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「仕事、辞めたい」と思っているあなたへ僕が“20回以上”仕事を変えて見つけた、働く意味の話(2025/5/17加筆修正)

「仕事、もう行きたくないな」

そう思いながら、今日を迎えたあなたへ。

ゴールデンウィーク明け。
実はこの時期、1年で最も退職者が多くなる季節だと言われています。

僕もこの季節に、人生で初めて“仕事を辞めた”ことがあります。

それは、18歳で入隊した自衛官を、たった3ヶ月で辞めたときでした。

“ちゃんと働き始めた”はずの自分が、
あっという間にレールから外れていく——
そんな現実に、情けなさと怖さでいっぱいだったのを覚えています。

でも今の僕は、あのときの自分にこう伝えたい。

「迷ったっていい。
君の働いてきた日々に、全部意味はあったよ」


そして今、この記事を読んでくれているあなたにも——
その言葉を届けたくて、この文章を書いています。

1章:僕の原点は、「動くこと」だった。


自衛官を辞めたあとの僕は、教習所に通いながら、
金持ち父さん貧乏父さんシリーズを読み漁って、不動産の勉強をしていた。

当時18歳。
アルバイトをしながら、人生で初めての物件を購入した。

「将来は不労所得で生活して、恵まれない人に寄付するんだ」
——本気で、そう思ってた。


免許を取ったあとは、営業職にチャレンジ。
本来は20歳以上が条件だったけど、
面接に来た20人の中で誰よりも真剣に挑んだことで、特別枠として採用された。

実際、数字は出せていた。
ノルマにも届いていたし、結果だけ見れば「やれてる新人」だったと思う。

でも——

続けることができなかった。


理由は、運転中の事故だった。

お客様のもとに向かう途中で、僕は社用車をぶつけてしまった。
幸いケガ人はいなかったけど、気持ちは完全に折れていた。

まだ運転に不慣れなまま、時間に追われて焦っていた。
「これは向いていない」
そう感じたのは、営業の仕事そのものじゃなくて、

その仕事に付随する“運転”というプレッシャーだった。

人間関係も悪くなかった。営業成績も悪くなかった。
でも、それでも僕は、会社を去った。

泣きながら、逃げるように。
「できることと、続けられることは違う」と痛感しながら。

この経験は、

「予想していないことが、実際にやってみると一番難しいこともある」

という意外な学びを残した。
そしてそれが後に、“自分に合った働き方を選ぶ”という視点の芽生えにもつながっていく。

そしてそのあと、ようやく出会うことになる。
僕の人生で、いちばん誇れる“仕事”と。


2章:この仕事が、僕の人生を変えた。——家庭教師としての日々


実家に戻ってきた僕は、次の仕事をどうするかで頭を抱えていた。

ローンを組んで通った教習所の返済も始まっていたし、
親からは「生活費を入れてほしい」と言われた。

現実は、想像していた以上に厳しかった。

そして、人生で初めてハローワークに足を運ぶことになる。

当時の僕にとって、「仕事探し=ハローワーク」だった。
きっと、ここに行けば何かが見つかる。
そんな期待を胸に、窓口に向かったのを覚えている。

そこで紹介されたのが、個人宅での家庭教師の仕事だった。

そのときの僕には、まったく想像できなかった。

この出会いが、僕の生き方の“核”を作ることになるなんて——。


家庭教師って聞くと、あなたはどんな仕事を思い浮かべるだろう?

僕は最初、公文や東京義塾のような、
いわゆる“先生らしい”雰囲気の仕事を想像していた。

正直、僕は学歴で言えば商業高校卒。
いわゆる学歴がある人じゃない。

でも昔から学校の勉強はできたし、友達に教えるのも先生より上手いと思っていた。

「僕ならなんとかなるだろう」

そんな軽い気持ちで、面接を受けることにした。

何より、時給が魅力的すぎた。

僕の地元では、当時の最低賃金が630円。
その中で、家庭教師の仕事は時給1,000円。
高校卒業したての僕には、破格の金額だった。

でも——今振り返ると、
「この時、お金で仕事を選んで本当に良かった」と心から思う。

なぜなら、当時の僕は「ビジネスとして学びが得られる仕事」ばかりを優先していたからだ。
もしこの仕事が、時給800円だったら……
たぶん僕は、この面接を受けていなかった。


面接の日。
指定された住所を訪ねると、そこは地元でも知られた有名なお店だった。

面接官は30代後半の、若い二代目の社長さん。
僕は今でも、この人に出会えたことに心から感謝している。

家庭教師の内容は、社長さんの息子さんの勉強を見ること。
その子はまだ小学校低学年で、不登校だった。

いじめが原因ではなく、
「勉強についていけなくなったこと」がきっかけで、
だんだんと学校に行きづらくなってしまった——そんな話だった。

僕はそれを聞いて、ふと肩の力が抜けた。
受験対策とか、難しい問題をバリバリ教えるんじゃなくて、

「この子に寄り添うことが求められてるんだ」

と感じたからだ。

面接中、学歴のことは一度も聞かれなかった。
勉強の話も、ほとんどなかった。

代わりに聞かれたのは、家族構成、普段の過ごし方、夢の話。
あとは、僕が自衛官も営業職もすぐに辞めてしまったこと——それも、正直に話した。

社長さんは、僕が“何ができるか”ではなく、“どんな人なのか”を見てくれていた。

「この人なら、あの子のそばにいられるか」
その一点だけを、必死で見極めようとしていたんだと思う。


家庭教師のはずなのに、教えることは自由だった


この家庭教師の仕事、最初に驚いたことがある。

それは、

「何を教えてもいい」と言われたことだった。

勉強を無理にやらせなくていい。
そのかわり、

決められた時間をその子と一緒に過ごしてほしい——そう言われた。

家庭教師なのに、勉強を教えなくてもいいなんて。
当時の僕には、それがすごく不思議だった。

「どういうことなんだろう」
そんな戸惑いを抱えながら、僕は初日を迎えた。

もうひとつ、この仕事で特別だったことがある。

それは、

勤務時間すら自由に決めてよかったこと。

基本は夕方の時間帯にしていたけど、細かい時間まですべて僕に任せてくれた。

そして、気づけば“習慣”になっていたことがある。

家庭教師の時間が終わると、そのまま家族と一緒に晩御飯を食べていた。
専務(社長さんのお母さん)、社長さん、奥さん、お子さん二人、
僕が担当していた男の子と、その妹さん——

その輪の中に、家庭教師の僕も、自然に座っていた。

しかも、
その晩御飯の時間も、勤務時間としてカウントしてくれていた。

でも、「何をしてもいい」と言われたことで、僕は逆に迷ってしまった。

勉強を教えなくてもいい。
好きな時間に来て、ただ一緒にいてくれればいい——

そんなふうに言われたけど、じゃあ僕は、何をすればよかったんだろう。

この子のために、どんな時間を過ごせばいいんだろう?
信じてくれたこの家族のために、何ができるんだろう?

ただ教えるだけなら、やり方はある。
でも「向き合う」って、どうすればいいのかがわからなかった。

当時の僕は、まだ何者でもなかった。
夢はあっても、何かを成し遂げたことはなかった。


それでも——この家族は、僕を信じてくれていた。

普通だったらあり得ないほどの自由さと信頼を、
僕という未完成な存在に託してくれていた。

だからこそ、僕は本気で悩んだ。

「この子にとって、僕という存在がどんな価値を持てるのか」

それを、毎日のように自分に問い続ける日々が始まった。


教えていくうちに、僕はすぐに気づいた。


この子は、決して「頭が悪い」わけじゃなかった。
むしろ、ひらめきや反応の早さは、同年代の中でも群を抜いていた。

そして、身体能力がとても高かった。
もともとは空手を習っていて、地域でもトップクラスの実力だったらしい。

でも、学校に行けなくなってから——
空手も辞めてしまったのだという。

きっと、この子の中にはたくさんの“自信の芽”があった。
でもそれが、ひとつずつ潰されて、
「自分にはできない」「居場所がない」って思い込んでしまった。

じっと座って勉強をするのが苦手で、すぐに机を離れてしまうことも多かった。
最初のうちは、どう対応していいか僕も戸惑った。

でも、それは「集中力がない」とかじゃなかった。
この子にはこの子なりの、エネルギーの流し方があったんだと思う。

実はこの子とのやりとりは、
僕が後に親になって、子どもと向き合うときに大きく影響を与えてくれることになる。

当時はそんな未来、まったく想像していなかったけれど——

「子どもは、能力じゃなく環境で変わる」

その感覚が、僕の中に静かに芽生えはじめていた。


1ヶ月もすると、人は不思議と慣れてくる


いつの間にか、僕にとってこの仕事は“仕事”ではなくなっていた。

「家庭教師として働いている」というよりも、
「慣れ親しんだ家族の家に、顔を出しに行く」ような感覚で、毎日通っていた。

最初は、普通に勉強を教えようとしていた。
でも、上手くいかなかった。

何かを説明しても、じっと聞いてくれない。
すぐに飽きてしまう。手遊びを始める。席を立つ。

イライラはしなかったけど、「このままでいいのか」という迷いはあった。

そこで、僕は自分なりの目標を考えた。

この子が、僕と過ごす期間のうちに学校へ行けるようになること。
でも、本当に目指すのは——
この子が、もう一度“自信”を取り戻すことだった。

そう決めたときから、僕は“普通に教える”のをやめた。


気づけば僕は、雇用主である社長さんのことを「お父さん」、
奥様のことを「お母さん」と呼ぶようになっていた。

専務(社長さんのお母さん)のことは、
家族が呼んでいたのと同じニックネームで、「〇〇ちゃん」と呼んでいた。

——実は、専務は敬語で呼ばれるのを嫌がっていた。
だから僕も、自然とその呼び方になっていた。

そういう呼び名が当たり前になっていたこと自体、もうすでに“ただの家庭教師”ではなかった証だと思う。

お父さんからは、こんなふうにも言われていた。

「お母さんと子どもたちと一緒に出かけたり、自由に提案してくれていいよ」
「俺は平日なかなか抜けられないから、任せてるからね」

家庭教師という枠を越えて、“もうひとりの家族”としてそこにいることを、
この家族は受け入れてくれていた。

そしてある日からは、お母さんのほうからも、
「今度一緒に○○に行ってみようか?」と、お出かけの提案をもらえるようになった。

その時間が、ただ楽しいだけじゃなくて、
お互いの距離を少しずつ縮めていくのに、とても大きな意味を持っていたことを、今はよくわかる。


僕は平日によく、子ども向けの遊び場がある施設へのお出かけを提案していた。

理由はシンプルだった。

外に出るきっかけをつくってあげたかった。
そして何より、同学年の子がいない状況で、のびのびと身体を動かしてほしかった。

学校に行けないことや、周囲との比較がある場所ではなく、
「この子自身のままで、全力で楽しめる空間」を用意したかった。

これが功を奏したのか、
勉強に向かえる日が、少しずつ増えていった。

「明日あそこに行けるなら、今日はここまで頑張るよ」

そんなふうに、自然と**“やる気の会話”**が交わせるようになった。

勉強の内容よりも、やり方よりも、
この子にとって大事だったのは、「安心できる未来」が見えていることだったのかもしれない。

もうひとつ、この時期に始めた習慣がある。

それは、
**その日覚えたことを、晩御飯のときに「発表する」**という時間をつくること
だった。

たとえば、足し算をやった日なら「今日はこれを覚えたよ」って披露する。
簡単な読み書きをした日には、お母さんや〇〇ちゃん(専務)に向けて読んでみせる。

そんな時間が、毎日の夕食の場に、自然と組み込まれていった。

これが、今でいう「アウトプット」になっていたんだと思う。


人は、覚えたことを言葉にして伝えた瞬間に、初めて“自分の力”として実感できる。

そしてそのたびに、「すごいね!」「よく頑張ったね」と
お父さん、お母さん、家族みんなが声をかけてくれる。

その声が、この子の中にあった“自信の種”を、
少しずつ、でも確実に育ててくれていた。

褒められる経験。
認められる経験。
それは、問題集じゃ得られない“心の学び”だった。


楽しい時間は、いつまでも続くわけじゃない。


ある日、父の転勤が決まった。
そして、僕にも“別れ”のタイミングがやってきた。

父は、長年公務員として真面目に働いてきた人だった。
その父が、省庁間配転という形で県外へ異動することになった。
新しい職種は「刑務官」。
環境も仕事内容も、まったく違う世界だった。

僕は双子で、5人兄弟の長男だ。
当時、まだ学生の弟や妹が3人もいた。

そして、刑務官として働いていた親戚からは、こんな話を聞いた。

「お父さん、多分あの仕事は長くは続かないと思うよ」

——だから僕は、考えた。

少しでも、父が長く続けられる方法はないだろうか。

そうして選んだのが、自分も同じ職場に入ることだった。

2度目の公務員試験。

結果的に、僕は父と同じ施設で働くことになった。

……この話は、ここでは割愛する。
でも、それもまた、僕が“働く”ということと、真剣に向き合うきっかけの一つだった。

僕は、公務員試験に向けて自分の勉強を始めることを、お父さんに伝えた。

「もし受かったら、家を出ることになります」

そう話したとき、お父さんは驚いていた。

……いや、本音を言えば少し寂しそうだったのかもしれない。

というのも、その頃にはもう、
「うちで働かないか?」と何度も誘われるほど信頼関係ができていたからだ。

僕も正直、満更じゃなかった。
時々、お店の手伝いをさせてもらうこともあったし、
「このままここで働いていくのも悪くないな」って、思ったこともある。

でも、僕は一度決めたらやりきりたいタイプだった。
そして、期間が決まったからこそ、「最後に何を残せるか」を本気で考えた。

そのときに始めたのが、教え子が通っていた空手道場に、僕自身が通うことだった。

彼が学校に戻れなくても、
空手という居場所に戻る“きっかけ”を少しでもつくれたら——
そんな思いからだった。

もともと身体を動かすのは好きだったし、
お金を払って通うことにも、何の抵抗もなかった。

道場の師範代には、最初にすべて話した。

「実はあの子の家庭教師をしていて、今は来られていないけれど、
少しでも道場が身近に感じられるようになればと、自分が通うことにしたんです」

「いずれは辞めることになるかもしれませんが、どうか…ご理解ください」

そうして、僕は彼のいない道場に、静かに通い始めた。


その後、僕は無事に、2度目の公務員試験に合格した。

だけど——
それは、やりたかった仕事ではなかった。

だから、父と同じ施設に勤務できないのなら、辞退するつもりだった。
自分の意思ではなく、家族のことを考えて選んだ道だったからこそ、
中途半端な妥協はしたくなかった。

父の省庁間配転は、当時としてもイレギュラーな人事だった。
刑務所の所長さんも、その事情を理解してくれていた。

僕は、面接で全てを正直に伝えた。

「ここで働けないなら、合格した権利は捨てます」

そう話したとき、所長さんは黙って頷いていた。

後に「人格者」と呼ばれていたその所長さんが、
僕の思いを汲み取ってくれて、希望する勤務先を用意してくれた。

本当に、感謝してもしきれない。

……ただ、これだけは誤解のないように伝えておきたい。

これは決して、誰にでも起こる話ではない。

僕のようなケースは、あまりにも稀だ。
時代の背景や、運や、ご縁。
そうしたいくつもの偶然が重なって、結果的に僕は望む形で働けたに過ぎない。

だからこそ僕は——
「人とのつながり」と「誠実に生きること」の大切さを、今もずっと信じている。



そして別れの日がやってきた

その後、家庭教師の仕事は、僕の就職が決まったことで区切りを迎えた。

ギリギリまで働かせてもらい、最後の日、
退職の挨拶をした僕に、専務(〇〇ちゃん)から贈り物があった。

それは、人生初のブランド財布。

そして、特別ボーナスまでいただいた。

財布はその日から大切に使い続けた。
社会人になっても、転職しても、起業を志したときも、
ずっと、どこに行くにもその財布と一緒だった。

13年が経って、ようやく壊れてしまったけれど、
あれほど長く、心ごと持ち歩いたものは、他にない。

……僕が就職してから、少し時間が経ったころだった。

あの子が、学校に行けるようになったという噂を耳にした。

そして、かつて辞めてしまった空手を再開し、
見事に活躍していることも——後から、知った。

直接会ったわけではない。
連絡を取ったわけでもない。

それでも、「信じて良かった」と思えた。

僕があの家族からもらったものは、今でも心の中に生きている。


3章:店長という“上のポジション”を経験して、気づいたこと


僕はこれまで、20回以上の転職を経験してきました。

雇用形態も正社員、アルバイト、派遣、契約社員と、ほぼすべてのスタイルを経験しています。


飲食店で店長を任されることもありました。

売上管理、人材育成、仕入れとロスの調整、クレーム対応、接客指導——
いわゆる“現場を回す責任”をすべて担っていた。

それは社会的に見ても、会社員として一定の信頼や地位を得たポジションだったと思う。

でも、あるときふと気づいたんだ。

「会社員として昇進し続けることに、僕は価値を感じられなかった」

役職が上がれば、責任も重くなる。
評価される場面も増えていく。
やりがいだって、確かにあった。

でも、そのどれにも僕の心は長く動かなかった。

「上を目指し続けること」そのものが、目的になってしまっていたから。

このまま昇進し続けた先に、本当に僕の人生はあるのか?
そう問いかけた瞬間に、それまでのキャリアが、少しだけ遠くに感じた。

それでも、管理職を経験して本当によかったと思ってる。

正直に言えば、管理職ってわりに合わない。
責任ばかり重くて、報われる感覚が薄いこともある。
今の時代、「やりたくない」と思う人が多いのも、すごくよくわかる。

でも、それでも僕はこう言い切れる。

「いつか自分で何かをやりたい人こそ、管理職は絶対に経験すべきだ」と。

なぜなら、どんなビジネスでも、
「人を動かす・任せる・育てる」という場面は絶対にやってくるから。

しかもそれを、給料をもらいながら学べる環境って、なかなかない。

そしてそもそも、管理職って誰でもなれるわけじゃない。
選ばれて初めて、経験できるものだ。

それは、努力が実を結んだ証だと、僕は思ってる。

今になって、あの経験が活きている。

noteでの発信も、LINEでの1対1の相談も、
言葉や関係性で人と向き合うことに、僕は全力を注いでいる。

でも、相手の話をちゃんと聞くこと、気持ちを汲むこと、
状況を冷静に判断して言葉を返すこと——

それは全部、あのときの店長経験で学んだ「現場を見る力」から始まっている。


最終章:ここまで読んでくれたあなたに、新しい生き方を提案したい


僕は今、派遣社員として働いています。
正社員になれなかったからじゃない。
自分の時間と未来を、自分で設計するために選んだ働き方です。

20回以上の転職を経て、いろんな雇用形態を経験してきた僕だからこそ、
あえて今、胸を張って言いたい。

派遣という働き方は、時代に最も合った「しなやかで強い選択肢」だと。



ビジネスの視点から見た、派遣の4つの強み

1. 人間関係リスクを“構造的に回避”できる

離職理由の1位は「職場の人間関係」。
派遣は1〜3ヶ月単位で職場を変えられるから、ミスマッチを早期に修正できる。
これは、精神的安全性を確保する設計された柔軟性です。


2. 待遇・制度を“持ち運べる”という合理性

派遣元が同じであれば、有給や保険などが引き継がれる。
職場が変わっても、キャリアがリセットされない。
これって、正社員よりもキャリア設計に強い面すらあると思うんです。



3. 副業・育児・学び直しに最適な“時間設計”

週4勤務や時短契約が可能だから、僕は家事育児とビジネス挑戦を両立できています。
時間=資本という視点で見れば、派遣はまさに“資本の自己裁量性が高い働き方”。



4. 企業側にとっても合理的な“戦力”

DX・AI・業務効率化が進む中で、
企業はコスト最適化と柔軟なリソース設計を進めています。
派遣は「人件費の変動費化」にも対応できる存在として、戦略に組み込まれているんです。


このnoteは、僕にとって「宣言」です


このnoteは、#仕事について話そう という応募企画のために書いたものです。
でも、僕にとっては単なる応募ではありません。
これまで積み重ねてきた働き方のすべてを、一つの言葉として結晶させる作業でした。

提携企業の皆さんが「派遣という働き方を応援する姿勢」を打ち出してくれていること。
それがどれだけ励みになったか、言葉では言い表せません。



“れれちー”という生き方を、仕事に変えていく

これからも僕は、
「働き方に悩む誰かの力になれる言葉」を届けていきます。

この応募が、単なる企画への参加ではなく、
僕という人間の“働き方そのもの”を表すアクションだったと伝われば、これ以上嬉しいことはありません。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
このnoteでは、人生を見つめ直す“問い”と“言葉”を毎朝届けています。
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他の記事も #れれちー からご覧いただけます。



応募企画に投稿するか迷ってるあなたへ

僕なりの考察記事を書きました。⬇️
アイディア出しの参考になれば幸いです。
※2025.5.17 現在、応募は終了しています。



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