長崎県の過分散と県央都市論(後編) ~ 県央都市はなぜ選ばれなかったのか——大村市を例に ~
前編では、長崎県が抱える「過分散」の構造的問題と、「県レベルのコンパクト化」の必要性を論じた。中編では縮退耐性という現代的な分析枠組みから四都市を評価し、諫早市・大村市という県央軸が相対的に高い適性を持つことを確認した。
後編では問いを歴史に向ける。県央都市が県の機能的中核となりうる機会は、過去に少なくとも四度あった。そのいずれにおいても、県央都市は制度的選択肢として前景化することがなかった。そのメカニズムを解剖するために、本稿では大村市を例にとり、歴史的経緯から読み解いてみたい。
大村を「例」として選ぶ理由は、前後二編で確認した条件の充実度に加え、歴史的な検証材料が比較的追いやすいからだ。同様の問いは諫早市についても立てられるが、本稿では大村に絞って論じる。
問いの立て方について
以下で論じることは、結果論である。大村市を県の機能的中核にすべきだったと断言することが目的ではない。「そうなれた条件があったにもかかわらず、そうならなかった」という事実を検証することで、長崎県の分散構造を固定化した人為的メカニズムを照射することが目的だ。
また、縮退耐性という概念は現代の分析枠組みであり、過去の意思決定者がこの視座を持っていたとは言えない。後編で問うのは「縮退耐性を無視した不作為」ではなく、「各時代の論理の中で、なぜ大村が県央の選択肢として前景化しなかったのか」という、より根本的な問いである。
「なぜそうならなかったか」を問うことは、「何が分散を固定させてきたか」を問うことと等しい。
大村市の条件——改めて確認する
四つの局面に入る前に、大村市の条件を改めて整理しておく。問いの説得力は「これだけの条件があった」という前提の厚みに比例するからだ。
地理的条件
長崎県は、リアス式海岸と半島・島嶼が複雑に入り組んだ地形を持つ。可住地面積の比率は全国最低水準に近く、まとまった平地はきわめて限られている。長崎市も佐世保市も、山地と海に制約された線状市街地であり、面的な拡張に本質的な制約がある。
その中で大村平野は例外的な存在だ。大村湾東岸に広がるこの平地は、長崎県内でもまとまった面積を持つ数少ない可住地であり、市街地の拡張余地と土地利用の柔軟性において、他の主要都市を明らかに凌ぐ。
加えて大村市の位置は、長崎県本土部の重心に近い。長崎市まで約35キロ、佐世保市まで約40キロ、諫早市まで約15キロ——県内の三極のいずれに対しても、過不足のないアクセス距離を保っている。
機能的条件
大村市は長崎県内で、空港・高速道路・新幹線の三つの広域交通インフラを域内に持つ。
長崎空港は1975年、大村湾に浮かぶ箕島を造成した世界初の海上空港として開港した。年間利用者数は300万人を超える。にもかかわらず、この空港は「長崎空港」と命名され、その恩恵の大部分は所在地である大村市ではなく、30キロ離れた長崎市の玄関口として位置づけられてきた。
2022年の西九州新幹線開業により、新大村駅が設置された。空港から新大村駅へは路線バスで約13分——航空と新幹線の複合結節点が現実のものとなっている。
人口動態
大村市は長期的に人口増加基調を維持してきた都市であり、長崎・佐世保・諫早が揃って人口減少局面にある中で、県内主要市の中では例外的な位置にある。ただし増加の主因が県内他都市からの転入である可能性は排除できない。重視すべきなのは「大村だけが純粋に成長している」という物語ではなく、縮退する県内人口の再配置先として機能しうる受け皿を、現実にどこが持っているかという点だ。
これだけの条件が揃いながら、県全体の機能配置の議論において大村が選択肢として前景化したことは乏しかった。以下では、その理由を四つの歴史的局面から検証する。
【第一の機会】1945〜53年——学園都市化の頓挫
大村から機能が失われた最初の契機は、戦後の混乱期に遡る。
1945年8月9日、長崎市への原爆投下により、長崎医科大学と長崎師範学校は壊滅的な打撃を受けた。これらの機関は復旧の拠点を求め、大村市の旧海軍施設へと疎開した。大村には旧海軍病院・旧海軍航空廠跡地などの大規模施設が残存しており、受け皿として機能したのだ。一時期、大村市内に長崎師範学校・長崎医科大学基礎医学部が移転し、「学園都市としての発展が期待されていた」と記録されている。
しかし、この可能性は外部からの力によって閉ざされた。GHQ軍政官の命令により、元大村海軍病院は厚生省に移管され、医科大学は15日以内に諫早へ移転するよう命じられた。その後1949年から1953年にかけて、大村に疎開していた学術機能はすべて長崎市へ再移転した。
大村が学園都市として発展する可能性は、占領行政の論理によって継続しなかった。ここで重要なのは、大村から機能が離れたこと自体よりも、その後誰もその可能性を再び制度的に設計しようとしなかったという事実だ。
【第二の機会】1975年——世界初の海上空港と、構想なき後背地
1975年5月、大村湾に浮かぶ箕島を埋め立てて造成した長崎空港が開港した。世界初の本格的な海上空港という偉業であり、国家的な事業として長崎県の空の玄関口が整備されたことを意味した。
しかし開港に際して、ある選択が行われた——あるいは、行われなかった。
空港を単なる「施設」として整備するにとどまり、その後背地である大村市を「都市形成の核」として位置づけなかったのだ。空港の名称は「長崎空港」——大村の名は消え、空港は30キロ離れた長崎市の玄関口として機能することになった。
国内外の事例を見れば、空港を核とした都市形成は珍しくない。しかし長崎では、世界初の海上空港という巨大なインフラ投資が行われながら、後背地を戦略的に整備する構想が、少なくとも県全体の都市構造を組み替えるほどの戦略として前景化することはなかった。
空港は「施設」として完成したが、「都市戦略の核」にはならなかった。
【第三の機会】2000年代——平成合併と、県庁移転論
2000年代は、大村にとって二つの機会が重なった時期である。
平成合併の局面
長崎県は平成の大合併において全国3位となる合併参加率89.9%を達成した。市町村数を79から21へと激減させた、全国でも最も積極的な合併推進県のひとつだった。
しかし大村市は、財政力などを背景に単独存続が容認された自治体の一つだった。協議会への参加は行わず、県は諫早市と大村市を「県央地域」として並列的に位置づけるにとどまった。大村を核とした県央都市圏を設計する構想が、県の論議に上がった形跡はない。
合併によって自治体の機能を再編成するという歴史的な機会において、大村の役割を問い直す議論が県の設計思想に入らなかった。大村市は「現状維持」のまま、諫早市と対等な「県央の一都市」として固定された。
県庁移転論における不在
時を同じくして、長崎県庁の移転新築論議が本格化する。1994年に県庁舎建設委員会が設置されて以来、2018年の新庁舎移転完了まで約24年にわたる議論が続いた。検討された候補地は魚市跡地、現在地改築、市役所合築——いずれも長崎市内での話だった。
空港を持ち、県内主要市の中では例外的な人口増加基調を保ち、長崎・佐世保・諫早の三方向への交通結節点でもある大村市が、少なくとも主要論点として議論の射程に入った形跡は乏しい。
注目すべきは、公選知事の出身地を見ると、長崎市出身は西岡竹次郎(1951〜58年)ただ一人であり、佐世保市出身に至っては皆無という事実だ。以降の知事は五島・島原・平戸・東京・南島原と周辺部か中央官僚の出身が続く。知事が長崎市出身でなくても、県庁移転の議論で長崎市以外が候補に上がることはなかった。「県都=長崎市」という前提は、誰が知事であるかに関わらず、問い直し不能な構造的自明性として機能してきた。
能動的な再設計の機会においてさえ、大村は議論の射程外に置かれ続けた。
【第四の機会】2022年〜——空港×新幹線、戦略なき現在
2022年9月、西九州新幹線が開業した。新大村駅の設置により、大村市は空港と新幹線を同時に持つ都市となった。空港から新大村駅まで路線バスで約13分——全国的に見ても稀な複合結節点が、現実のものとなった。
しかし県はこの条件を、観光圏の文脈に矮小化した。「させぼ・ながさき観光圏」の議論が前景化する一方で、大村を県央機能集積の拠点として明示的に位置づける戦略は打ち出されなかった。
第四の機会は、今もなお活かされないままだ。
なぜ動かなかったのか——構造的原因の解剖
四つの局面を並べると、一つの問いが浮かぶ。これらはそれぞれ別々の偶然の結果なのか、それとも共通のメカニズムが貫いているのか。
答えは後者だ。四つの局面がすべて同じ方向に作用しているのは偶然ではない。
「県都=長崎市」という構造的重力場
長崎市は明治以来、出島・開港・被爆という三つの「国家的物語」を独占してきた。これは単なる歴史的事実ではなく、政治的資源だ。県都としての正統性が「歴史の重み」によって裏打ちされているため、それを問い直すこと自体に強い心理的・政治的コストがかかる。
その強度は、公選知事の出身地データが雄弁に示している。出身地バイアスとは無関係に、「県都=長崎市」という前提は誰も疑わない自明性として機能してきた。これは特定の政治家の意思によるものではなく、制度と歴史が積み重なって形成された重力場だ。
国の制度設計が分散を補助した
地方交付税・補助金の構造は、各自治体に独立維持のインセンティブを与え続けた。広域で一本化するより各市がバラバラに整備する方が、制度的に「取りやすい」という逆説が生まれた。分散は非効率でも、個々の自治体にとっては分散維持が合理的な選択だった。国の制度が、意図せず分散を固定化する補助機能を果たしてきたのだ。
当事者の不在
最も根本的な問いはここにある。「大村を中心にする」という構想を、誰が、なぜ持たなかったのか。
大村に県の機能を集積するという発想は、既存の利益配分を根本から組み替えることを意味する。長崎市の既得権、各市の行政的自己保存——これらを同時に敵に回すことになる。そのような構想を持ち、政治的コストを払ってでも実行できる主体が、構造的に存在しなかった。
これは「悪意による妨害」ではない。「善意による不作為の連鎖」だ。誰も大村の発展を積極的に妨げようとしたわけではない。ただ、大村を中心に据える構想を持ち、実行しようとした主体が一度も現れなかった。
大村市自身の総合計画が掲げる将来像は「しあわせ実感都市」——これは市民生活の充実を語る言葉であり、県の機能的中枢を担うという野心とは根本的に次元が異なる。当事者の不在は、外部からの妨害よりも深く、大村の可能性を制度的選択肢として前景化させないまま今日に至っている。
結論——制約ではなく、意思の不在
重要なのは、大村が理想都市であるかどうかではない。問うべきは、県内で相対的に高い条件を備えた都市が存在していたにもかかわらず、それを県全体の機能再編の選択肢として制度的に構想する契機がなぜ生まれなかったのか、という点だ。同じ問いは諫早市についても立てられる。県央軸という視点が、長崎県の都市政策において一度も前景化しなかったこと自体が、問われるべき事実だ。
四つの局面はいずれも、地形や歴史の制約ではなく、人為的選択と不作為の結果だった。GHQ命令による学術機能の喪失、空港開港時の後背地整備の欠如、平成合併での単独存続容認と県庁移転論での不在、新幹線開業後の戦略不在——これらに一貫しているのは、「県央という選択肢が、決定的な機会においてことごとく議論の射程外に置かれてきた」という事実だ。
長崎県の過分散は「なるべくしてなった」のではない。県央という代替的な可能性が繰り返し制度設計の外に置かれてきた結果として、現在の構造が固定化された。
問われるべきは過去の責任ではなく、現在の意思だ。人口縮退の速度が加速し、財政の許容限界が近づく中で、県全体の機能配置を問い直す必要性はますます高まっている。そしてこの問いは、長崎県だけのものではない。人口縮退に直面する地方都市が全国各地に存在する今、現在の集積力ではなく将来の縮退耐性という視座から都市の機能配置をスケーラブルに問い直すこと——その問い自体が、現代の都市政策において広く有効な分析枠組みとなりうる。
構造的重力場に抗う意思なしには、条件はいつまでも条件のままにとどまる。それは長崎県の話であり、同時に人口縮退時代の日本全体の話でもある。
本稿は結果論としての問いから出発しているが、その問いが照射するのは過去の失敗ではなく、現在の選択の可能性である。
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