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天使たちが働く夜:エッセイ

天使たちが働く夜



 冬の夜、薄闇のなかで天使に会ったことがある。

 家の近くの県道がまだ舗装されていなかった、子供のころのこと。


「えいちゃん、灯油が切れたから買ってきてくれよ」
 父にお金を渡され、防寒着を着せられて、外に出た。

 日が山の向こうに落ちるころ、ポリタンクを積んだ一輪車を押して商店に向かった。

 惑星が空に光っている。

 タンクを満タンにして帰るころにはすっかり暗くなっていた。

 空には明るい満月。
 夕暮れ時の風もやんで、あたりは静かだった。

 商店を出て県道を歩いていると、ひとりの女の人がこちらに向かって歩いてきた。

「こんばんは」
 こちらから挨拶をすると、その人はにこりと笑った。
「あなたにこれを渡そうと思ってたの」
 そう言って、薄い文庫本のようなものを差し出した。

 暗くて文字はよく見えなかった。
「もらっていいんですか?」

 その人はうなずいた。

「ありがとうございます」
 不思議な気分で本を受けとり、防寒着のポケットに入れた。

 少し進んで振り返ると、その人が商店の敷地へ入っていくのが見えた。


 家に帰ると、居間のちゃぶ台の上に本を置いて、石油ストーブの灯油缶を抜いていた。
 そこへ、居候をしている父の若い従弟がやってきた。

「この本どうしたの?」
「そこで知らないお姉さんにもらった」
「なにそれ」

 まだ十九の彼の実家は他県にあった。大学の受験に落ちて浪人中のため、家を出されて辺鄙なところにあるこの家で試験勉強に励んでいるのだった。
 
 父よりも筆者とのほうが歳が近く、彼のことは兄ちゃんと呼んでいた。

 都会より寒い山間部の冬にまだ慣れないようで、彼は家の中でも毛糸の帽子と手袋をはめて体を震わせていた。

「すぐストーブつけるから」
 筆者は灯油缶をもって物置へ走った。

 買ってきた灯油を缶に入れて戻ってくると、兄ちゃんはちゃぶ台の横に座って、あの本を読んでいた。

 よく見ると、泣いていた。

「どうしたの」

 涙を袖でぬぐって、兄ちゃんは言った。
「えいちゃんよ、この本、もらっていいか?」

「ああ、いいよ。でも、なんで」

「これ、おれのためにくれたんだよ、その人」
 それから、ふと視線を上に向けて、ぽつりとつぶやいた。
「人じゃなかったのかもな」

 兄ちゃんは立ち上がると、筆者の頭をなでて奥の座敷に本といっしょに引っ込んでしまった。


 その冬、兄ちゃんは大学に受かって、都会の実家に帰っていった。



 それから数十年後のこと。

 筆者はイスタンブルの裏路地にある長い坂をのぼっていた。

 生活用品店で布巾を調達して、アパートに戻る途中のことだった。

 坂の上からひとりの女性がまっすぐこちらへやって来た。
 そして、にこり、と笑った。


 ”あの人”の記憶がよみがえる。


 まるでスイッチを押したらパッと灯る照明のように、これからなすべきことを悟るまでに、1秒とかからなかった。


「ハロー、あなたにこれを渡したかったの」
 そう言って、その人は一枚のチラシを差し出した。

「サンキュー」

 目の前の黒い瞳をまっすぐ見返すと、そこにあったのは共謀者の微笑み。

 たぶん、こちらも。

 ふたりとも、お互いが理解したことを悟ると、背を向けてそれぞれの方向に歩いて行った。


 ほんの一瞬のことだった。




 その夜はアパートで食事をとらず、通りに面したレストランの屋外の席で食べていた。

 誰かが来ることをわかっていたからだ。

 食事が済んだころ、ひとりの青年が現れた。
「ここに座っても?」
「どうぞ。もちろん」

 イスタンブルの冬は寒い。
 筆者もこごえていたが、その青年もこごえていた。

 寒いですね、などと他愛のない会話を交わしたあとで、彼はようやく本題に入ろうとした。

「あの……、こういうことは家族とか友達には聞きづらくて、外国の人に聞きたかったんですけど……」
 少し口ごもってから、
「あなたはロシア人?それともカザキスタン?タジキスタン?」

「日本人ですよ」

「日本?あ、ああ、そうか。日本はブッディストの国だから……」
 
 筆者はジャケットのポケットから例のチラシを取り出して、テーブルの上に滑らせた。

 青年は驚いて目を見開いた。そして、戸惑ったようにチラシと筆者とを交互に見た。

 チラシの内容は、教会のクリスマスパーティーのお知らせだった。

「いってらっしゃい」

 青年は唖然としてチラシを手に取った。
「どうして……?」
 それから、いぶかしげに視線を横へやり、
「もしかして……」



 ───そう、人が天使の仕事を手伝うこともある。
 思いがけない偶然が起きるときは、控えめな天使たちが働いているものだ。
 そして、最後のバトンはしばしば人の手に渡される。

「えいちゃんは天使と仲良しだもんな」
 都会へ帰る日に、幼い筆者の頭をなでていった兄ちゃんの言葉が思い出された───。



 そんなふうに、懐かしい思い出の余韻にひたっていると、向かいに座る青年が言った。

「あなた、秘密警察?」

 ずっこけた。
「え?どうしてそうなった」

「何もしてない!ぼくは何もしてない!」
 彼は両手のひらを顔の横に広げて立ち上がった。

「ちょっと待て、座って、座れって。チャーイ、おい、だれかチャイ持ってきてくれー!」



 その後、暖かい店内に移って、夜遅くまで彼と話をした。

 彼はトルコ東部の閉鎖的な農村の出身で、ムスリム以外はみな退廃的で地獄行きなのだと教えられてきたという。しかし、大学に通うために大都会に引っ越し、さまざまな国や宗教の人々と触れ合ううちに、どうも違うようだと感じはじめていた。
 それで、教会に行ってみようと思い立ったのだが、勝手に入っていいのかわからず逡巡していたのだという。


 彼がチラシの教会へ行ったかどうかはわからない。
 その教会がどこにあるかも知らない。
 チラシが自分に渡されたものではないとわかっていたので、ちゃんと目を通していなかったからだ。




 クリスマスの夜。
 明かりがきらめく繁華街を歩いていた。

 少し先を、背の高い女性が横切った。

 女性が消えていった路地に目をやり、足を止める。
 ふむ。

 そこはシリアの難民が多く暮らす、安アパートの多いエリアだった。
 筆者は吸い込まれるように路地に入っていった。


 少し進むと、小さな女の子がこちらに駆け寄ってきた。
 筆者の前で立ち止まると、右手の指先をくっつけて口に運ぶ動作をしながら「ピラウ、ピラウ」と言って左を指さした。

 暗い路地の向こうに、オレンジ色の明かりを灯したピラフの屋台があった。
 気がつくと、いつの間にか子供たちが増えていた。
 ひとりの男の子は「サンダルが壊れた」と言って見せてくる。
 氷点下の夜に、その子は裸足のサンダル履きだった。


 なるほど。
 暗がりの向こうで天使が微笑み、宙に消えるのを感じた気がした。

「マーシアッラー(神のみ心のままに)。みんなおいで」

 
 

  
 不思議なことだが、筆者は彼女たちの顔立ちを覚えていない。
 日本で見たときは日本人の顔。トルコで見たときはトルコ人の顔。
 取りたててどうということのない、どこにでもいそうな、落ち着いた若い女性という雰囲気だけが記憶に残っている。

 彼女たちが天使だったのか、それとも、筆者と同じく臨時雇いの人間天使だったのかは定かではない。


 それでいいのだ。


 天使は目立たず、人に紛れて働いている。



 天使は不可能なバトンは渡してこない。

 つぎはどんなバトンが回ってくるのか、楽しみにしている。


 暖かい部屋で、こたつに入って天使を待つ。

 明るい月の、冬の夜。

 



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