2001年宇宙の旅』を思い浮かべた瞬間、さらに別の黒い物体が浮かんだ。宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』終盤、シュワの墓所に存在する、文字を刻み続ける黒い板である。
似ている。
あまりに露骨に似ている。
調べてみれば、シュワの墓所やその「主」から『2001年宇宙の旅』を連想する指摘自体はすでに存在する。旧文明のアーカイブとして墓所と庭を読む解釈もある。したがって、「シュワの墓所はモノリスではないか」という着想そのものに新規性があるわけではない。(e-徒然草)
それでも奇妙なのは、この相同性が批評上の主要な比較軸としてあまり定着していないことである。
しかも宮崎自身が、後年のインタビューで漫画版『ナウシカ』の結末について『2001年宇宙の旅』や『AKIRA』のように「訳のわからないところ」へ行って終わらせる選択肢に言及し、それを避けたという趣旨を語っている。『風の帰る場所』所収の2001年のインタビューとして流通している引用では、宮崎は『2001年』と『AKIRA』を明示的に終幕の参照項として挙げている。(逆襲のジャミラ)
ならば、当たり前すぎて語られなかったのかもしれない相同性を、一度きちんと批評上の位置に置いてみてもよい。
そうすると、漫画版『ナウシカ』の終幕は、単なる「生命賛歌」や「環境思想」ではなく、20世紀SFが提起してきた「人類の進化を誰が決めるのか」という問いに対する、かなり強烈な回答として見えてくる。
そして、そこまで考えると、別の疑問が生じる。
ナウシカは、本当にシュワの墓所を壊してよかったのだろうか。
2 『2001年宇宙の旅』のモノリスは答えない
まず、『2001年宇宙の旅』のモノリスを単純な「人類進化装置」と理解するのは危険である。
映画冒頭では、類人猿の前にモノリスが現れ、その後、骨を道具として使用する能力が獲得される。しかし、その道具は同時に武器でもある。知性、技術、文明、暴力が最初から分離されていない。
キューブリック自身は、映画版ではモノリスが類人猿に対して「触媒的」な効果を及ぼすように描いたと説明している。一方で、クラークの小説版は映画よりはるかに明示的にモノリスの機能を説明するとも述べている。(Kubrick アーカイブ)
この差は重要である。
映画『2001年』は、説明できるものを意図的に説明しない。
キューブリックは『2001年』を本質的にnonverbalな経験として構想し、その「メッセージ」を言葉で確定することを拒んだ。Star Childへの変容についても、彼は特定の文字通りの説明より、神話的・心理的な水準で受け取られるべきものだと語っている。(Vadeker)
だからモノリスが人類にとって善なのかどうかは、映画だけを見れば確定しない。
あれは救済なのか。
進化なのか。
飼育なのか。
実験なのか。
人間には理解できない高次知性の介入なのか。
映画は答えない。
人類は猿から人間になり、人間からさらに別の何かへ変化する。しかし「次の段階へ行くことは善である」という命題を、映画は明示的には提出しない。
『2001年』は、進化を描く。
しかし進化の意味を留保する。
ここが出発点になる。
3 漫画版『AKIRA』――超越した後にも政治は残る
次に重要なのは、大友克洋の漫画版『AKIRA』である。ここでは映画版ではなく、明確に漫画版を対象にする必要がある。
映画版『AKIRA』は1988年に公開されたが、漫画版はその後も続いた。漫画版には、映画では大幅に縮小されたミヤコとその宗教共同体、崩壊後の大東京帝国、軍、国外勢力など、複数の政治的・宗教的・軍事的主体が登場する。漫画版の連載は1980年代を通じて続き、単行本最終第6巻は1993年に刊行された。講談社自身も『AKIRA』を1982年開始の長期作品として位置づけている。(講談社)
重要なのは、大友が超能力を「世界についての哲学的正解」にしなかったことである。
アキラや鉄雄の力は、人類を超えた何かに見える。
しかし、それが何であるかを説明する唯一の賢者はいない。
国家は対処しようとする。
軍も動く。
宗教も生まれる。
科学者も理解しようとする。
国外勢力も介入する。
しかし、どの主体も全体を支配できない。
超越的な出来事が起こっても、その周囲には依然として権力、信仰、軍事、都市生活、友情、暴力が残る。
最後に世界の意味が説明されるわけでもない。
金田たちは、破壊された世界の側に残る。
この点で漫画版『AKIRA』は、『2001年』と意外に近い。
超越は提示する。
しかし、それを一つの説明に閉じない。
4 シュワの墓所は、モノリスよりよく喋る
漫画版『ナウシカ』は、そこから別の方向へ進む。
シュワの墓所は、モノリスと違って非常によく喋る。
世界がなぜ現在の状態になったのか。
腐海とは何なのか。
現在の人間がどのように作られたのか。
汚染された世界が浄化された後、どのような人間が生きる予定なのか。
旧文明が何を保存してきたのか。
墓所は、世界の過去だけでなく未来まで説明する。
ここに、『2001年』との決定的な差がある。
モノリスは、人間に理解不能な他者として沈黙する。
シュワの墓所は、人間自身が作った知性として「私は世界の意味を知っている」と語る。
言い換えれば、墓所はモノリスの単純な悪役版ではない。
それは、人間がモノリスの位置を占めようとした装置である。
人間が生命の全体像を把握し、環境を設計し、人間そのものを設計し、遠い未来の社会まで設計する。
そして、その計画を「正しい未来」として後世に受け入れさせる。
ここには明らかな主知主義と設計主義がある。
知性は世界を理解できる。
理解できるなら設計できる。
設計できるなら、よりよい未来を作ることができる。
その論理を、シュワの墓所は極限まで実行している。
宮崎は漫画版『ナウシカ』を描く過程で、腐海を「目的を持った生態系」として理解すること自体を否定するようになった。1994年のインタビューでは、人間が人工的な生態系を作り始めることはできても、その後に何が生じるかを予測し、最終状態を決定することはできない、と明言している。人工的に始まった腐海も設計者の意図を超えて独自の生態系へ変化した、と彼は考えた。(ナウシカネット)
ここに漫画版『ナウシカ』の思想的な強さがある。
人工だから悪いのではない。
科学だから悪いのでもない。
ナウシカ自身、腐海の仕組みを観察し、知識を用いる。
問題は、知識からそのまま「未来を決める権利」を導くことである。
世界を知っている。
だから世界を設計してよい。
生命を理解している。
だから未来の生命をあらかじめ定義してよい。
ナウシカは、その飛躍に「否」と言う。
この意味で、漫画版『ナウシカ』は宮崎駿の思想的最高打点の一つだと思う。
5 その前に「庭」がある
ただし、シュワの墓所だけを見ていると、終盤の構造を半分見落とす。
墓所へ向かう途中には「庭」がある。
そこには旧世界の動植物、音楽、文学、芸術が保存されている。墓所が科学・技術・生命設計のアーカイブだとすれば、庭は文化と美のアーカイブである、という読みはすでに存在する。(e-徒然草)
そしてそこにはクシャナの兄たちがいる。
彼らは戦争と権力闘争から降り、庭に取り込まれている。
興味深いのは、彼らが無知だから誘惑されたのではないことである。
むしろ逆だ。
彼らは王族として高度な教養を身につけているから、旧世界の音楽や芸術の価値を理解できる。
教養そのものが、彼らを庭に留める。
ナウシカも庭の美しさを理解する。
しかし、そこに留まらない。
この構成を考えると、庭と墓所は二段階になっている。
庭は、美によって人を現実から撤退させる。
墓所は、知によって人を未来計画へ従わせる。
庭が「ここには美しいものがすべてある。外の争いに戻る必要はない」と誘惑する場所なら、墓所は「世界の意味はすべて説明できる。未来はわれわれに委ねればよい」と要求する場所である。
文化による無害化と、知性による設計。
ナウシカはその両方を拒絶する。
ここまで含めると、漫画版『ナウシカ』終盤の射程はかなり広い。
6 しかし、ナウシカは本当に墓所を壊してよかったのか
ここで一度、物語がナウシカ側に与えている倫理的優位から離れてみたい。
シュワの墓所を悪役としてではなく、一つの長期運用システムとして見る。
旧文明は失敗した。
高度な科学技術を発達させた結果、地球環境を人間が生存困難な状態にした。
しかし、旧文明は単に滅びたわけではない。
自分たちの失敗を認識したうえで、巨大な復旧プロジェクトを開始した。
便宜的にバージョン番号を付けてみる。
人類1.0と環境1.0の組み合わせは破綻した。
そこで旧文明は、環境を浄化する腐海という環境2.0を作った。
その汚染環境で生存できる人類2.0、すなわちナウシカたちを作った。
そして長期間の浄化が終了した後の環境3.0を想定し、そこで生きる人類3.0、あるいは現在人類を再適応させるための技術と設計を墓所に残した。
現在は、巨大なmigrationの途中なのである。
しかもこのシステムは短期間の机上計画ではない。
少なくとも千年程度の時間、腐海は実際に環境を変化させ続けている。宮崎自身も、腐海が人工的に開始されたにもかかわらず、設計者の予想を超えた独自の生態系へ成長したことを作品の重要な結論として語っている。(ナウシカネット)
もちろん、墓所の設計思想には問題がある。
現在生きている人間を「途中段階」として扱う。
未来の望ましい人間像を過去の人間が決定する。
生命の未来を自分たちが予測できると考える。
そこは批判できる。
しかし、そこから「だから墓所を完全破壊してよい」は直ちには導かれない。
ここで問いが反転する。
過去の人間に未来を設計する権利がないとして、現在の人間には未来の選択肢を破壊する権利があるのか。
これは別問題である。
7 動いているシステムを壊すな
ITにたとえると、ナウシカの行為の危険さが見えやすい。
墓所は確かに巨大なlegacy monolithである。
設計思想も古い。
中央集権的である。
現在のユーザーに仕様変更権限を十分与えない。
しかし、それは現在稼働している。
さらに、その中には未来のmigrationに必要なデータ、技術、バックアップが存在する。
この状況で普通のシステム担当者が最初に考えるのは、
「この設計思想は気に入らないから本番環境を破壊しよう」
ではない。
まず、動いているシステムはいじらない。
調査する。
バックアップを取る。
依存関係を確認する。
既存データを保全する。
新しい環境への移行可能性を検討する。
ロールバックできる状態を作る。
必要なら段階的に置き換える。
それが普通である。
ところがナウシカは、旧文明のcontrol planeだけでなく、未来のmigration assetsまで含めて破壊する。
比喩的に言えば、
レガシーなmonolithの設計思想が信用できないので、本番DBとバックアップとmigration scriptをまとめてDROPした。
かなり大変なことをしている。
しかも、墓所を作った文明は「未来を完全には予測できなかった」と批判される。
ならば同じ批判はナウシカにも向けなければならない。
墓所破壊後の未来を、ナウシカは予測できるのか。
できない。
宮崎自身の論理を使えば、生命も生態系も未来も予測できない。
ならば、
「墓所の設計した未来は信用できない」
だけでなく、
「墓所を失っても生命は何とかする」
という判断も信用できないはずである。
ここに奇妙な非対称がある。
未来予測の不可能性は墓所に対する批判として使われる。
しかしナウシカ自身の不可逆な決断には、同じ不確実性が十分適用されない。
8 現在世代は未来をどこまで決めてよいのか
この問題は、単純な「自然対科学」ではない。
むしろ世代間倫理の問題になる。
墓所は、過去世代が未来を決める。
ナウシカは、それを拒絶する。
そこまでは分かる。
しかしナウシカは、現在世代の立場から未来の選択肢を消す。
つまり、
・過去世代による未来支配
を、
・現在世代による未来支配
へ置き換えているだけではないか、という疑問が成立する。
まだ存在していない未来世代には、現在の決定について意見を表明することができない。
これは気候政策、天然資源、核廃棄物、遺伝子改変、巨大インフラなどでも現れる問題である。
現在世代は、自分たちの利益だけを最大化してよいのか。
逆に、まだ存在しない未来世代のために現在人をどこまで犠牲にしてよいのか。
どちらも簡単には答えられない。
ここで重要なのは、極端な終末論へ行く必要がないことである。
将来予測には不確実性がある。
だからこそ、選択肢をどこまで残すかが問題になる。
不確実な未来について最も危険なのは、未来を完全に設計することだけではない。
未来のoptionそのものを不可逆に消すことも危険である。
もし墓所の設計思想が間違っているなら、墓所を停止すればよいかもしれない。
政治的権力から切り離せばよいかもしれない。
データだけ保存すればよいかもしれない。
現在人類を清浄世界へ適応させる技術だけ取り出せるかもしれない。
新人類の卵を保存したまま、選択を後世へ延期することもできる。
少なくとも論理的には、破壊と服従のあいだには多数の選択肢がある。
しかし漫画版『ナウシカ』は、それらをほとんど検討しない。
物語のクライマックスとして、
・墓所に従うか。
・墓所を破壊するか。
という二択へ押し込む。
この劇的単純化によって、ナウシカの決断は美しくなる。
同時に、思想としては危うくなる。
9 「現在の生命を肯定する」だけで足りるのか
ナウシカの選択は、実存主義的には非常に強い。
抽象的な「未来の人類」より、いま実際に生きている生命を選ぶ。
設計された完成形より、汚れ、苦しみ、殺し合いながらも実際に存在している生命を選ぶ。
これは理解できる。
ぼく自身、実存主義的な人間観をかなり重視している。
それでも、ここでは物申したくなる。
現在存在しているものに優先権があることと、未来の選択肢を現在人が破壊してよいことは同じではない。
現在の具体的な生を守る。
それは分かる。
しかし「現在の生こそ本物だ」という理由で、未来の可能性まで壊してよいのか。
この問いに、漫画版『ナウシカ』は十分答えていない。
むしろ、答えすぎたことによってこの問題を生んでいる。
10 漫画版『ナウシカ』は思想を語りすぎたのか
ここで内容だけでなく、漫画表現そのものも考えたい。
漫画版『ナウシカ』は非常に思想の強い作品である。
特に終盤になると、その思想はかなり明示的に言語化される。
庭の主が語る。
セルムが語る。
墓所が語る。
ナウシカが答える。
世界設定の説明と、それに対する哲学的判断が、台詞とモノローグによって相当量提示される。
もちろん漫画版『ナウシカ』には、言葉によらない名場面も大量にある。
腐海の光景。
王蟲の群れ。
オーマとナウシカの関係。
クシャナの変化。
人物の表情と風景だけで成立する場面も強い。
だから「説明漫画」と一言で切り捨てるのは不当である。
しかし、少なくとも終盤について、説明的な台詞の比率が高いことは公平に認めるべきだろう。
思想的最高打点であることと、漫画表現として最高であることは同じではない。
比較対象として、岩明均の漫画版『寄生獣』を考えてみると分かりやすい。
ここでも、映画版やアニメ版ではなく漫画版だけを対象にする。
漫画版『寄生獣』も、人間中心主義、捕食、生態系、種、知性、感情、善悪といった大きな問題を扱う。
しかし、それらについて一つの最終理論を提示しない。
田村玲子がどう変化するか。
新一とミギーの関係がどう変わるか。
後藤を新一がどう処理するか。
浦上が最後に何を示すか。
思想は出来事と人物の変化に埋め込まれている。
読者は考えざるを得ない。
しかし、「したがって生命とはこういうものである」という最終講義は始まらない。
漫画版『ナウシカ』は思想を言語化して答えを出す。
漫画版『寄生獣』は思想を物語の中で作動させ、答えを残す。
この差は、思想内容の深さというより、媒体への実装方法の差である。
その意味では、漫画としての完成度について『寄生獣』に軍配を上げることもできる。
漫画版『ナウシカ』は、思想を限界まで突き詰めた。
その代償として、漫画自体が思想を説明する負荷も引き受けた。
11 問いを残した『2001年』、答えを出した『ナウシカ』
ここまで戻ると、『2001年宇宙の旅』との違いがさらに鮮明になる。
キューブリックは、映画と小説の違いについて、言語媒体である小説は必然的に説明的になると語っている。映画版では、説明を削り、視覚経験として残した。(Kubrick アーカイブ)
宮崎は漫画版『ナウシカ』で逆方向へ進んだとも言える。
『2001年』が説明しなかったところを説明する。
モノリスが沈黙したところで墓所に喋らせる。
そして、ボーマンがモノリスを破壊しなかったところで、ナウシカは墓所を破壊する。
『2001年』は、
「人類は何か別のものになるかもしれない。それが何を意味するかは分からない」
と終わる。
漫画版『ナウシカ』は、
「人類の未来を設計する知性には従わない」
と答える。
この決断には価値がある。
主知主義と設計主義を、最も極端な形で可視化し、それを拒否したからである。
しかし同時に、その答えは反論可能になった。
これは作品の弱さであると同時に、思想作品としての強さでもある。
何も言わなければ反論できない。
漫画版『ナウシカ』は、はっきり言った。
だからこちらも、
「でも、それは本当に正しいのか」
と問える。
12 『もののけ姫』は思想的後退だったのか
漫画版『ナウシカ』は1994年に完結した。
宮崎は当時、自分が最初から結末を設計していたわけではないと率直に語っている。締切に向かって描きながら、後から自分の描いたものの意味を理解したとも述べている。(ナウシカネット)
そして1997年、『もののけ姫』が公開される。
ここで宮崎は、漫画版『ナウシカ』とはかなり違う方法を取った。
『もののけ姫』にも対立はある。
森とタタラ場。
サンとエボシ。
神々と人間。
中央の権威と地方の武装勢力。
労働者、病者、女性、武士、狩人。
しかし、世界の真相をすべて説明する「墓所の主」はいない。
誰か一人が正解を持っているわけでもない。
宮崎自身も公開時のインタビューで、『もののけ姫』について「森を破壊しているのは悪人ではない」というところから出発している。(ナウシカネット)
そこでは「正しい側」を一つ選べない。
エボシは森を破壊する。
しかしタタラ場は人間の生活の場でもある。
サンは森を守る。
しかし人間社会をそのまま否定する。
アシタカはどちらか一方を滅ぼして解決しない。
そして最後にはシシ神が死ぬ。
鬱蒼とした神の森も、そのままでは戻らない。
タタラ場も壊れる。
しかし世界そのものは終わらない。
別の緑が生える。
人間は再建を始める。
サンは森に残る。
アシタカは人間社会の側に残る。
二人は同一化しない。
ここで作品は、
「正しい世界とはこういうものだ」
とは言わない。
ただ、
「生きろ。」
とだけ言う。
13 日和ったのではなく、原理から歴史へ移った
漫画版『ナウシカ』と比べれば、『もののけ姫』は日和ったようにも見える。
墓所を爆破するような決断がない。
世界についての大原則も語らない。
自然と文明の対立に最終解を与えない。
しかし、これは必ずしも思想的後退ではない。
第一に、媒体が違う。
漫画版『ナウシカ』終盤のような長大な思想問答を、そのまま劇場アニメーションへ移せば、作品は説明台詞の連続になる。
漫画は読者が自分の速度で読み返せる。
映画は時間が流れ続ける。
同じ思想を実装する方法が違う。
第二に、もっと重要な可能性がある。
宮崎自身が、もう一度現実的な歴史世界を描こうとしたとき、漫画版『ナウシカ』のような原理的解決そのものが成立しないことに気づいたのではないか。
歴史には墓所の主がいない。
複数の主体がいる。
それぞれに部分的な正当性がある。
それぞれが間違う。
それぞれが暴力を使う。
それでも誰かを完全に消せば世界が正しくなるわけではない。
『もののけ姫』は、正しい原理によって歴史を裁くのではなく、歴史が不可逆に変化する過程を描いた。
神は死んだ。
森は変わった。
人間社会も変わった。
もう以前の世界へは戻れない。
しかし次の完成図もない。
その状態で生きる。
この意味で『もののけ姫』は、漫画版『ナウシカ』より思想的に弱くなったのではなく、原理から歴史へ移ったと考えられる。
14 『AKIRA』へ戻り、『2001年』へ戻る
そうすると、作品間の関係が面白くなる。
『2001年宇宙の旅』は問いを残した。
漫画版『AKIRA』も、超越的な力を描きながら、軍、国家、宗教、国際社会、人間関係を残し、最終解を提示しなかった。
漫画版『ナウシカ』は、それに対して強い回答を出した。
未来を設計する知性を拒絶した。
しかし、その拒絶自体が現在世代による未来支配になり得る。
そして『もののけ姫』では、宮崎は再び「決めない」側へ戻る。
これは単純な円環ではない。
一度、漫画版『ナウシカ』で原理を限界まで考えた後だからこそ、意味が違う。
『2001年』では、超越の意味が分からないから留保される。
漫画版『AKIRA』では、複数の主体が超越を処理しきれないから留保される。
『もののけ姫』では、歴史そのものに単一の最終解が存在しないから留保される。
同じ「答えない」でも理由が違う。
15 宮崎駿の思想的最高打点と、作品としての最高打点
ぼくは漫画版『ナウシカ』を、宮崎駿の思想的最高打点だと考える。
あれほど徹底して、生命、自然、人工性、未来、設計、清浄と汚濁について考え抜いた作品は、宮崎作品の中でも特殊である。
墓所を破壊するという決断まで行ったことにも意味がある。
曖昧に逃げなかった。
だからこそ反論できる。
しかし、作品としての総合的な最高打点を問われれば、ぼくは『もののけ姫』を選ぶ。
漫画版『ナウシカ』では、思想が時に漫画表現を押しのける。
『もののけ姫』では、思想が画面の中で動く。
森がある。
鉄がある。
病者がいる。
女たちが働く。
武士が攻める。
神が怒る。
人間が撃つ。
シシ神が死ぬ。
森が変わる。
タタラ場を再建する。
その一連の不可逆な変化自体が思想になっている。
「生きろ。」というキャッチコピーが、単なる人生訓で終わらない。
最終解のない、元には戻れない世界で生きろ。
映画全体がその一文を映像にしている。
16 モノリスを壊すことより難しいこと
結局、最初の問いへ戻る。
シュワの墓所の板は、『2001年宇宙の旅』のモノリスに似ている。
しかし、両者の重要な差は造形ではない。
モノリスは沈黙する。
墓所は語る。
『2001年』は、人類の次の段階について問いを残す。
漫画版『ナウシカ』は、設計された次の段階を拒絶する。
この拒絶は、主知主義と設計主義への批判として強い。
知性が優れているからといって、未来を所有する権利までは得られない。
それはその通りだと思う。
しかし、もう一つ問いが残る。
未来を所有できないなら、未来の選択肢を破壊する権利もないのではないか。
墓所の主は未来を決めた。
ナウシカも、墓所を壊すことで未来を決めた。
その意味では、両者は思ったほど遠くない。
『2001年』が半世紀以上たっても不気味なのは、この問いに答えなかったからかもしれない。
そして漫画版『ナウシカ』が今でも面白いのは、逆に、答えてしまったからである。
答えたから、反論できる。
反論すると、その三年後の『もののけ姫』が別の姿で見えてくる。
宮崎は漫画版『ナウシカ』で未来に判決を下した。
『もののけ姫』では、未来に判決を下さなかった。
原理的には後退したように見える。
しかし、歴史については、その方が正しいのかもしれない。
モノリスを壊すことはできる。
もっと難しいのは、壊すべき唯一のモノリスなど存在しない世界で、それでも生き続けることである。
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