「見えない貧困」という不条理…等価可処分所得の罠と、分断される日本人の精神
これまで、「友情(西部邁著)」などを参考に、思考を放棄した「大衆」の横暴や、自国通貨建て国債の真実、そして「血管税制」によって社会の血液(通貨)が滞留させられている日本の悲劇を論じてきました。
今回は、6年以上前に図書館で手にとった、ある一冊の本(若者向けに書かれた貧困問題の著作)を起点に、私たちが目を背けてはならない我が国の「足元の危機」について、さらに深く踏み込んでみたいと思います。
その本に綴られていた生活困窮者たちの過酷な現実は、読んでいるだけで思わず涙がこぼれそうになるほど凄惨なものでした。と同時に、私がお付き合いをさせていただいていた、生活困窮者支援を行うNPOの取り組みの数々が、強烈に脳裏に重なったのです。
「日本は豊かな国だ」と思わされてきた大衆の裏側で、いま、この国はどのような地獄を迎えているのでしょうか。
1. ロスジェネ世代の記憶と、たまたま運が良かっただけの自分
かく言う私も、独身の頃にはそれなりの低賃金を経験しています。
世代で言えば、世間一般で「就職氷河期」あるいは「団塊ジュニア(ロスジェネ世代)」と呼ばれる時代真っ只中に就職活動を経験しました。
当時はブラック企業と呼ばれるような場所ですら入社が困難だった、出口のない暗黒の時代です。
いま振り返っても、私がワーキングプアの泥濘(でいねい)に沈んでいてもおかしくはなかった。ただ「たまたま運が良かっただけ」、ただ「たまたま良い縁に恵まれただけ」なのです。
その偶然のおかげで、当時の私は貧困を身近に意識せずに済みました。しかし、やがて子供を授かり、我が子の同級生や公立の小中学校という「社会の縮図」を通したとき、貧困の影は確実にすぐそばに存在していることを、身を以て知ることとなったのです。
経済的な理由から、部活動の道具が揃えられない子、塾に通うことを諦めざるを得ない子。そうした光景を目にするたび、私の中には言葉にできない胸の痛みが走りました。
2. GDP世界第3位(当時)の国に潜む「相対的貧困」の正体
多くのメディアは「日本には7人に1人の貧困児童がいる」「単身女性の5人に1人が貧困」「ひとり親世帯の2世帯に1世帯が困窮している」と、ショッキングな数字を書き立てます。
しかし、かつて主流派の言説に流されていた頃の私は、この「相対的貧困」という言葉の真の意味を理解していませんでした。この本を読んで、ようやくその「定義」が腑に落ちたのです。
相対的貧困の定義とは、
≪ 国民の等価可処分所得の中央値の半分未満 ≫
を指します。
所得の「平均値」は、上限が無限大(ごく一部の富裕層の爆発的な富)によって上方に釣り上がってしまうため、実態を反映しません。しかし、社会の真ん中を示す「中央値」のさらに半分、と定義すれば、それがどれほど過酷な境界線であるかが分かります。
単身世帯で言えば、年間わずか122万円程度(当時)。生活保護基準と比べても極めて低い、文字通りの生存の危機です。
これに対し、新自由主義に毒された想像力なき大衆はこう反論するでしょう。「海外のスラム街のように、路上で物乞いをする子供がいないだけマシだろう」と…
しかし、それこそが日本の貧困の、他国とは比較にならない「最悪の特異性」を見落とした浅薄な思考です。
3. 「バラバラに混在する」という、日本特有の孤立
海外の絶対的貧困層は、多くの場合「スラム」という居住地区に固まって暮らしています。そこにはコミュニティがあり、貧しい者同士が互いに助け合って生きる絆(生存戦略)が残されている。
しかし、現代日本の貧困層は、豊かな層と「バラバラに、同じ地域に混在して」暮らしています。
だからこそ、服の違い、持ち物の違い、修学旅行や遠足の道具が揃えられないといった「周囲との差異」がダイレクトに可視化され、それが学校空間における残酷な「いじめ」や「差別」、そして不登校(教育機会の喪失)へと直結してしまうのです。
周囲にバレないように、「恥ずかしい」と自らの貧困を隠す。隠すことでさらに周囲からの誤解を生み、他者への不信感を募らせる。
日本の貧困とは、経済的な困窮であると同時に、徹底的な「孤立」なのです。
人間は、自己肯定感を完全に喪失したとき、圧倒的な無力感に苛まれ、自らの命をも、あるいは他者の命をも、粗末に扱うようになってしまいます。この絶望的な精神の崩壊こそが、資本主義の格差拡大がもたらす「末期症状」の正体に他なりません。
4. 富裕層への問い…「すべて貴方の努力の成果ですか?」
かつて、参政党の安藤裕議員が国会で「血管税制(消費税)」による民間企業の搾取を厳しく指弾した際にも通じる、本質的な問いがここにあります。
また、山本太郎氏が放った有名な言葉に、
「あなたの生活が苦しいのを、あなたのせいにされてませんか?」
というものがあります。これを私は、あえて逆の立場である富裕層や成功者たちに対しても、静かに問いかけてみたいのです。
「あなたが今豊かなのは、そのすべてが、貴方自身の努力や才能によるものですか?」
皆が皆、最初から特別な才能を持った天才ばかりではありません。私たちが今、それなりの生活を送れている背景には、生まれ育った家庭環境、受けさせてもらった教育という「ベース(土台)」、そして何より「運」と、周囲の支えが決定的に影響しているはずです。
与えられた環境の恩恵を忘れ、もしも「100%自分の才能と努力だけで勝ち取った富だ」とのたまう者がいるならば…
それは余程の傲慢な自信家か、あるいは他者への共感性を著しく欠いたパーソナリティ障害、さもなくば社会の構造に対する致命的な「無知」であると断言せざるを得ません。
仮にどれほど類稀なる才能を持って生まれたとしても、例えばそれがアフリカの過酷な飢餓状態にある環境だったとしたら、そもそも努力を始めるためのスタートライン(ノーチャンス)すら存在し得なかったはずだからです。
それらをすべて無視し、自らの富を誇って「自己責任論」を振りかざす。そんな冷酷な国に成り下がってしまった日本を、今まさに生存の危機に瀕している経済的弱者たちが、一体どうして「命を懸けて守ろう」と思えるでしょうか。自分たちを切り捨て、守ってくれない国家のために、誰が帰属意識を持てるというのでしょうか。
結び:緊縮を止め、分断なき「美しい国」へ
我が国は、二千年以上の悠久たる歴史を持つ世界で唯一無二の国です。
本来であれば、天皇陛下を中心に、国民が互いを家族のように思いやり、誰一人として分断されることなく団結し合える、本当の意味で「美しい国」でなければならないはずでした。
かつて、安倍元首相や麻生氏に対して、私達が淡い期待を抱いた時期もありました。
しかし、結果は完全に裏切られたと言わざるを得ません。
彼らもまた、財務省の緊縮ドグマと新自由主義の波に呑まれ、構造的なデフレと国民の分断を放置し続けた「大衆政治」の枠を出なかったのです。
この国を本当の意味で再興するための第一歩は、小手先の福祉政策などではありません。
社会の血液(通貨)を滞留させている消費税という名の「欠陥(血管)税制」を直ちに撤廃し、緊縮財政を止め、完全にコストプッシュ型ではない、
「物価上昇を超える所得増=良いインフレ(ディマンドプル型)」に戻すこと。
政府が果断な「未来への種まき(投資)」を行うこと。
これ以外に、国民の生命と財産を護り、失われた日本人の「背骨」を取り戻す道はありません。
手遅れになってこの国が本当に「店じまい」を迎えてしまう前に、私たちはこの足元の危機から目を背けず、自分の頭で考え、声を上げ続けなければならないのです。
