EQの不都合な真実

All eyes on EQの不都合な真実…

これは発表済み動画のスクリプトだ。
動画版がよければそちらを見てくれ。
ぼくのダンディなお声が40分ほど楽しめる。

以下は動画のスクリプトを基本的にそのまま文章化したものだ。
文章の方がより伝わるのではないかと思い、ここに掲げるものだ。


導入

日本語でEQについて調べても、まともな動画はほとんど見当たらない。
いまだにEQブームが続いているということらしい。
「これはブーム仕掛けるやつら消す毒だ」(Luch Time Speax “MAN TRACK”)。

ほとんど見当たらない、と言ったが、少しまともなのはメンタリストDaiGoの何かの切り抜き動画くらいだ。

その動画でDaiGoは「IQよりEQが大事ですよね」というよくある質問に対し、次のように返している。
まず、EQは科学的に怪しいものである。
そして、EQはIQとほぼ相関するので、EQがIQより大事という言説に意味は無い。

これは、一面では正しいが、明らかに言い足りていない。
より正確に、根拠を示してEQというものを解体して行こうというのがこの動画(記事)の趣旨だ。

Friendly Reminder

ぼくは元々、EQなんて嘘くさいものだ、と思っていたのだが、今回ちゃんと調べてみて、あまりの無意味さに驚愕した。
この動画(記事)は、その調べた成果を共有しようというものだ。

したがって、EQがIQより大事だと考えている人たち、その多くは、自分のIQが低いことを恨み、高いIQを持つ人を妬んでそのEQの低さをあげつらって溜飲を下げようとしていることだろう、そういう人たちにはこの動画(記事)は全くお勧めできない。

ぼくのEQはかなり低いだろう、ということを予めお伝えしておこう。

逆に、ぼくと同じようにEQというものに懐疑心を抱いている人、EQの心理学的な根拠や有用性について、学術的な知見を得たいと思っている人たちには、この動画(記事)は役に立つはずだ。

ただし、ぼくは心理学者ではないし、心理学を大学などで専門的に学んだこともない。
この動画(記事)の内容は、AIを活用してリサーチしたものであることを断っておく。
逆に、AIがその広範な知識を元に、この動画(記事)の内容にお墨付きを与えてくれている、ということも言える。

はじめに結論

では、本編を始める。
いきなり結論からだ。

要約

「EQの不都合な真実」として暴いて行くことは、要約するとこのスライドのようにまとめられる。
それで理解出来れば、これから始まる、思った以上に長くなった動画(記事)を見る必要はない。

文字に起こしておく。

  1. EQはEIを商業的に再パッケージした概念であり、IQが持つような「Quotient(指数)」としての測定前提(単一構成・安定性)を満たしていない。

  2. EIには特性型EI(Trait EI)と能力型EI(Ability EI)の2種類がある。特性型EIはビッグファイブと強く重複しており、独立した構成概念としての増分妥当性は限定的である。

  3. 能力型EI(とりわけMSCEIT)は理論的には能力として定義されているが、IQと中程度の相関を持ち、独立成分の実務的有用性は限定的である。さらに、能力として測っている対象は、実際には平均的な判断への迎合度であり、能力ではない。

  4. 結局のところ、職務遂行や教育達成などの主要成果に対しては、依然としてIQで測る一般知能gが最も強力で安定した予測因子である。

  5. 科学的根拠の薄いEQが日本で爆発的に受容されたのは、1990年代のバブル崩壊・終身雇用の崩壊・知識労働化という構造変化において、複数の制度的需要が重なったからだ。

  6. チームパフォーマンスの予測因子としては、Googleが実施したプロジェクトアリストテレスの知見として得られた「心理的安全性」が注目される。しかしこれもEQ推しには「不都合な真実」である。

では、詳論を始める。

1. EQはEIを商業的に再パッケージした概念であり、IQが持つような「Quotient(指数)」としての測定前提(単一構成・安定性)を満たしていない。

まず初めに示すのは、「EQはEIを商業的に再パッケージした概念であり、IQが持つような「Quotient(指数)」としての測定前提(単一構成・安定性)を満たしていない。」というテーゼだ。

ゴールマンのEQ本

1996年に邦訳が出版されたゴールマンのEQ本、「EQこころの知能指数」が世の中にEQが蔓延した元凶だ。
EQとはEmotional Quotientの頭文字を取った略称だ。
IQ、Intelligence Quotientにならって命名されている。
EQを「こころの知能指数」などと呼ぶことからして、IQ、知能指数に依存していることが分かる。
EQは、そのまま日本語にすれば「感情指数」のはずだ。
「こころの知能指数」ではない。

EQ本の帯では、「社会で成功するためにはIQではなく、EQだ!!」というテーゼを掲げ、煽りまくっている。
この煽りに乗っていまだにIQよりEQが大事、などと考えているIQの低いやつらは多い。
後で示すようにこのテーゼは真っ赤な嘘だ。

EQ本原著

ゴールマンの原著は、邦訳の前の年1995年に出版されている。
当時の書影は見付けられず、この画像は20周年版のものだが、まあいいだろう。
まずタイトルはEQじゃなくEmotional Intelligence、EIだ。
日本語版はこの点でも過剰に煽っていることが分かる。

日本語版は、なぜEIでなくEQという言葉を選択したのか。


EQという言葉の由来1/2

EQという言葉自体はゴールマンの著作以前から使われていた。
このスライドでは2つの由来を示したが、バーオンについてはこの後も言及することになる。
メンサ会員の方は、EQの最初の用例ともされるのにも関わらず、その後EQに反対の論陣を張ったそうだが、それほど重要ではない。

EQという言葉の由来2/2

EQブームは、このような下地にゴールマンの本をあてはめたことで生まれた、ということになる。
そしてゴールマンは1995年の原著の後、EQブームに乗っかっており、著書で掲げたEIという言葉に固執してはいない。

ゴールマンとは

ではこの、EQ本を書いたダニエル・ゴールマンというのは何者だろうか。
経歴を確認すると、一応、ハーバード大で心理学の博士号を取得している。
だが、学者ではない。

博士論文以外には、査読付き論文は発表されていない、というのが事実だ。
大学院卒業後は、編集者やジャーナリストとしてキャリアを積み、EQ本の出版当時はニューヨークタイムズに勤めていた。

EQ本が当たって、ニューヨークタイムズは退社した。

その後はEQをはじめとした、心理学に関する記事などを書き、EQ関連団体でコンサルティング活動などをしている。

ここからも分かる通り、ゴールマンはEQあるいはEIの創始者ではない。ジャーナリストとして活動しており、当時の心理学の知見にインスパイアされ、EQ本をまとめた。

そしてそのブームに乗って上手いことやった、というところだ。

ではそのゴールマンのインスパイア元とは何か。

EQ本のインスパイア元1/2
EQ本のインスパイア元2/2

それは、直接的にはサロベイとメイヤーによって1990年に発表されたEmotional Intelligenceという論文だ。
サロベイとメイヤーはそこでEIを厳密に「能力型」として構成している。
これについては後で述べる。

ゴールマンのEQは混合概念である

ゴールマンはサロベイとメイヤーの論文をそのまま紹介したわけでなく、色々なものを混ぜ込んでEQ本を書いた。

混ぜたのは大きく3つのものだ。
まずサロベイとメイヤーの能力型EI、認知的能力としてのEI。
次に性格特性。
そして3つ目に自己啓発的な要素である意欲や価値観、そこで身に着けるべきスキル。

ゴールマンのEQは混合概念である:詳細

ゴールマンのEQ本の主張に沿って、どのように3つの概念がEQに混合されているのか、詳細化したのがこのスライドだ。
このように色々な要素を都合よく混合させることにより、EQというものがキャッチーになり、人気が出たのだと言えるだろう。

EQは指数Quotientではない

だが、そのように作られたEQが測定可能か、測ったとして、指数Quotientと呼べるのか。

まず、測定対象が複数の要素からなり、単一構成ではない。

ここで身体測定の比喩を使ってみよう。
EQがやっていることは、身長と体重と視力を足して『健康指数』を作るようなものだ。
それが何か有用な指数となるだろうか。
おそらく、統計的なリテラシーを持たないもののみが、これを意味のある指数と考えることだろう。

次に、ゴールマンはEQの最大の売りとして、それは「教育や訓練で高められる」と主張した。
しかし、ここに自己矛盾がある。
もし、教育で容易に変動するのであれば、それは個人の生涯にわたる知的能力を示す『指数』ではなく、単なる後天的な学習成果、スキルセット、あるいは、一時的なコンディションや状態、に過ぎない。
指数としての安定性や不変性は持たない。

中身が多様な要素の複合体であり、かつ可変的で主観的なものである以上、それは「指数」ではなく、せいぜい「感情的コンピテンシー」とでも呼ぶべきものだ。
いずれにせよ指数として扱えるものではない。
この時点でEQがまともなものでないことは分かるだろう。

ここで、これまでにも触れて来たが、「指数」として確立されている、知能指数、IQを紹介することにする。

IQの起源

1990年代半ばから30年程度の歴史しか持たないEQに対し、IQは20世紀初頭から120年以上に渡って研究されてきた。

IQの単一構成と安定性

IQは、個人の知能の相対的な位置を数値化した指数、だ。
そこで測定する対象は、論理的推論、言語能力、空間認識、記憶力などの認知機能となる。
これは一般知能と呼ばれ、より具体的にはg因子と呼ばれる。
前のスライドで示したような複数のテスト方式、そこに名前を挙げていないものもあるのだが、それらを横断的に分析し抽出されたのがg因子だ。

自己申告式で正解が不明なEQと異なり、IQテストには正解がある。
IQテストが測るのは例えば、2+2=4、という数式の理解能力であり、客観的な基準で正誤を判定できる。

そしてそのスコア、指数は安定性を示す。
幼少期は本人が早熟だったり家庭環境が影響したりなどで、飛びぬけたスコアが記録されることもある。
しかし、10代後半に掛けて安定していき、その個人固有のスコアに収束する。
大人になってからのスコアは生涯それほど変わらないことが知られている。
体調や試験への慣れなどで5や10は変わるかもしれないが、その程度だ。
これらのことが、120年間の実証的な研究によって明らかにされてきた、というわけだ。

ここまでで、「EQはEIを商業的に再パッケージした概念であり、IQが持つような「Quotient、指数」としての測定前提(単一構成・安定性)を満たしていない。」と論証出来たと思う。


2. EIには特性型(Trait EI)と能力型(Ability EI)がある。特性型EIはビッグファイブと強く重複しており、独立した構成概念としての増分妥当性は限定的である。

次のセクションに移る。

まず、先ほどのゴールマンの概念混合でも話を出した「性格特性」についての、ビッグファイブという概念モデルをここで紹介する。

ビッグファイブの起源

ビッグファイブも、IQと同じように古い歴史がある。
そして、それはIQに次いで、確立された心理学の成果とされる。

ただ、ぼく個人としては、今回EQについて調べるまで知らなかったものだ。
よく知られているMBTIも性格特性の検査ツールだが、ユング心理学に基づき演繹的にタイプに当てはめようとするものだ。
その点で、帰納的手法で科学的に導き出されたビッグファイブとは異なる。
ビッグファイブも、IQ同様に、仮説を元に検証され、最終的に確立されたものだ。

ビッグファイブの定義

ビッグファイブは5つの要素の強弱で個人の性格を分類する。
強弱というのは、IQのようなスコアの高低ではなく、あくまで特性だ。

ビッグファイブの拡張:HEXACOモデル

ここで少しわき道にそれるが、ビッグファイブを補完し6個の因子にした、ヘクサコモデルというのもある、ということだ。
このモデルは、ダークトライアドと呼ばれる、ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシー、といった望ましくない性格の分析に、ビッグファイブよりも有効だとされる。
ダークトライアドは、ヘクサコモデルで新たに加えられたH因子、正直さ・謙虚さ(Honesty-Humility)、これが共通して極端に低い傾向がある。

ビッグファイブの「協調性」だけでは、表の顔は愛想よくて協調性が高いが、裏では嘘をつき、人を操り、搾取する、というような悪質な性格を分類しきれない、ということだ。
つまり、新たに加えられたH因子には増分妥当性がある、それを加えたことでそれ固有の何かを新たに捉えられるようになった、ということだ。
この増分妥当性という考え方は後でも出て来るので心に留めておいて欲しい。

ここで言いたいのは、5だろうが6だろうが、あるいは元の16だろうが、性格の特性として科学的な分析をし、統計学的な検証を経て、その説の妥当性が示されている、ということだ。

ヘクサコの紹介は参考に留め、この後は研究の多いビッグファイブをベースに論証を進めて行く。

2種類のEI

EQについては最初のセクションで無用なものと論破出来たと考える。
次に、元から研究されていたEI、EQのインスパイア元であるところのものが、どのような研究か、それは本当に有用かを確認する。
以後は、EQをゴールマンなどの俗流心理学、EIを学術的な心理学研究、という形で使い分けるものとする。

まず、EQ本のインスパイア元であったサロベイとメイヤーのモデルは「能力型EI」と呼ばれる。
感情をあやつる能力に注目するものだからだ。

それに対する「特性型EI」の代表としてバーオンを置く。
彼はEI研究の古参だ。
さきほど示した通り、1980年代からその分野を研究していた。
EQという用語の始祖の一人とも言える。
「EQ-i」という形で、EIを測定するモデルを比較的早く、1997年に発表している。

彼に代表される特性型EIとは、自分が自分の感情をどう捉えているか、そして日常的にどう振る舞う傾向があるか、という「典型的な行動様式」に注目するものだ。

ゴールマンEQ:混合型

なお、これらに対して、ゴールマンのEQは「混合型」と呼ばれる。
既に述べた通り、様々なもののごった煮であり、学術的にはガラクタだ。

さて、特性型EIは、さきほど紹介したビッグファイブの性格特性と同じものではないか、という疑問が生じるだろう。
実際のところ、ほぼ同じものだ。

特性型EIとビッグファイブ

この表で示す通り、特性型EIが測る要素は、ビッグファイブに容易にマッピング出来る。
特性型EIは既存のビッグファイブという性格特性を、感情に注目して言い換えたに過ぎない。

特性型EIの増分妥当性の欠如

特性型EIが、ビッグファイブに対し、追加で何かを明らかにしているということはない、つまり増分妥当性がない、ということを示す主要な論文を上げておこう。
特に詳しくは触れない。
元々同じようなものを測っているのだから、ほぼ同じであるという結論が出るのは当然だ。

ビッグファイブと同じものであるなら、EIという別のラベルをわざわざ貼り直す意味はない。
特性型EIを、ビッグファイブから独立した構成概念として捉える意義は薄い、ということだ。
特性型EIの増分妥当性は限定的である、と控えめに書いたが、ほぼ無いと言ってもいいだろう。
これで特性型EIに関する論証は終わりだ。

3. 能力型EI(MSCEIT)は理論的には能力として定義されているが、一般知能(IQ)と中程度の相関を持ち、独立成分の実務的有用性は限定的である。さらに、能力として測っている対象は実際には平均的な判断への迎合度であり能力ではない。


次のセクションに移る。
能力型EIについてだ。

能力型EIの定義

サロベイとメイヤーは、元々研究していたEIがEQという形で汚染されたことを批判し、EQではなくあくまでEIという形で、感情を扱う能力を定義し測定しようとした。
その能力は、知覚、利用、理解、調整、と詳細に分解され、定義されている。

MSCEIT: Mayer-Salovey-Caruso Emotional Intelligence Test

そして、このような定義を元に、サロベイとメイヤーに、カルーソも加えた3人で、EIを測定する方法を2002年に発表した。
三人の名前を取ってMSCEIT(Mayer-Salovey-Caruso Emotional Intelligence Test)だ。

しかし、冒頭で触れたメンタリストDaiGoが指摘するように、これは実はIQと相関している。
感情を扱う能力、という形で厳密化されているものの、どうしても知性的能力、知能の影響が出て来てしまう、ということだろう。
DaiGoは「ほぼIQと同じ」と言っていたが、能力型EIとIQとの相関は具体的な数値で示される。
それがこれらの研究だ。

能力型EIとIQの相関

相関係数は、0.22から0.45という幅がある。
おおむね中程度の相関だが、一番低い0.22だと弱い相関とみなされる。
EIで示されるスコアのうち、およそ5〜20%がIQで説明が付く、ということになる。
DaiGoの発言が、ここで示した文献に依拠したものであれば、ちょっと言い過ぎだろう。

さて、5〜20%を引いた、残りの80%から最大95%に意味があるのか、というのが次の論点だ。
結論から言えば、その大部分は、職務遂行やリーダーシップといった現実の成果を予測する上では、ほぼ何の役にも立たないことが証明されている。

能力型EI独立成分の実務的有用性

数学的には確かにIQとは別の何かが能力型EIには残っているように見える。
しかし、その残りの何か、能力型EI独自の成分に、『有用性』、つまり現実の何かしらの成果を予測する力があるかどうかは別問題だ。

さきほど4つ上げた能力型EIとIQとの相関に関する研究で、最も低い相関係数、0.22を示していたのはジョセフとニューマンの2010年の論文だが、実はそこでの結論は、能力型EIは役に立たない、というものだ(スライド参照)。
IQと性格の影響を統計的に取り除いたところ、能力型EIが職務遂行能力を予測する上での増分妥当性、すなわち追加の貢献分は、実質的に『ゼロ』であった。
つまり、IQと性格という二つの古典的なツールで測れる範囲を超えて、EIという独自の能力が成果に上乗せされる部分は、統計的に無視できるレベルなのだ。

同じようなことを、アントナキスらも示している。
彼らは能力型EIを、実体のない『ゴースト・幽霊』のような変数だ、と指摘した。
IQと性格という強力な予測因子を差し引いた後に残るEIのスコアは、現実のビジネスパフォーマンスとは無関係な『ノイズ』に過ぎない、というのだ。

何かがあるのは確かだ。だがそれは何も意味しない。
それが能力型EIについて現時点で出されている結論だ。

これで「独立成分の実務的有用性は限定的である」ということは示せた。

次の論点に移ろう。
さきほど、能力型EIであるMSCEITは客観的なパフォーマンステストである、と述べた。
そこで測られている客観的な正答とはどのようなものか、詳しく見ていく。

前にも述べたように、IQテストの客観的な正答とは「2+2=4」というものだ。
他方で、能力型EIでは、「この表情から読み取れる感情はどれか?」といった具体的な課題を解かせるわけだが、その正答はどのように決められているのだろうか、ということだ。

MSCEITの正答決定方法

MSCEITの正答の決め方、それは、コンセンサス法と呼ばれるものだ。
一般コンセンサスと専門家コンセンサスの2つの正答セットがある。
専門家コンセンサスは、一般人の感覚を専門家の知見により補正するために導入された、とされている。

だが、両者は何らかのやり方で統合されたりはしていない。
テストごとに正答のセットが異なるのだ。

普通に考えるとこの時点でこのテストは破綻している。
だがちゃんと問題点を並べてみよう

コンセンサス法の問題点

せっかく用意した2つの正答セットだが、一般コンセンサスと専門家コンセンサスは9割以上同じ答えになってしまう。
つまり、専門家の知見や高度な分析も、結局は一般人の『ありふれた常識』を確認しているだけに過ぎない。

また、知能テスト(IQ)であれば、凡人が解けない難問を途轍もない速度で解く100人に1人の『天才』を測定する。
これが卓越性のテストだ。

これに対し、能力型EIのコンセンサス法では、「100人中80人が選ぶ選択肢」を選べる力を測る形になる。
『多数派の凡人』と同じ答えを出せる者が、最も高い知能を持つと定義されてしまうのだ。
誰にでもわかる『平均的な答え』を外さない能力、それを、能力型EIは『知能』と定義しているということだ。

さらにひどいのは、テストによって正答セットが異なるという、さきほども触れた点だ。
あるテストでは一般人の多数派を正解とし、別のテストでは専門家の意見を正解とする。
客観的な『正答』が存在しない以上、正解は常に『誰がそう言ったか』という多数決に委ねられている。
数学のテストで、正解がその日の出席者の多数決で決まるようなものだ

こんなものが、科学的な能力テストとして2002年から20年以上も通用していることには驚くばかりだが、最後の問題点として、そもそもこのような「多数派の感情反応を正解」とするコンセンサス法には倫理的な問題もある、と考える。
第一に、感情的少数派、たとえば文化的背景や神経多様性によって感情反応が多数派と異なる人を、多数派の回答とは異なる回答であるためにEIのスコアが低い、つまり感情に関する能力が低い、と判定することになる。
第二に、そもそも感情に正誤があるという前提自体が、感情の多様性を能力の優劣に還元する、という価値判断を含んでいる。
これは測定技術の問題ではなく、テスト自体を倫理的に正当化できるかという、根本的な問題だ。

ここまでで能力型EIが「能力として測っている対象は、実際には平均的な判断への迎合度であり、能力ではない」ということは示せたと思う。

そして、コンセンサス法によるテスト自体に倫理的な問題があるのではないか、というのも重要な指摘のはずだ。
だが、その論点は二の次にされている、というのが能力型EIの現状だ。
倫理的な問題の検討よりもテストの普及を優先している、ということのようだが、このようなテストで能力とされるものを測られたらたまったものではない。

最後にもう一点、統計学的なトドメを刺しておこう。

一般知能g因子に相当する因子が、感情、Emotionの領域においては特定されていない、という事実だ。
g因子にちなんでe因子としておこう。

IQテストでは、どれほど異なる問題形式であっても、その根底にある共通の能力である一般知能、g因子が、数学的に抽出される。
しかし、能力型EIの各要素をどれだけ分析しても、それらを一貫して説明する『e因子』のような共通の核は、今日に至るまで統計的に見出されていない。
つまり、これらは一つの『知能』ではなく、無理やり一つにまとめられた『バラバラな知識や態度の詰め合わせ』に過ぎないということだ。

さらに、能力型を標榜するEIテストは、実質的にMSCEITという特定のモデルしか存在しない。
別のテストで同じ能力を証明し能力型EIの妥当性を示すこともできないまま、20年以上が過ぎた。
今後、新しいテストが登場して『e因子』が発見される可能性は、これまでのデータを見る限り絶望的だと言わざるを得ない。

これでセクション3は終わりだ。
EQだけでなく、より学術的に構成されたEIでさえ、如何に空虚なものか、理解できただろう。

念のためここまでで分かったことをまとめておこう。

解体されたEQの姿

EQは特性型と能力型のEI、その他雑多な自己啓発的なスキル、と分解される。
そしてそれぞれを詳しく見ると、特性型EIはビッグファイブ、能力型EIはIQとその他役に立たない残り、最後にスキルなどの「Q」、指数として測定できない雑多なもの、という形で真の姿が暴かれたことになる。
EQはクソだ。
Q.E.D.。

4. 結局のところ、職務遂行や教育達成などの主要成果に対しては、依然としてIQで測る一般知能gが最も強力で安定した予測因子である。

セクション4ではそのようなEQに対して、IQが社会的な成果を予測するツールとして、いかに優れているかを示す。

IQとビジネスパフォーマンスの相関

この領域の定番である、シュミットとハンターの85年分のデータを統合した1998年の論文によれば、職務遂行能力を予測する最も強力なツールはIQである。
特に、未経験の人間がどれだけ速く成長し、複雑な課題を解決できるかは、IQを見れば統計的に予測できてしまう。
具体的な相関係数は0.51とされている。

さらに新しい知見もある。
1998年の論文の著者であるフランク・シュミットが、亡くなる直前の2016年にまとめた、100年分の研究の集大成だ。
この2016年の論文は著者の逝去という不幸な事情もあり、1998年のものと違って査読は経ていない。
だが、正式なジャーナルに載る前の草稿段階でありながら、その衝撃的な数値から世界中の学者が引用しているものだ。

そこでは、現代の複雑な仕事におけるIQの相関は 0.65 にまで高まっていることが示された。
「成功するために必要なのはEQだ」、という言説に反して、現代社会におけるIQの重要性はさらに増しているのだ。

予測妥当性試算

また、シュミットらの研究からは、検証済みのツールとして今まで示したIQとビッグファイブの誠実性、勤勉性とを組み合わせると、ビジネスパフォーマンスの半分近くが予測可能であることが示されている。

繰り返しになるが、EQという混合した概念はもちろん、精巧に構成された能力型EIだとしても、ここに付け加える価値、増分妥当性は 統計的にごく小さく、実務上は無視できる水準だ。

ゴールマンはEQ本のなかで「人生の成功におけるIQの寄与度はせいぜい20%にすぎず、残りの80%は他の要因すなわちEQで決まる」と書いていた。
しかし現実はこれだ。
小手先のEQに出る幕はない。

IQというOSに加え、誠実性、勤勉性を元にした鍛錬こそが成功につながる。
この重相関に加えて、「予測妥当性試算」で数値の大きさで3位に入っている「職務知識テスト」で試される対象である職務知識というものも、そのようにして得られたものと考えられる。
このように科学的に考えてくると、EQを身に着けるための時間は、無駄でしかない。

ここまでで、統計学に基づく、科学的な立場からは、IQが変わることなく社会的パフォーマンスを説明する指数であることは示せたはずだ。

EQの不都合な真実

EQにとって不都合な真実、それは科学が示す厳格な事実だ。
人の能力はIQで最も正確に予測できる。成功を決定づける要因の多くを占めているのは、依然としてIQだ。

5. 科学的根拠の薄いEQが日本で爆発的に受容されたのは、1990年代のバブル崩壊・終身雇用の崩壊・知識労働化という構造変化において、複数の制度的需要が重なったからだ。

EQはこれまで示して来たように、科学的根拠の薄い、むしろ皆無と言っていいような、不確かな概念だ。
そのようなものがなぜ短期間で広がり、熱狂的な支持を得たのか。
現代の神話と言えるような現象がなぜ起きたのか。
その背景を探ることにする。
なお、このセクションは社会批評と言える領域のものであり、定量的なデータはないことを断っておく。

EQの爆発的な需要の背景。
それは端的に言うと、1990年代という時代が、IQという冷徹な数字に代わる『優しい尺度』を、組織的にも政治的にも切実に必要としていたからだ。

EQを受容した構造的素地

グローバルでは、産業構造が知識労働へシフトし、人種や背景の異なる人々を動かすための『新しいリーダーシップの定義』が求められていた。
そこで『共感』や『自制』といったEQのキーワードが、管理ツールとして最適だったのだ。

一方で、日本においてはさらに特異な需要が重なった。

バブルが崩壊し、それまでの終身雇用や年功序列が維持できなくなった。
企業は社員を評価する『新しい物差し』を導入しなければならなかった。
しかし、単にIQや成果だけで切り捨てるのは角が立つ。

そこでEQが登場した。

『IQ、学力は関係ない。これからはEQ、人間力だ』というスローガンは、学歴社会に疲弊した大衆を熱狂させ、同時に、リストラや成果主義を推し進めたい企業側にとっても、『情意評価』という名の、便利なブラックボックスとして機能したのだ。

結局のところ、EQが爆発的に広まったのは、それが科学的に正しかったからではない。

『IQという残酷な真実から目を逸らしたい大衆』と、『新しい評価基準が欲しかった組織』、この二つの利害が、EQという幻想の上で見事に一致したからなのである。

EQビジネスの構造的癒着

2010年頃には科学的に否定されたはずのEQが、なぜこれほどまでに実務の現場に居座り続けているのか。
その理由は、日本においてEQが『人事が抱える悩みを解決する、非常に都合の良いツール』としての役割を果たしたからだ。

1990年代後半、日本企業は一斉に成果主義へ舵を切った。
そこで、数値化しにくいホワイトカラーの仕事をどう評価するか、という難問にぶち当たった。
EQはそれに対する救世主だった、ということだ。

人事担当者にとって、IQや純粋な学力で社員を切り捨てるのは、あまりに『角が立つ』行為だ。
一方、EQは『努力で変えられる』という夢を見せることができる。
不採用の理由として『あなたのIQが足りない』とは言えないが、『あなたのEQを磨く必要があります』と言えば、角を立てずに納得感を持たせることができる。
つまり、EQは『不都合な選別をソフトに包むためのオブラート』として機能したのだ。

ここに目をつけたのが教育・アセスメントを提供するベンダー業者だ。
彼らは既存の使い古された性格検査に『EQ』という流行りのラベルを貼り、高額な管理職研修とセットで企業へ売り込んだ。

企業側は『科学的な指標を導入した』という免罪符が得られ、ベンダー側は儲かる。
そこには『それが本当に成果を予測できるのか』という科学的な検証など二の次だった。

結局、EQが日本で爆発的に受け入れられたのは、それが『主観的な好き嫌いの評価』に、科学という名の『お墨付き』を与えるための、最も安価で便利な道具だったからだと言える。

評価のブラックボックスとしてのEQ

『主観的な好き嫌いの評価』という点をもう少し見てみよう。

人事評価において、最も恐ろしいのは『評価のブラックボックス』だ。
かつての日本企業では、上司の『好き嫌い』や『根性があるか』といった主観で評価が決まっていた。
しかし、成果主義の導入により、評価には客観的な『説明責任』が求められるようになった。
ここで、EQは最高の『隠れ蓑』として使われる形になった。

例えば、上司にとって使い勝手の悪い、批判的な意見を言う優秀な部下がいるとしよう。
もし業績やIQだけで評価すれば、その部下を低く評価することは困難だ。
しかし、ここにEQという指標を持ち込めば、『彼は知能は高いが、EQで測る共感的配慮が欠如しており、チームの和を乱している』というロジックで、合法的に評価を下げることが可能になる。
『共感』や『社交性』といった言葉は、定義が曖昧であるがゆえに、評価者のさじ加減一つでどうにでも書き換えられる。
上司の主観的な好悪を、アセスメントシートの『EQスコア』というデジタルな数字に変換する。
そうすることで、根拠のない主観評価に、あたかも科学的な妥当性があるかのような『偽の透明性』を与えることができる。
これが、EQによる評価のブラックボックス化の正体だ。

部下側も、『性格が悪い』と言われれば反発するだろうが、『EQが低い』という診断結果を見せられれば、『自分の能力が足りないのか』と自分を責めてしまう。
EQは、科学的に人を測るツールではなく、組織が個人を都合よく管理し、選別するための『政治的な免罪符』として、日本の人事制度の中に深く根を張ることになった。

このようなものであるEQを内面化し、信奉する個人が居るというのは信じがたい。
肉屋を支持する豚、というのはまさにこれのことだ。

さて、以上が、EQが浸透した社会的背景だ。

最後にEQを代替するだろうパフォーマンス指標を紹介しておこう。
Googleがプロジェクトアリストテレスの結論とした「心理的安全性」だ。

6. チームパフォーマンスの予測因子としては、Googleが実施したプロジェクトアリストテレスの知見として得られた「心理的安全性」が注目される。しかしこれもEQ推しには「不都合な真実」である。

だが「心理的安全性」が突きつける真実はEQ論者にとっては不都合なものに他ならない。

「心理的安全性」の理論的背景

「心理的安全性」は労働心理学の分野で長く研究されていた概念らしいが、Googleが直接参照したのはエドモンドソンの1999年の研究だ。
高いパフォーマンスを上げるチームには「心理的安全性」という共通の要素があることを実証的に明らかにした。
それは個々人のEQなどではなく、チームとしての性質、規範や倫理に関わるものだ。
そして、心理的安全性とは、ぬるま湯につかることではなく、高い目標に対して恐怖なしに意見をぶつけ合える『学習の場』のことだ。

【Googleのプロジェクトアリストテレス】

Googleは初めから「心理的安全性」を対象として調査を始めたわけではない。

彼らが当初立てた予測は、『最高にスマートな個人、つまり高いIQや高い専門性、そしてEQなどの望ましいとされる性格的資質』、それらを兼ね備えたスターたちを組み合わせれば最高のチームが出来る、ということだった。 
しかし、そうではなかった。
チームの成否、つまりチームパフォーマンスの高低に対しては、メンバー個人の資質、つまり『誰がメンバーか』は、統計的にはほとんど関係がないことが判明した。
そこで彼らが再発見したのが、さきほどのエドモンドソンが提唱する『心理的安全性』という概念だった。
チームのパフォーマンスを決めるのは、個人のIQやEQの高さなどではなく、『このチームならリスクを取っても大丈夫だ』という集団としての規範、ルールだった、ということだ。

いちおう付け加えておくと、まずEQについて、実際に調査時に仮説として組み込まれていた。
Toronto Empathy Questionnaire (TEQ)という特性型EIのスコアを使って検討されていた。
そのスコアはチームパフォーマンスにとっては無意味であることが判明している、ということだ。

またIQについても変数として無意味とされているが、Googleのチームなので、全員相当程度に高いことが前提だろう。140だろうが160だろうが無意味、ということで、IQが低いEQ信者の出る幕はない

最後に、プロジェクトアリストテレス報告はあくまで社内レポートであり、査読論文ではない。
だが、ブルーカラーの現場を対象とした研究から生まれたエドモンドソンの理論が、Googleという現代最高の知的労働、ホワイトカラーの現場でも有効である、ということを示したことには大きな意義がある。
なので、広く関心を集め、影響力のある調査報告となっている、ということだ。

EQにとっての不都合な真実としての「心理的安全性」

Googleプロジェクトアリストテレスが示した「心理的安全性」の重要性が、なぜ、EQを売るベンダーや、それを利用する人事にとって『不都合な真実』なのか。

それは、前のセクションで述べた通り、EQがこれまで『組織の問題を個人の性格のせい』にすることで、評価のブラックボックスを守ってきたからだ。
業績が悪い理由を『個人のIQは高いがEQが低い』という自己責任にすり替えれば、組織の構造的な欠陥から目を逸らすことができる。
上司の『好き嫌い』に科学の仮面を被せて、不都合な人間を排除する。
ベンダーにとっても、この不透明な『内面の書き換え』を研修として売り続ける方が、商売として美味しかった、という構図だ。

しかし、心理的安全性が突きつけた真実はあまりに冷徹だ。
『個人のEQをいじる暇があるなら、チームのルールと構造を整えろ』。
上司やチームリーダー、人事部は、『チーム全体のデザイン』に責任を持て。

この科学的結論は、個人に責任を押し付けたい組織や、実体のない性格診断を売りたい人々にとって、不都合な真実に他ならない。

最後に

では個人は何も出来ることはないのか。

まず、人事部やチームリーダーとしての責任がある人たちには、EQなどより「心理的安全性」が重要であるという結論を重く受け止め、組織設計、人事評価、組織の倫理観の醸成、チームビルディング、といった職務にその知見を生かしてもらいたい。

職務遂行能力の予測妥当性の抜粋

それ以外の人たちにとっては、シュミットが示した「職務遂行能力の予測妥当性」が参考になるだろう。
さきほどセクション4の終わりでも取り上げたが、再度述べる。

職務知識について、IQにも依存すると書いてある。

これは、知識というものは何かのインプットをIQを使って処理し、内面化した成果だと考えられるからだ。

そしてそれを地道に繰り返す性格が誠実性、またの名を勤勉性だ。

EQを学ぶ時間は無駄だ。

IQを使って職務知識に投資しろ。

勤勉に知識を積め。それだけだ。

Word up.


「時代は次へ ちゃちな音消える」
(Luch Time Speax “MAN TRACK”)


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