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日本教ーー日本が変わらない正体

JTC研究者(?)を自認したくなるほど、JTCのことをよく書いているが、AIとキャッチボールをしているうちに、解像度がだいぶ上がったので、その記録として書いてみたい。元JTC社畜にすぎない人間だが、AI先生のおかげで、学問っぽくなって一皮剥けたぞ。

はじめにーーJTCの起源はムラ・イエだけではなかった

日本の伝統的な会社組織(JTC)の基盤を考えるとき、ずっと「ムラ・イエ」の延長として理解してきた。

共同体への全身投入、村八分的な排除システム、家風がそのまま社風になる感覚。農村共同体の論理が、そっくりそのまま会社という器に移植された、という見立てだ。

これはこれで説得力があると自負していたが、最近、もう一つの説が気になっている。軍隊→会社という系譜だ。

戦後、旧日本軍の将校・参謀たちが大量に企業に流れ込んだ。命令系統、階級意識、「玉砕」的な滅私奉公の倫理、そして「空気で開戦を決めた」あの意思決定様式が、そのまま会社組織に移植された、という説である。

どちらが正しいのか。しばらく考えたが、これは対立ではなく、合流の話ではないだろうか。どちらも飲み込んで、JTCは独自に進化したのかもしれない。

この仮説には山本七平の「日本教」が手掛かりになりそうだ。

レイヤーモデルで整理する

AIの力を存分に借りて、山本七平の「日本教」を強引にコンピューター・システムに置き直してみると、こんなモデルが浮かぶ。

ハードウェア:島国・地理的隔絶・単一民族的環境

カーネル:日本教(怨霊・穢れ・言霊・空気・臨在感・和の強制)

OS:社会システム(天皇制・封建制・軍国主義・民主主義)

アプリ:表層文化(仏教・儒教・ちょんまげ・JTC・終身雇用)

重要なのは、日本教はOSではなくカーネルだ、という点である。

OSは時代とともに入れ替わる。天皇制も、軍国主義も、戦後民主主義も、すべてOS層の話だ。しかしカーネルは、どのOSが乗っていても、その下で静かに動き続ける。

ムラ・イエも、軍隊も、カーネルの異なる表現形に過ぎない。そして会社は、その両方を継承した器だったのではないか。

日本教というカーネルの正体

カーネルの中身は何か。井沢元彦は「逆説の日本史」で、日本史を動かした隠れたエンジンとして以下を挙げた。

怨霊信仰――非業の死を遂げた者が祟る。だから神社で祀る。菅原道真も崇徳院も、怨霊になったからこそ神になった。

穢れ・ケガレ――死・血・異質なものを忌避する身体感覚。これは論理ではなく皮膚感覚に近い。

言霊信仰――言葉にすること自体が現実に影響する。だから不吉なことを口にしない。「空気を読む」文化の遠い根っこがここにある。

和の強制――聖徳太子以来の「争いを表面化させない」圧力。対立は存在するが、表に出してはいけない。

山本七平の「臨在感的把握」と、井沢の「怨霊・言霊」はほぼ同じ層を指していると思われる。山本が現代の機能を分析したとすれば、井沢は古代からの起源を掘り下げた。二人は同じカーネルを、異なる角度から照らしたのかもしれない。

カーネルはなぜ変わらないのかーーガラパゴス仮説

ガラパゴス諸島の生物は、大陸の競争圧力から切り離されたことで独自進化を遂げた。日本もそれに近い。海という物理的バリア、鎖国という制度的バリア、ひらがな・カタカナを独自開発した言語的バリア。

しかし、日本が最も独自進化させたのは、単なる孤立や拒絶ではなく、外来のものを飲み込んで変質させる免疫システム(サンドボックス)ではないかと思う。

仏教は「葬式仏教」に変質した。儒教の「忠」は「会社への忠誠」に変換された。民主主義は「空気による全会一致」に飲み込まれた。拒絶するのではない。しかし変質させる。

GHQが失敗した理由ーー鉄壁のサンドボックスというシステム

コンピューターシステムの「サンドボックス」とは、外部コードを実行はさせるが、ホストシステムの核心部(カーネル)には触れさせない隔離実行環境のことだ。

GHQは日本人の精神破壊を徹底的にやった。財閥解体、農地改革、旧軍解体、神道指令、教育勅語廃止、憲法の全面書き換え。しかし、実際に起きたことは、民主主義OSがサンドボックスに検知され、隔離実行環境に配置され、日本教カーネルは無傷のまま、という状態だった。GHQが「インストール完了」と思ったものは、あくまでも仮想マシン上で動いていただけだ。

神道を廃止しようとした神道指令は、「上からのお達しに従う」というカーネルの機能を使って執行された。民主主義を非民主主義的に導入したのだ。この逆説そのものが、カーネルの不変性を証明しているのではないか。

ベネディクトはどこまで見えたか

ルース・ベネディクトは1946年、日本に一度も来ないまま「菊と刀」を書いた。日系人捕虜へのインタビューと文献資料だけで。

「菊と刀」は机上の理論にしては驚くほど精緻だった。「恥の文化 vs 罪の文化」の対比、義理・恩・人情の構造、状況倫理的な行動原理。逆説的だが、日本にいなかったことが有利に働いた面がある。彼女は日本の「空気」に感染しなかった。だからこそ、行動パターンを外から冷静に認識できたのかもしれない。

しかし、届かなかった層がある。怨霊・穢れの身体感覚、言霊信仰、空気のメカニズム。これらは文献やインタビューからは出てこない。日本人自身も言語化できないし、無自覚なものだからだ。

ベネディクトは外部から到達できる限界まで到達した。そしてその限界自体が、日本教カーネルの深さを逆説的に示している。

ムラ・イエと軍隊ーー対立ではなく合流

冒頭の問いに戻る。ムラ・イエと軍隊は対立する説ではない。どちらも同じカーネルの表現形であり、戦後のカイシャはその両方を同時に継承した。

ムラ・イエから受け継いだもの:共同体への全身投入、村八分という排除システム、家風がそのまま社風になる感覚、長老支配と年功序列。

軍隊から受け継いだもの:命令系統と階級の明確化、「玉砕」的な無限残業の倫理、「空気で開戦」がそのまま「空気で不正見逃し」に、責任の所在の永続的な曖昧化。

そしてどちらにも共通するカーネルーー「場への絶対帰依」「和を乱す者への制裁」「責任の霧散」。JTCはムラと軍隊の化合物で、独自に進化した結果だったのだろう。

おわりにーーカーネルはアップデートされないが、アプリは別の話

山本七平が最も懸念したのは、日本教が自己批判の回路を持っていないという点だったと思う。外部からロジカルに批判しようとしても、「和を乱すな」とか「まあいい」という大和言葉によって消滅する。

聖徳太子の頃、いや、もっともっと前から連綿と続く日本教はそう簡単に変えられるものではない。数年前のコロナ禍での日本列島は、同調圧力、科学より空気というものが強烈に可視化され、その普遍性を十分に確信させるものだった。

数千年の風雪を耐えたカーネルはなかなか変わらないが、少なくとも、JTCという時代遅れのアプリは、そろそろ自滅し、解体されようとしているように見える。