TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第3幕の感想と考察~シタラの決意「ファーティマ」の誕生とユーラシアを結ぶ知の旅
TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』第3幕を見て、感じたことや気づいたこと、興味を引かれた点などを語っていきたいと思います。「考察」というのもおこがまし感じもしますが、今回も物語の背景にある歴史を調べながら、徒然なるままに書いてみます。
「ファーティマ」として生きる決意
物語はタールカーンの地で、シタラとシラが再会するところから始まります。シラが近づいてきたのは、単に旧知の少女を心配していたからではありません。彼自身もまた、自分の身を守り、モンゴルの支配下で生き残るための道を探していました。
シラはシタラに、奪われた『原論』を取り返さないかと持ちかけます。そのためには、トルイの妃ソルコクタニに『原論』の内容を教える役目を引き受け、彼女の側仕えになることを推めます。
しかし、シタラにとって『原論』は、ただの書物ではありません。それがトルイの妃への土産として奪われ、その過程で奥様が命を落としたのだと思うと憎しみがこみ上げ、そのような提案は到底受け入れられないと、彼女は反射的に拒絶しかけます。
そのときシタラが思い出したのが、ムハンマドの「今、何をすべきか」という言葉でした。奪われたものを取り戻すためには、憎しみさえ押し殺して、利用できるものを利用しなければならない。第1幕で「生きるために学ぶ」ことを教えられた少女が、第3幕では早くも、その知識を生き残るための武器に変えようとしていていました。
そして、シラの提案によって、シタラは今後「ファーティマ」と名乗ることになります。亡き主人の名を受け継ぐことは、身分を偽るための方便であると同時に、彼女の記憶と意志を背負う行為でもあるのでしょう。
「ここにあるものは、すべて私の敵。最後まで抗うわ。たった一人ででも」
この決意は、シタラのモンゴルに対する復讐の第一歩と言える場面です。彼女はこのときまだ13歳ですが、苛烈な環境に耐えながら灯火の如く復讐の炎が静かに燃え上がり始めました。危うくも激しい怒りが、この場面には凝縮されていたように思います。
実在の女性を通して描くモンゴル史
この『天幕のジャードゥーガル』は、丹念に史実の掘り起こしが行われています。この第1幕、第2幕のそうでしたが、第3幕でも一つ一つのエピソードは全て史実をもとに構築されています。この『天幕のジャードゥーガル』を描く試みというのは、ファーティマ・ハトゥンという実在の女性を通して、モンゴル史の歴史解釈を行うということであり、実験的であり挑戦的な作品でもあります。
したがって、描かれるのはモンゴルの歴史そのものであり、ユーラシアの諸地域を統合していく征服の歴史です。一方、シタラから見れば、故郷と家族を奪い、自分を連れ去った者たちの歴史です。モンゴルの拡大の裏側には、無数の破壊や死、強制移動が存在していました。
トマトスープさんは自ら歴史考証を行っているとのことです。図書館に通い資料に当たり、徹底的に資料の洗い出しを行っておられます。そこから紡ぎ出される物語は、とても骨格がしっかりしていると感じます。これは、彼女のモンゴル史に対する妥協のない姿勢が反映されているものと考えています。
大モンゴル国の成立と領土拡大
第3幕では、モンゴルが草原の一勢力から世界帝国へ成長していく過程も簡潔に語られました。
12世紀末頃、テムジンは、小部族の首長に過ぎませんでしたが、周辺所部族を次々と統合し、1206年、クリルタイ(諸部族による最高会議)を開催、「強力なカン」を意味するチンギス・カンに推挙され、大モンゴル国を建国しました。
その後モンゴルは金朝との戦いにも勝利し、中国東北部、河北、内モンゴルを占領、今度は中央アジアへと勢力を伸ばしていきます。そしてホラズム・シャー朝を事実上の崩壊に追い込み、ペルシャ一帯を制圧します。
モンゴル帝国は、さらに拡大を続け最大版図が西は東ヨーロッパからアナトリア半島、西は朝鮮半島か沿海州にかけて、北はバイカル湖から現在のモスクワ付近にかけて、南はミャンマーからチベット、アフガニスタンからペルシャに至るまで、ユーラシア大陸の大半をその領土とし、人口1億人を超える大帝国となりました。
第3幕の1221年の時点で、ホラーサーン地方を征服したモンゴル軍は、しばらくタールカーンにとどまっていましたが、ホラズム・シャー朝のスルターン(王)であるジャラールッディーンを追い、南下を始めます。
追い詰められたジャラールッディーン率いるホラズム軍は、インダス川を背にモンゴル軍と戦いました。これがいわゆる「インダス河畔の戦い」です。
激戦の末にホラズム軍は崩壊しますが、ジャラールッディーンは、馬に乗ったまま川へ飛び込み、対岸へ泳ぎ着いて脱出したと伝えられています。その姿を見たチンギス・カンが、息子たちに勇者とはあのような者だと語ったという逸話も残されています。
私は本作を見るまで、モンゴルの西方遠征についてほとんど知りませんでした。シタラの旅を追うことで、中央アジアやペルシャの都市がどのようにつながり、征服によってどう変化したのかが少しずつ見えてきます。自分の歴史知識の空白に気づかされることも、本作の大きな魅力です。
チンギス・カンの4人の息子たち
第3幕では、チンギス・カンと正妻ボルテの間に生まれた四人の息子、長男ジョチ、次男チャガタイ、三男オゴタイ、四男トルイが一堂に会するところが描かれますが、4人の性格と兄弟間の微妙な緊張がそれとなく描かれています。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
長男ジョチは、優優れた軍事指揮官でありながら、出生をめぐる疑念を背負った人物です。母ボルテがメルキトに連れ去られ、奪還された後に生まれたため、実父を疑う声がありました。ただし、チンギス・カン自身はジョチを息子として扱っています。『元朝秘史』では、チャガタイがこの問題を持ち出してジョチを侮辱し、二人が激しく対立する場面が描かれています。
次男チャガタイは、厳格で感情を隠さず、モンゴルの規範や秩序を重んじる人物として伝えられます。融通の利かない面もありましたが、自分が大カンに即位できないと知ると私情を捨てオゴタイを支えるなど王家の安定を優先する責任感も持っていました。
三男オゴタイは、温厚で落ち着きがあり、対立する兄弟の間を取り持つ調整力に優れた人物です。チンギス・カンが彼を後継者に選んだのも、対立する長男ジョチと次男チャガタイの関係を調整できると考えたからです。他人の意見を受け入れる寛容さを持ち、統治者として信頼されていました。作中でも、穏やかな雰囲気と酒好きの一面がさりげなく示されていました。
四男トルイは、軍事的能力に優れたオッチギン(末子)です。モンゴルでは末子が父祖の家産や本拠地を受け継ぐ慣習があり、チンギス・カンの死後にはモンゴル帝国の中核地域を継承し、後継者と思われていましたが、オゴタイが即することが決まると兄を支えることを優先しました。ホラーサーン攻略で見せた苛烈さと、兄たちの前で見せる末弟らしい表情の落差が印象的でした。
因みに4人の年齢ですが、第3幕(1221年)時点では、ジョチ37歳、チャガタイ36歳、オゴタイ35歳、トルイ29歳です。ジョチとチャガタイの生年には諸説あり、ジョチの出生の疑念もこのことが起因しています。
チンギス・カンは、ジョチとチャガタイの対立を避けるため、両者から信頼されるオゴタイを調整役として後継者の指名し、軍事力に優れたトルイがそれを支えるという形を選んだのでした。これによって、チンギス・カンの死後も帝国はただちに分裂せず、さらに拡大を続けます。
作中では四人の性格がわずかな会話や仕草によって描き分けられていました。特に、ジョチとチャガタイの間に漂う緊張と、オゴタイが場を和ませようとする様子は、後継者問題を知ったうえで見ると、さらに味わい深く感じられます。
長春真人との出会い
一方、シタラたち捕虜を連れた一行は、モンゴルに向けて長い旅を続けていました。トゥースを出発して半年近くが経った1221年9月下旬、テンシャン山脈の北麓にあるジャンバリク付近(現在の中国・新疆ウイグル自治区昌吉市付近)付近で、シタラたちは長春真人の一行と出会います。
長春真人(1148~1227)は、本名を丘処機といい、金代からモンゴル帝国初期に活躍した道教・全真教の道士です。1219年、中央アジアに西征中のチンギス・カンから招かれ、70歳を超える身で1220年に山東(現中国)を出発。一行はモンゴル高原、アルタイ山脈、天山北路、サマルカンドなどを経て、1222年、現在のアフガニスタン北部でチンギス・カンに謁見しました。
このときの旅の様子は、弟子の李志常によって『長春真人西遊記』にまとめられました。同書には、旅の経路だけでなく、各地の気候、地形、農作物、都市、人々の服装や宗教まで記されており、13世紀のユーラシア内陸部を知るうえで貴重な史料となっています。
この長春真人がチンギス・カンの招請による西域への旅の途中、シタラたち一行と出会ったのでした。モンゴル軍としては、チンギス・カンの賓客として、大いにもてなす必要があったのです。
この時のもてなしの様子は『長春真人西遊記』に記されており、アニメの描写はそれを再現しています。
「ウイグル人の都市支配者(作中では長官)が一行を迎え、支配者の妻が酒と大きな瓜を振る舞った」と伝えられています。瓜は枕ほどの大きさだったとされ、天山北麓の灌漑農業の豊かさをうかがわせます。

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
ところで、この「支配者の妻」は、第3幕では描かれていません。長春真人と面会した女性はシタラだけだったので、『長春真人西遊記』を記した同行者がシタラのことを「長官の妻」だと勘違いしていたのでしょうか。もちろん創作なのですが、歴史資料の記録と組み合わせた面白いエピソードだと思います。
シタラは、長春真人に同行していたチンカイとの会話で、不老不死について尋ねますが、このくだりは、長春真人と面会を果たしたチンギス・カンが不老長寿の秘訣を尋ねたことになぞらえているものと思います。長春真人はチンギス・カンに不死の仙薬はないと率直に答え、節制による養生法や為政者の心得を説いた、とされています。
長い旅の果てに
ジャンバリクを出発してから数ヶ月、厳しい冬の最中、長い旅路ももうすぐ終わりの時を迎えます。モンゴル帝国の本拠地、大オルド(アウラガ)に到着です。モンゴル帝国の都と言えばカラコルムが有名ですが、この当時は首都と呼べるような場所はなく、モンゴル族の本拠であった大オルドを主な拠点としていました。(※この項8月6日修正)

©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
トゥースからタールカーン、サマルカンド、ジャンバリクを経て大オルドまで、これらを直線で結んだだけでも約4400kmの旅でした。途方もないことですが、昔の人達はこうして大陸を行き来していたと考えるととても感慨深いものがあります。

到着したシタラは、すぐにトルイの妃ソルコクタニに呼び出されます。面会したソルコクタニの手には一冊の書物が。シタラの視線はその書物から離れません。故郷での生活、ムハンマドから教えられた学問、奥様の死――そのすべてが一冊の本に結びついています。
ようやく『原論』を取り返す機会が訪れたのか。それとも、この本によってさらに深くモンゴル宮廷へ取り込まれていくのか。第4幕以降、シタラの新しい戦いが始まります。
ビールーニーの世界地図
第3幕で特に興味を引かれたのが「ビールーニーの世界地図」です。このビールーニーにという人物についても初めて知りました。私は大学の時に地理学を専攻していたのですが、高校時代も含めてこのビールーニーの名を聞いたことがありません。
しかし今回調べて初めて知ったのですが、ビールーニーは、10世紀後半から11世紀前半にかけて活躍したイスラーム世界屈指の博学者です。彼は、天文学、数学、地理学、測地学、歴史学、鉱物学、薬学など、きわめて広い分野を研究し、多大な功績を残しました。
彼は地球を球体として捉え、山の高さと地平線の角度から地球の半径を求める方法を考案しました。また、各地の緯度や経度を測定し、都市間の位置関係やメッカの方角を数学的に算出しようとしています。
ビールーニーにとって地理学とは、伝聞に基づいて土地の形を描くだけでなく、観測と計算によって世界を理解する学問だったのです。
そして作中で語られた「ビールーニーの世界地図」は、彼による科学入門書『タフヒーム』に収められた、「陸地と海洋の分布図」を指すと思われます。


©トマトスープ(秋田書店)/天幕のジャードゥーガル製作委員会
特徴としては、
①現在の地図とは反対に、南が上、北が下になるよう描かれています。
②円の外側には世界を取り囲む大洋が置かれ、その内側にユーラシアとアフリカからなる既知の世界が描かれました。
③南側には中国、インド、アラビア、アフリカなどが半島状に並び、カスピ海やアラル海は陸地の中の閉じた海として表されています。
④形や距離はかなり簡略化されており、世界の全体像を理解するための概念図でした。
この地図で特に重要なのは、インド洋が外洋に開かれていることです。当時まで残っていたプトレマイオス以来の地理観には、アフリカ南部の陸地が東へ伸びてアジアとつながり、インド洋を巨大な内海とする考え方がありました。ビールーニーはこの陸地を縮小し、南半球の大部分を海として表現しました。この発想は、のちのイスラーム世界の地図に大きな影響を与えています。
シタラがこの地図を知っていたことは、彼女の知識量を示すだけではありません。地図は支配者にとって領土を把握する道具ですが、故郷から連れ去られたシタラにとっては、自分がどこから来て、どこへ運ばれたのかを理解する手段でもありました。
匂いを嗅ぐ愛情表現「ウンセフ」
作中で、トルイが3人の兄たちと再会を喜び、ハグしながら「スッ」と相手の臭いを嗅ぐシーンがありました。
モンゴルには、親しい家族や年少者の頬、額、頭などに顔を近づけ、匂いを嗅ぐようにして愛情を示す習慣があります。これは単に臭いを確認しているのではなく、欧米の「親愛のキス」と同じ役割を持つ、最大級の愛情や敬意を表す美しい文化です。モンゴル語ではこの挨拶を「ウンセフ」と言いますが、「匂い」を意味する言葉(ウネル)が語源とされています。
この挨拶は誰にでも行うわけではなく、長期間離れていた家族、親戚、あるいは非常に親しい友人に対して行われます。特に親が我が子(あるいは祖父母が孫)に対して行うことが多く、日本人が子供に頬ずりをする感覚に近い深い愛情表現です。
『長春真人西遊記』に残された皆既日食
作中で日食に関するエピソードがありましたが、これは『長春真人西遊記』に実際に記録された、1221年の皆既日食をもとにしています。
長春真人は、1221年旧暦5月1日の正午ごろ、現在のケルレン川の南岸(モンゴル東部)でこの皆既日食を目撃しています。太陽が完全に隠れて星々が現れたのち、しばらくして再び明るくなったと記されています。
さらに興味深いのは、丘処機が後に各地での日食の見え方を聞き取り、比較していることです。『長春真人西遊記』の記録では、サマルカンドでは辰時、現在の午前7時から9時ごろに最大となり、太陽の六割ほどが欠けたとされます。アルタイ山脈付近では巳時、午前10時ごろに七割ほど欠けていたと記録にあります。
長春真人は、月の影の真下では太陽が完全に隠れ、そこから離れるほど欠け方が小さくなるのだと考えました。そして、灯火を扇で遮ったとき、影の中心は暗く、周辺へ行くほど光が増えることにたとえています。
作中でシタラと長春真人が語る説明は、この記述をほぼそのまま物語へ取り入れたものです。
シタラはサマルカンドで見た日食を伝え、長春真人の観測と結びつけます。チンカイは、豊富な知識を持つシタラをモンゴル帝国に必要な賢者の一人だと言います。征服によってユーラシアが暴力的に結びつけられる一方で、知識もまた西から東へとと伝えられていくことを象徴しているように思えました。
この日食記録は、現代の天文学においても、過去の皆既帯や地球の自転の変化を検討する資料として研究されています。旅の途中で目撃した一瞬の出来事が、800年後の科学にもつながっているのです。
このエピソードの途中、シタラが日食について話そうとしていた時、一瞬ですが、ビールーニーの『占星術教程の書』に記された月の満ち欠け(月相)の図が映し出されます。こういった細かい演出も非常に気が利いていて素晴らしいと思います。

(ウィキベディアより引用)
第3幕を振り返って
以上、第3幕について気になった点を書いてきました。今回も歴史解説のほうが長くなりましたが、それこそが『天幕のジャードゥーガル』の面白さなのだと思います。
画面の端に映った地図、一瞬の挨拶、何気ない会話の一つ一つに、実際の史料や文化的背景が隠されています。それを知ると、物語の見え方が少しずつ変わっていきます。
第3幕は、シタラが「ファーティマ」として敵の中で生きる決意を固める回であると同時に、物語の舞台が一つの町や一つの民族を越え、ユーラシア全体へ広がっていく回でもありました。
モンゴルの四兄弟、ペルシャの学問、中国の道教、中央アジアの都市、そして各地で異なる姿を見せる日食。それらが一本の旅路の上でつながっていきます。
モンゴル帝国は、多くの土地を破壊し、人々を故郷から引き離しました。その一方で、強制的にせよ、異なる地域の人間や知識、技術を一つの巨大な空間の中で移動させました。本作はその矛盾を、美化することも単純に断罪することもなく、シタラという一人の少女の目を通して描こうとしています。
緻密な歴史描写を、人物の表情や仕草、音、背景美術によって丁寧に映像化する制作陣にも、改めて敬意を抱きました。本作は、後から何度も振り返られる作品になるのではないでしょうか。
シタラはついにソルコクタニと向き合い、奪われた『原論』を目の前にします。知識は彼女を救う武器となるのか、それとも帝国に利用される鎖となるのか。ここから始まる二人の関係にも注目していきたいと思います。
それでは、また次回。
