TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第2幕の感想・考察~知は滅びず、命は神へ帰る
TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第2幕について、物語の感想や考察を語っていきたいと思います。
テレビでは第1幕と第2幕が一挙放送されたため、本来なら2話分をまとめて書くつもりでした。しかし、第1話だけでかなり長くなってしまったので、今回は第2幕の感想と考察です。
(「ファーティマ」については、第2幕では、シタラの主人である「奥様」のことを指します。)
モンゴル軍によるホラーサーン地方征服
第1話の記事でも触れましたが、モンゴル軍の征西は、1219年、ホラズム・シャー朝がモンゴルの使節を殺害した事件を契機に始まりました。チンギス・カンは報復のために大軍を率いて中央アジアへ侵攻し、ブハラやサマルカンドなどの主要都市を次々と攻略していきます。
そして1221年には、現在のイラン北東部からアフガニスタン北西部に広がるホラーサーン地方が本格的な攻撃を受けました。チンギス・カンの末子トルイが軍を率い、メルヴ、ニーシャープール、ヘラートなど、イスラーム世界を代表する都市を包囲・占領します。抵抗した都市では住民に対する大規模な殺戮が行われ、特にメルヴやニーシャープールは壊滅的な被害を受けたと伝えられています。
ニーシャープールについては、年代記に次のような記録があります。
1221年、トルイ率いるモンゴル軍はニーシャープールを包囲し、数日間の激戦の末に城壁を突破しました。歴史家ジュヴァイニーによれば、軍は市内へ入ると殺戮と略奪を開始し、生き残った男女を城外の平原へ追い立てました。
以前の戦闘でチンギス・カンの娘婿トガチャルが死亡していたため、その報復として都市を徹底的に破壊し、「犬や猫さえ残さない」よう命じられたと伝えられています。職人として選ばれた約400人だけがトルキスタンへ連行され、ほかの住民は殺害されたとされます。
さらに男女や子どもの首が分けて積み上げられ、建物や宮殿、庭園も地面と同じ高さになるほど破壊されたと記されています。ニーシャープールは財産や物資を奪われ、東方イスラーム世界を代表する商業・文化都市としての繁栄に壊滅的な打撃を受けました。
このくだりは作中でも、ニーシャープールから連れてこられた職人の言葉として語られています。もちろん、こうした破壊や虐殺の記述には、惨状を強調する文学的表現が多く、犠牲者数などは誇張されていると考えられています。作中でのチンギス・ハーンの言葉、
「わが血族をそこなった『悪い都市』、目に映る全ての生命を奪え、犬、鳥の一匹も残してはならない」
という言葉も、史料に見られる表現をもとにしていると考えられます。ただ、後世にそのような形で語られるほどの惨劇が実際に起きたのではないかと想像せずにはいられません。
エウクレイデスの『原論』とナスィールッディーン・トゥースィー
トゥースの町に侵攻したモンゴル軍は、破壊と略奪の限りを尽くしました。ファーティマの屋敷もその例外ではありませんでした。ファーティマの屋敷には、モンゴル軍の総大将であるトルイ自らが訪れ、ある書物を探していました。それはエウクレイデスの『原論』でした。おそらく通訳をしていたシラが案内したのでしょうが、学者の家ならば、『原論』が所蔵されていると見当をつけていたのだと思われます。
では、遠くモンゴルから遠征してきたトルイが、わざわざ手に入れようとしたエウクレイデスの『原論』とは、どのような書物なのでしょうか。
「エウクレイデス」という名前よりも、英語名の「ユークリッド」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。いわゆる「ユークリッド幾何学」を体系的にまとめた書物が、この『原論』です。以下、簡単にまとめてみました。
『原論』は、紀元前3世紀ごろ、古代ギリシアの数学者エウクレイデスによって編纂された全13巻の数学書です。内容は三角形や円などの平面幾何学を中心に、比例論、整数論、無理量、立体幾何学、正多面体まで幅広く扱っています。
特に重要なのは、限られた前提から定理を積み重ねていく「公理的な方法」を体系化した点です。内容のすべてがエウクレイデス自身の発見というわけではなく、それ以前のギリシア数学の成果を整理・集成したものと考えられています。
『原論』は長く数学教育の基本書として用いられ、近代科学における論理的思考や証明の方法にも大きな影響を与えました。
イスラーム世界では、9世紀ごろからアラビア語に翻訳され、中世イスラーム数学における幾何学研究の基礎となりました。単に古代ギリシアの知識を保存しただけではなく、ナーイリーズィー、イブン・スィーナー、ウマル・ハイヤームらが注釈や批判を加え、内容を発展させていきます。13世紀にはナスィールッディーン・トゥースィーも、それまでの諸訳を検討し、『原論』の校訂版を作りました。
学者だったファーティマの亡夫も、この『原論』を研究していたのでしょう。ファーティマは、夫が集めた『原論』の写本を大切に保管していました。
しかし、トルイはその写本を奪い、持ち帰ろうとします。そして、『原論』をトルイから取り返そうとしたシタラを守るため、ファーティマはモンゴル兵に斬られ、命を落としてしまいました。
ここまで書いて、ふと思ったことがありました。『原論』の解説で名前が出てきたナスィールッディーン・トゥースィーという人物は、その名のとおりトゥースの出身です。もしかすると、ファーティマの亡夫がこの人物なのではないかと思い、調べてみることにしました。
このあたりの私の推測をAIに質してみたところ、その答えは、ナスィールッディーン・トゥースィーこそファーティマの息子ムハンマドで、ほぼ本人として登場しているとのことでした。※
史実のナスィールッディーン・トゥースィーは、1201年にトゥースで生まれた、ムハンマドという名の学者です。若いころにニーシャープールで学問を修め、後に数学・天文学・哲学などの分野で大きな業績を残しました。エウクレイデスの『原論』についても、それまでの翻訳や注釈を整理した校訂版を著しています。
トゥースという舞台、ムハンマドという名前、ニーシャープールへの遊学など、設定は見事に一致しています。作中でもムハンマドの紹介の中で「後に高名な学者となった」との説明がありました。
1201年生まれということで、第1話でシタラと出会った1213年は12歳ということになります。ファーティマは将来、シタラをムハンマドのそばに置き、奴隷ではなく一人の人間として結ばせたいと考えていました。しかし、第1話でも語られたとおり、二人が再び出会うことはありませんでした。
第1話でムハンマドがシタラに学問の意味を教える場面は、彼が後世に残す業績を先取りしたものだと考えられます。
シタラにとって『原論』が知恵と希望の象徴となる一方、ムハンマド本人は後にその書物を校訂することになります。二人の人生を『原論』が目に見えない形で結び続けていると読むこともできるでしょう。
史実を巧みに物語へと組み込んだ、とても美しい仕掛けだと思います。
※ナスィールッディーン・トゥースィーについては、モンゴル文化歴史考証で協力している諫早庸一さん(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター特任准教授)及び四日市康博さん(立教大学文学部史学科教授)が公式コメントでムハンマドであることをすでに言及されていました。
モンゴル軍の宿営地「タールカーン」
物語に戻りますが、絶望のあまり町をさまよっていたシタラは、ほかの生存者たちとともにモンゴル兵に捕らえられ、市外へ連行されていきます。
そこで、先に避難していたズルッムドとアニースに再会しました。しかしシタラは、奥様を守れなかったと泣き崩れてしまいます。伯父はモンゴル兵に連れていかれたまま行方不明となり、ズルッムドの弟ミハイルも処刑されてしまいました。
アニースは絶望するシタラに優しく語りかけます。私たちは奴隷だから、責任を負うことさえ認められていない。だから、奥様のことで自分を責めてはいけない。そして、私たちにはまだムハンマドがいる――。アニースはそう言って、ムハンマドに希望を託します。
一行はその後、東へ向かい、モンゴル軍の宿営地が置かれているタールカーンにたどり着きました。
この地にはヌスラト・クーという城塞があり、チンギス・カンが6か月にわたって包囲し、ホラーサーン征服から戻ったトルイの援軍を得て、ようやく陥落させたとされています。シタラたちが到着したのは、包囲戦の最中、あるいは陥落直後だったと推測されます。
この「タールカーン」という場所を特定するのには、かなり苦労しました。
「タールカーン」と検索すると、ウィキペディアではアフガニスタン北部の都市タールカーンが出てきます。当初はここだと思っていました。
しかし、トゥースからモンゴルへ向かう経路としてはかなり遠回りになること、アニメで示された地図と位置が異なるように見えること、周辺都市との距離にも違和感があることから、改めてAIに質問してみました。
すると、この地域にはアフガニスタン北部の都市タールカーンのほかにも、同名または類似した名称の場所が2か所あることが分かりました。しかし、いずれも私が納得できる位置にはありませんでした。
そこで今度は、タールカーンにあったとされる「ヌスラト・クー城塞」が、どこに存在したのかを調べてみることにしました。
しかし、検索しても有力な情報は見つかりませんでした。再びAIに尋ねたところ、遺跡の正確な位置は確定していないものの、現在のアフガニスタン北西部、ゴルマーチからチチェクトゥにかけての地域にあった可能性があり、その中心的な候補地としてカルア・イ・ワリー付近(北緯35.7798度、東経63.7601度)が挙げられるとのことでした。
それが、下の地図に示した「タールカーン」の位置です。

何より、作中の地図で示された「タールカーン」と、ほぼ同じ位置にあるように見えます。そもそも、中世のこの地域に存在した都市や遺跡の位置を特定することは非常に難しく、「タールカーン」以外にも、その所在地について議論が続いている都市や城塞が多いようです。
ズルッムド、アニースの死とクルアーンの一節
このタールカーンで、シタラたちはニーシャープールから連れてこられた職人から町の惨状を聞かされます。そして、ムハンマドの安否さえ絶望的なのではないかと感じてしまいます。
以前から心身ともに衰弱していたズルッムドは、この地で帰らぬ人となりました。彼女の遺体を埋葬する時に唱えられた言葉、
「我々はアッラーのものであり、最終的にアッラーに帰するものである」
は、クルアーン(コーラン)の一節、
「まことに私たちはアッラーのものであり、まことにアッラーのもとへ帰る」
に由来していると思われます。死者が出たときや、大きな災難に遭ったときに唱える言葉で、「イスティルジャー(帰還の句)」と呼ばれています。
「私たちはアッラーのもの」という言葉には、人間の生命や財産は絶対的な私有物ではなく、すべて神から一時的に預けられたものである、という意味があります。また、「アッラーに帰る」とは、死によって神のもとへ戻り、復活と最後の審判を迎えるという信仰を表しています。
したがって、モンゴル軍によって死に直面する場面では、「私たちの生命は侵略者のものではなく、もともと神に属している。たとえ殺されても、最後に帰る先は神である」という信仰が込められていると考えられます。
侵略者に命を奪われる瞬間であっても、人間の最終的な価値や運命を決めるのは、暴力を振るう者ではなくアッラーである――。そのような宣言でもあるのでしょう。
そう考えると、イスラーム教徒にとって、この言葉は最期の瞬間まで神のもとで人間としての尊厳を保つための祈りでもあったのだと思います。そしてアニースもまた、自ら殉教への道を選びました。
第2幕では、モンゴル軍の侵攻によって、シタラを取り巻く多くの人々が帰らぬ人となりました。シタラもまた、絶望のあまり彼女らのあとを追おうとします。しかし、そこに現れたのは、ファーティマの屋敷でモンゴル兵の通訳をしていたシラでした。
このシラとの再会によって、シタラの運命は大きく変わっていくことになります。
このほか、第2幕の作中ででてきたイスラームの慣習について、調べてみました。
サファルに咲く薔薇
まず、第2話のサブタイトルにある「サファル月」です。サファル月とは、ヒジュラ暦(イスラーム暦)の第2月を指します。ムハッラム月の次、ラビー・アル=アウワル月(ラビーウル=アウワル、ラビー=アウワルなども)の前にあたります。
ヒジュラ暦元年の第1月1日は、西暦622年7月16日金曜日、預言者ムハンマドがメッカからマディーナへヒジュラ(聖遷)した日を基準として、その直後に訪れる新月の日と定められています。
サファル月は、太陽暦の特定の月には固定されていません。ヒジュラ暦は月の満ち欠けに基づく太陰暦で、1年が太陽暦より約10~11日短いため、サファル月は毎年その分だけ早い時期へ移動します。例えば2026年のサファル月は、おおむね7月中旬から8月中旬にあたります。
西暦1221年(ヒジュラ暦618年)のサファル月は、1221年3月27日ごろから4月下旬ごろにあたります。モンゴル軍がホラーサーンへ侵攻し、ニーシャープールが陥落したのは4月10日とされています。つまり、作中で描かれたモンゴル軍の侵攻は、まさにサファル月に起きたことになります。
シタラの回想には、「サファル月の次には、花の咲くラビー=アウワル月が来るはずだった」という言葉がありました。
太陽暦ではおおむね1221年5月ごろにあたり、ちょうどバラが咲く季節です。しかしシタラは、ホラーサーンの地に咲くバラを見ることができませんでした。
イスラーム女性の風習ーーヘナによる染色
第1幕でもありましたが第2幕でも、ファーティマの指が褐色に染められているシーンが何度か描かれていました。イスラーム世界の多くの地域には、女性がヘナで指先や爪、手のひら、足を染める風習がありました。ヘナ(Ḥannā/ハンナー)とは、ミソハギ科の植物「ローソニア・インメルミス」の葉を乾燥させて作る天然の植物染料のことです。

染めた部分は赤橙色から褐色になり、指先だけを染めたり、手のひらに草花などの模様を描いたりします。特に結婚式や祝祭、入浴後の身だしなみとして行われました。イランでは、花嫁だけでなく花婿にもヘナを施す婚礼儀礼が知られています。
ただし、これはイスラームの教義によって女性に義務づけられた習慣ではありません。イスラーム以前から続く化粧・装飾文化が、イラン、アラブ地域、北アフリカ、南アジアなどで、それぞれ独自に発展したものです。そのため、地域や時代、身分によって染め方や頻度は異なります。
イランでは、少なくとも10世紀のペルシア詩に「黒く染めた指先」が登場し、13世紀の詩にもヘナで飾られた手が詠まれています。ただし、すべての女性が常に染めていたというより、若い女性や既婚女性が、婚礼や祭礼などの特別な機会に行う習慣だったようです。
以上、第2話の感想と考察でした。ここまでが物語全体でいえばほぼ導入部分です。次回の第3幕から舞台はモンゴルへ移り、シタラの人生はさらに大きく動き始めます。
それではまた、次回。
