夫との初デート、ゴビ砂漠でうっかり恋に落ちた
恋人や夫婦は、出会った頃の思い出を語り合ったりするだろうか。第一印象はどう思った?とか、初めてのデート楽しかったね、とか。初めてのデートは、おしゃれなカフェとか、ちょっと綺麗な居酒屋とか、水族館かもしれない。
ゴビ砂漠。
それが私たち夫婦の初デートの場所だった。
のちの夫となる人とは、初めて訪れたモンゴルの空港で出会った。
到着ゲートは多くの人でごったがえし、聞きなれない言語が飛び交う。その中でひときわ穏やかな佇まいで立っていたのが彼だった。
「りつこさんですか?よろしくお願いします」
モンゴルの遊牧民出身で、今はツアーガイドをしているという。なんだか都会では見かけない雰囲気だな。目は小動物みたいに黒目がちでキラキラしていて、全体はスッとしたピュアな空気感。落ち着いて見えるけど二十代かな。第一印象はそんな風に思った。
強烈な日差しでこんがりと焼けた顔をしていて、全身モノトーン。目と歯だけ、漂白したのかと思うほど真っ白で浮いていた。
「すっごい歯が白いんですね」
「よくびっくりされるんですけど、子どもの頃から乳製品を食べていたからですネ」
初めてこちらから話しかけた言葉に、因果関係の怪しい説明が返ってきた。
モンゴルにきて二日目。私たちはゴビ砂漠の中にある、バヤンザクという場所にやってきた。砂漠といっても、さらさらとした砂場ではなく、ビッグサンダー・マウンテンとか、インディ・ジョーンズとか、あの茶褐色の岩の世界がひたすら続いている場所だ。
時は、観光シーズンを過ぎた九月。すでに朝晩もかなり冷え込んでいる。そんな時期に、わざわざゴビ砂漠に行きたがる物好きはいないのか、ツアー客はわたし一人。
運転手のおじさんは運転しかやる気がないらしく、入り口に着くと何も言わずに携帯をいじり始めた。よって、図らずものちの夫となる人と、二人きりで砂漠に放たれた。彼は少しはにかんだように「さあ、いきましょう」と言った。
ザクッ、ザクッ。大地を踏みしめて歩く。どんよりとした曇り空がどこまでも続く世界に、私たちが二人だけだった。
歩き始めてすぐに、どこからともなく一匹の犬が前方に現れた。背中はふさふさの黒い毛、顔は茶色と白が混じった犬だ。

「ねえねえみて!かわいい!」
思わずキャッキャッとはしゃぎ出したわたしの横で、フフフッと笑う声が聞こえた。
ピュイイイ。
彼はおもむろに口笛を吹いた。その瞬間、犬がこちらにタタタっとやってきて、彼の横にピッタリと寄り添って歩き始めた。
「え!知ってる犬なの?」
「いや、知らないです」
言葉や行動で人を納得させる術は、二十年近くの社会人経験でもそれなりに心得てきたし、この身体に染み付いている。でも、そういうことじゃない。たった口笛一つで、犬がしっぽふって懐いているなんて。すごーいすごーい。何度も言うわたしに、彼はそれほどでも、という顔をした。
そのうち犬は前方へスタスタと歩き始めた。まるで「こっちへおいで」と言うかのように。突然現れた小さな動物についていったら、異世界への入り口だった、という展開は、何度か見たことがある。不思議の国のアリスもそうだ。宮崎駿の世界も、だいたいキーとなる動物が一匹はいて、奇妙な世界と繋がってたりする。ファンタジーの王道である。
今思えばあの犬は、異世界からの使者だったのかもしれない。
結婚後、夫にそう言ったら「ただの誰かの飼い犬だよ」と返ってきた。
犬は先を歩き、振り返り、そしていつの間にか消えていった。
「こっちも行けますよ」
途中から遊歩道がなくなったが、彼は道もない方向へずんずん踏み込んでいった。歩きながら、その土地の知識を、熱心に話してくれる。この土地を知り尽くしてるようだったけど、何を教えてもらったかは、正直一つも覚えていない。彼は必ず、わたしの半歩前を歩いた。崖側に出そうになると、さりげなく自分がそちら側に入る。段差の手前では一度立ち止まり、振り返って、わたしが越えるのを見届けてからまた歩き出す。
わたしはたまに、よろける。彼は一度もふらつかない。
気づけば、その堂々とした背中ばかり目で追うようになっていた。

「ねえ、家族はどんな人たちなの」
何もなくて視界がひらける場所にいると、人は心も開いていくのだろうか。彼のことがもっと知りたくなっていた。
お父さんとお母さんはとても優しくて、いつでも彼の選択を応援してきてくれたこと。まだ中学生の妹がいること。歳の近い弟と妹は一番の味方であり、誰よりも信頼している人たちだということ。こんなに真っ直ぐに家族を愛していると言い切る人を、久しぶりにみた気がする。身体の芯に、しばらく感じたことのないあたたかい何かが巡った。
一時間ほど歩き、一番見晴らしのいい場所に辿り着いた。地上から五十メートルはあろうかという崖が、いくつも大地から盛り上がっている。夕日に染まると赤く燃えるので、炎の崖と呼ばれているらしい。しつこいようだが、その日は、どんよりと曇っていた。その岩場の一つに私たちはいた。
ヒュオオオ。
激しい風により、前髪がおでこの上でバタバタと暴れまくっている。なんとなく彼に見られないように、ササササッと何度も整えた。下を覗いてみたいけど、気を抜けばスーッと落ちてしまいそうな恐怖があった。彼はビクとも動じない。
「ワタシの腕に捕まって、少し覗いてみますか。支えますよ」
ドキドキドキ。
仮にこんな場所に置いていかれたら、生きては帰れない。トキメキなのか、動悸なのかわからないものが、体の中で脈を打ち始める。ビクともしない腕に捕まり、下をのぞいた。よろけた身体は、難なく支えられた。
これがもし、気になる相手との初デートだったりしたら、普通は「お休みの日はなにしてるんですか?」とか聞くんだろうか。
「ねえ、死にかけたことある?」
不躾に、ロマンスのかけらもないことを聞いた。全く違う世界で生きてきたであろうこの人。どうか聞いたことのない、面白い体験をしていてほしい。わたしの知らない世界のことを聞いてみたくてたまらない。
「ありますよ」
うわあああるんかい。やっぱり、あるんかい。
「子どもの頃は、こういう場所でよく遊んでたので」
十三歳のある雪の日、彼は崖と崖の間を飛んでみたくなったのだという。羽が生えていなかった彼は、当然のように落ちた。片手で枝をつかみ、小一時間、手を離せば死ぬという中で宙ぶらりんになり、腰紐を枝に結んで、なんとか崖を這い上がったそうだ。崖の上では、連れてきた飼い犬が、ずっと心配そうにみていたらしい。ワンちゃんも怖かったろう。
「ねえ、それってさ、危ないって考えればわかるんじゃないの?」
「でも、やってみたいと思っちゃったんです」
理屈じゃねえんだ、やりたいもんはやりたいんだ、ということらしい。
「その時はたぶん、気温はマイナス二十度くらいで、すごく寒かったデス」
もはや、映画の世界である。もっとも彼の場合、現実世界を生きる、ただの好奇心旺盛で無鉄砲な人である。
電気もガスも水道もない生活の話や、裸馬に乗って三十キロ疾走した話、ユキヒョウはどれほど身体能力の高い生き物かなど。その後も、およそこれまでの人生では想像もつかないような引き出しを開けまくられ、爽快なパンチを何度も食らった。
歩き疲れた私たちは、岩の一つに腰をかけた。彼はおもむろに立ち上がり、岩の上でじっと遠くに視線をやり始めた。シーンと静寂が続く。微動だにしない彼の横顔を見ながら、人類はかつてこうやって獲物を狙い、狩をしていたのだろうかなどと思った。それは空港にいた時の、穏やかな佇まいとも違っていて、大自然の美しさも脅威も、丸ごと体に染み込んだ男の佇まいだった。横顔をまた見つめる。
あ、わたし、この人の顔、すごく好きだ。
「ね、すごい場所でしょう」
誇らしげに振り返った顔と、ふと視線が重なった。ああ、まさかモンゴルで。まずいことになってしまった。
結局、何もない砂漠に三時間近くいた私たちは、車に戻ると運転手に遅いぞと怒られた。
その日の夕方、草原地帯に移動した。この辺では、うまくすれば野生の馬が見えるという。「馬、出てきてくれないなあ」
そう言ったわたしに、「りつこさんかわいいから、来てくれるかもね」と彼はポツリと言った。あれは最大級の勇気を振り絞った言葉だったのだと、ずっと後になって聞いた。
私たちの初めてのデートは、結果的にゴビ砂漠となった。
ちなみに夫は後日、「あの場所に行くの、実は初めてだったんだよ」と白状した。バヤンザクでの解説は、ツアーが決まってから急遽仕込んだものだったという。初めて来た場所を、何度も来たことがある人の顔で歩いていただけだった。その姿がかっこいいと思ったのに、してやられた。
そして、実は空港で会ったときから、いいなと思っていたとも白状された。ダメだよお前、と何度も自分に言い聞かせていたそうだけど。理屈じゃねえんだ。
ついでに言うと、この男、わたしが知るだけでも人生で四回死にかけている。結婚相手として見たら、未知数のかたまりである。そんなファンタジーみたいな男と、わたしは結婚した。
出会って二日で付き合って、一年後に結婚。普通じゃないと人は言うが、それも理屈じゃない。強いていうなら、初デートの場所が普通じゃなかったが故に、いろいろと判断が狂ったのではないかと自己分析している。
なかなか恋ができないという人がいたら、わたしは無責任にこう言うだろう。
ゴビ砂漠へ行け。
そもそも何でモンゴルに行ったのか、という始まりの話も書いています。
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