TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第5幕の感想と考察~シタラとドレゲネ、ジャダ石が導いた運命の出会い
TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第5幕を見ましたので、今回も感じたことや気づいたこと、興味を引かれた点などをいろいろと語っていきたいと思います。
第5幕で描かれたのは、シタラがこれまでとは違う形でモンゴル帝国の政治の中枢へと足を踏み入れていく、その序章ともいえる物語でした。そして、いよいよドレゲネとの本格的な出会いが描かれました。
他の方の感想の中で、「出会ってはいけなかった二人」と表現されている方もいます。故郷も立場もまったく違う二人ですが、その心の奥底には「モンゴルによって人生を大きく変えられた者」としての、共鳴する激しい感情が渦巻いていました。
長い年月の中で消えかけていた復讐の炎が、互いの存在によって再び燃え上がる。そんな二人の、運命的な出逢いでした。
シタラとドレゲネを結びつけた「ジャダ石」
今回、シタラとドレゲネを結びつけたのは「ジャダ石」でした。ドレゲネは自身のジャダ石が盗まれたと考えており、「ジャダ石を持つ女がいる」という報告からシタラに疑いの目を向けます。
ドレゲネ自身とジャダ石との関係については、次回の第6幕で書きたいと思いますので、今回は詳しく触れません。ここでは、作中でも説明されていた「ジャダ石」について少しまとめたいと思います。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
作中でも説明されていましたが、「ジャダ石」とは、モンゴルや中央アジアの諸民族の間で、雨や雪、風、嵐などを呼び起こすと信じられていた「ジャダ術」に使われた不思議な石です。モンゴルでは、カム(巫術師)がこれを水に浸すことで天候を操ることができるとされ、雨乞いの儀式などにも用いられていました。
その正体については諸説ありますが、本作で扱われているのは牛や馬などの動物の消化器官内にできる結石、いわゆる「ベゾアール」です。ペルシャ語で「毒を防ぐもの」「解毒剤」を意味する言葉に由来し、中世のイスラーム世界やヨーロッパでは、毒を中和する力があると信じられ珍重されていました。
同じ一つの物体であっても、文化が違えばそこに見出す「力」も変わります。シタラにとっては故郷で「薬」として知られていたものが、モンゴルでは「魔術の石」として扱われている。この小さな石一つに、ペルシャ・イスラーム世界とモンゴル世界の文化の違いが見事に凝縮されています。
なぜ人間は「石」に力を感じるのか
このジャダ石の描写を見ていて、私は1年前に放送され、当ブログでも全話考察を行った『瑠璃の宝石』を思い出しました。あの作品の中心にあったのも「石(鉱物)」です。
人間は古くから、単なる物質以上の神秘性や宗教的な意味を石に与えてきました。宝石を身につけるのも、単なる装飾ではなく、魔除け、幸運の引き寄せ、病の退散など、目に見えない力が宿ると考えられてきたからです。
例えば、日本や中国で古くから使われてきた「辰砂(しんしゃ)」。現代の科学では硫化水銀を主成分とする危険性を持つ物質とされていますが、かつての人々はその鮮やかな赤色と希少性に特別な力を感じ、宗教や錬丹術、伝統医学と深く結びつけてきました。
動物の消化器官という特異な場所から生まれるジャダ石も同じです。「普通ではない生まれ方をしたものには、特別な力が宿る」。この発想はモンゴル特有のものではなく、世界各地の人類に共通する根源的な感覚なのでしょう。
そして本作におけるジャダ石は、単なる歴史解説の小道具に留まりません。
ペルシャでは「人を救うもの」、モンゴルでは「嵐を呼ぶもの」。
やがてシタラとドレゲネが手を結び、モンゴル帝国そのものに巨大な嵐を巻き起こしていく未来を暗示する、二人の物語そのものを象徴するアイテムとして機能しています。
シタラ、ついに政治の世界へ
第5幕では、ジャダ石を巡る騒動と並行して、シタラがモンゴル帝国の複雑な政治闘争に巻き込まれていく様が描かれます。シタラは、ソルコクタニから密偵として、チャガタイのもとへ潜入するよう命じられました。
チンギス・カンという圧倒的なカリスマの死後も、モンゴル帝国は表面上の平穏を保っています。しかし、その内部は決して一枚岩ではありません。巨大化した帝国には多種多様な民族・宗教が混在し、王族たちもそれぞれ独自の軍隊や領地を抱えています。
ソルコクタニが特に警戒しているのが、オゴタイとトルイの間に生じた「権力のねじれ」です。大カアン(皇帝)として「政治的権威」を持つオゴタイとチンギス・カンの本拠地と帝国最大の「軍事力」を受け継いだトルイ。
この二人の均衡が崩れれば帝国は割れます。そこで鍵を握るのが、兄であるチャガタイの動向です。彼がどちらに付くかで勢力図は一変するため、ソルコクタニは警戒を強めていました。
そこで白羽の矢が立ったのが、モンゴル王族に属さず、西方の出身であるシタラです。これまで『原論』を取り戻すという個人的な目的で動いていたシタラですが、ついに王家の権力争いの駒として利用され始めます。物語のスケールが一段階大きく引き上げられた瞬間でした。
ドレゲネがシタラを救った理由と、共鳴する「恐れ」
計画は思わぬ方向へ転がります。ジャダ石の持ち主と誤解されたことでシタラはカダクに連れ去られ、ドレゲネと対面。誤解は解けたものの、直後にオゴタイとチャガタイの宴席の近くで不審人物として捕らえられてしまいます。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
絶体絶命の窮地に陥ったシタラ。とっさに「主人はドレゲネ」と嘘をつきますが、そこに当のドレゲネ本人が現れます。しかし、ドレゲネはシタラを突き放すどころか、「私が彼女にオゴタイ暗殺を命じた」というとんでもない狂言を口にして彼女を救いました。
なぜ、そこまでのリスクを負ってドレゲネはシタラを助けたのでしょうか。 天幕へ戻ったシタラからの問いに対し、ドレゲネは「その笑顔が気に入ったから」と答えます。これは単なる笑みではなく、チャガタイからイスラーム教徒を侮蔑された際に見せた、服従しつつも心までは屈していない「不敵な笑み」のことです。
チンギス・カンの息子を前にしても、己の文化や信仰への誇りを捨てないその表情に、ドレゲネは自分自身を重ね合わせたのではないでしょうか。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
「モンゴルが憎いか」——薄れゆく憎しみへの恐怖
ドレゲネはシタラに「モンゴルが憎いか」と問います。シタラが「私からすべてを奪った。許せない、許しちゃいけない…」と答えると、ドレゲネはこう返します。
「それでも、時間が経つと許してしまいそうになる」
この言葉にハッとするシタラの描写は、第5幕でとても印象的で美しい心理描写でした。 シタラがモンゴルへ連れて来られてから8年。最初はすべてが憎かったはずなのに、言葉を覚え、生活に慣れ、人々と笑い合い、ソルコクタニとも単なる主従を超えた絆を築きつつあります。日々を懸命に生きるうちに、自分がモンゴルを憎んでいることさえ忘れそうになる瞬間がある。
それは、ドレゲネも全く同じでした。「モンゴルの中で生きるしかなくなった者」が抱える、憎しみが日常に風化していくことへの恐怖。境遇は違えど、二人が抱える心の空洞の形は驚くほど一致していたのです。
「私の話を聞いてくれる?」
ドレゲネは、権力者の妻でありながら、この広大な宮廷で同じ痛みを共有できる相手が一人もいませんでした。彼女がシタラに対して、命令ではなく対等な相手として過去を語り始めるこのラストシーンは、鳥肌が立つほどの引きの強さを見せてくれました。
モンゴル王家の妃「カトゥン」たち
今回、ドレゲネの他に第三妃キルギスタニ、第四妃モゲといったオゴタイの妃(カトゥン)たちが登場しました。第一妃「大カトゥン」ボラクチンは第7幕から登場します。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
13世紀のモンゴル王家の妃たちは、私たちが「後宮(ハレム)」と聞いて想像するような、ただ皇帝の寵愛を待つだけの存在ではありませんでした。
彼女たちはそれぞれが「オルド」と呼ばれる独自の宮廷や幕営を持ち、莫大な家畜や財産、遊牧民、侍女、さらには護衛の軍隊までをも管理していました。 宴席や使節との会見、そして「クリルタイ(最高意思決定会議)」などの公的な場にも出席し、国政に強い発言力を持っていました。
特に重要なのが「誰の息子を次期カアンにするか」という後継者争いです。妃たちは実家の部族勢力や官僚との人脈を駆使し、苛烈な政治闘争を繰り広げます。
ドレゲネは現在「第六妃」という立場ですが、オゴタイの死後、自ら監国(摂政)としてモンゴル帝国の実権を握り、息子グユクを大カアンへと押し上げていくほどの恐るべき政治力を発揮する人物です。彼女のしたたかさは、こうしたモンゴル特有の女性の政治基盤の上に成り立っています。
緻密な時代考証と秀逸なアニメーション演出
第5幕でも、当時の文化や生活様式を反映した細やかな描写が随所に光っていました。
①小柄でも驚異的なタフさを持つモンゴル馬
作中に登場する馬は、現代のサラブレッドのように脚が長く華奢な姿ではなく、小柄で首が太く、がっしりとした体形で描かれています。これは13世紀のモンゴル軍を支えた草原馬の特徴を正確に捉えています。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
13世紀頃のモンゴルで使われていた馬は、現在のモンゴル馬につながる小型で頑健な草原馬が中心だったと考えられています。
体高120~140cmほどの彼らの最大の武器は、その驚異的な持久力と環境適応力でした。粗食に耐え、雪をかき分けて草を食べるこの馬たちを、一人の騎兵が数頭連れて交代で乗り継ぐことで、モンゴル軍は他国には真似できない長距離・高速遠征を可能にしていたのです。

② 言葉よりも雄弁な「手元の芝居」
私が特に唸らされたのが、シタラの手引きをするために現れたシラが、馬の手綱をロープに素早く結びつける場面です。
ほんの一瞬のカットですが、この流れるような手際を見せるだけで、「シラもまた、この8年間で遊牧民としての生活を完全に身体に染み込ませている」という事実を、言葉ではなく絵で見せています。
この「手元の芝居」は、第4幕のナイフで肉を削ぎ落として食べる場面でも見られました。モンゴルでの生活を絵で見せる卓越した演出です。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
③緊張と緩和を操るコミカルな演出
第5幕では、もう一つ楽しかったのが、シタラのコミカルな表情です。シリアスな展開が続く中、心を和ませるシーンが多く見られました。その中でも私のお気に入りは、シタラがカダクに連れ去られる場面です。二人のやりとりは非常に効果的な清涼剤になっていました。
無理やり馬に乗せられたシタラが、カダクの「何だ重たいな」という失礼な言葉に「は?」と固まる瞬間の、あの絶妙な表情。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
ただ、すぐに「逃げんなよ、盗っ人め!」と言われて「はぁ?」と驚いたようにカダクに目を向けます。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
しかし、次の瞬間馬が勢いよく走り始めたため、シタラは今度は馬につかまるのに必死です。「あなた誰です?チャガタイ家の迎えの方じゃないんですか!?」

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
カダクは「ラクダと言うとヤギと言う※とんだ見当違いということだ」と少し呆れたように答えています。
関根明良さんの名演技もあって、シタラの一味違った人間味が表現されています。この直後にドレゲネとの重厚な対話が控えているからこそ、このコミカルな場面が緊張の糸を一度緩め、次の展開へのコントラストを際立たせています。
※「ラクダと言うとヤギと言う」は、実際にモンゴルに伝わることわざで、「見当違いなことを言う」「話がかみ合わない」といった意味があります。日本語でいう「トンチンカンなことを言う」に近い表現です。こうした何気ない会話の中にもモンゴル固有のことわざを取り入れているあたり、本作の細かな文化描写には感心させられます。
「出逢ってしまった」二人
以上、第5幕について、今回もいろいろと書いてきました。ジャダ石という一つの小さな結石をきっかけに、歴史に翻弄された二人の女性が出逢いが描かれました。
働き、食べ、眠る。そんな日々の生活の中で、憎しみが日常へと溶けていくことに抗い続ける二人。一人ならば一滴の雨粒だったかもしれませんが、二人が出逢ったことで、やがて帝国を揺るがすほどの嵐へと変わっていきます。
第5幕は、シタラの物語が単なる「『原論』を取り戻す物語」から、「世界帝国の歴史そのものを動かす物語」へと転換した、シリーズ全体を見渡しても極めて重要なターニングポイントでした。
次回、第6幕ではいよいよドレゲネの口から彼女の凄絶な過去が語られます。「神回」と名高いこのエピソードをどのようにまとめようか、今から胸の高鳴りが抑えられません。それでは、また。
