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聖書が語る『千年王国』とは~ハルマゲドンへの道~④

 『千年王国』───昔はここ日本ではガチンコのクリスチャンしか知らないマイナーな話であったが、今ではメガチャーチと都市伝説の影響か知名度を上げつつあるように感じている。

 現在、一部のキリスト教コミュニティーでみんなの努力で『千年王国』を地上に実現させよう!というような動きがあるが、これは聖書的にはやってはならないNG行動である。

 どういうことかというと、「神様が頼んでもいないのに余計なことをすると、ろくなことにならない」という教訓をアブラハムが教えてくれているので、それを例にとって考えてみよう。


 神はアブラハムを訪れ、高齢のアブラハムとサラに子供が生まれると預言した。しかし、ふたりは人間の限られた想像力のなかで神の預言を実現しようと試み、アブラハムはサラに仕えていたエジプト人の若い女性との間に息子イシュマエルをもうけた。

 しかし、これは神の計画とは違った

 神は、高齢のサラがひとり息子を生むことを定めており、処女であったマリアがひとり息子のイエスを生んだように、子供を産めるはずのない高齢の女が子供を産むことによって、その息子イサクをイエス・キリストの予型として提示しようとしていたのだ。

 ちなみに、マリアのこどもはイエスだけである。
 イエスの他の兄弟たちは年上であり、マリアの夫ヨセフの前妻の子供たちであったと推測できる。だから、ヨセフはイエスが大人になったときにはもういなかったし、死の間際にイエスは母を若い弟子のヨハネに託したのだ。母を同じとする兄弟がいれば、そんなことはしない。


 話は戻って、アブラハムとエジプト人のそばめの間に生まれたイシュマエルの子孫から一部のアラブ人が生まれている。彼らはイスラエルの周辺に住んでいた。
 つまり、現在のアラブ人とイスラエル人との抗争の発端を作ったのが、アブラハムのおせっかいなのだ。

 人は神のやろうとしていることを正確にわかっていないのだから、余計なことをすると問題が増えるだけなのである。

 人は神に頼るが、神は人に頼らない。だから、心配しなくていい。心配しておせっかいをするなら、それは神の力を信じていないというポーズになり得るのだ。


 ということで、……何の話だっけ?

 ……そうそう『千年王国』。


 聖書に描かれた『千年王国』が実のところどのような世界であるのかを、これから簡単に解説していこうと思う。

 それでは……、


『千年王国』とは何か?


 『千年王国』とは、現在のサタンが頂点に立っている(らしい)支配体制を廃して樹立される、神が直接統治する王国ことである。

 いわゆる『最後の審判』は、この千年王国のあとにつづく出来事である。

 最後の審判ののち、神は新しく創りあげた地上世界に、選別された人々を住まわせ、彼らは永遠に生きることになる。これが『楽園』となる。

 現在の世⇒千年王国⇒最後の審判⇒楽園
 
という基本タイムラインを頭に入れておいていただきたい。


 千年王国は、聖書の記述の中につぎのように登場する。
 

 イエスのあかしと神の言葉のゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その手や額に刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに千年のあいだ王となった。

 ほかの死者は千年の終わるまでは生き返らなかった。……。

 第一の復活にあずかるものは幸いなもの、聖なるもの……。彼は神とキリストの司祭となり、キリストとともに千年のあいだ王となる。

(黙示録20章4~6節)



 神の言葉に従い殺された者たちが生き返って、キリストとともに統治する王国、それが千年王国である。


 王国が建てられる直前に、悪魔サタンは縛られて地下に監禁され、サタンとともに人類を支配していた人間たちとその賛同者は滅ぼされている。


 王国の市民として地上に残されるのは、神の言葉に反する統治に賛同しなかった人々
である。


 その王国においては、

 狼は子羊とともに宿り、……獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はマムシの子に手を伸べる。
 わたしの聖なる山のどこにおいても、これは害を加えず、損なわない。
(イザヤ書11章6~9節)

 ……とあるように、人とともに動物も調和を取り戻して、野生動物も危険な存在ではなくなるようだ。

 また、


 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。

 そこにはもう鳴き声も叫び声も聞かれない。
 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もいない。
 百歳で死ぬものは若かったとされ、百歳にならないで死ぬものは呪われたものとされる。
 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑をつくってその実を食べる。
 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。
 わたしの民の寿命は木の寿命に等しく……。

(イザヤ65章18~22節)


 とあるように、人はみな長生きになり、盗難などの犯罪のない平和な世の中になるとある。

 ここの節の直前に、「新しい天と地を創造する」という話が入るので、ここも最後の審判ののちにやってくる新しい世界の話かと思いそうだが、そうではない。新しい天と地には「もはや死はない」のである。
 寿命が長くなったとはいえ、死があるということは、この話はまだ「裁きの日」の前の現在の世界に建てられるキリストの王国での話となる。



 このように、キリストの統治がはじまると平和が訪れ、人々は健康になって寿命がのび、野生動物も殺し合わずにみなベジタリアンになるのである。


 さて、ではどうしてこのような平和が訪れるのかというと、平和を乱すものは即座に処分されるからである。


 え?

 
そうなのである。反逆者は即死刑になるからこそ、平和が保たれるのである。
 だから、百歳にならないで死ぬものは呪われたものとされるのだ。
 この王国では神の裁きを受けたものだけが短命に終わるということなのである。

 これは神の律法を破らない人々にとっては朗報である。しかし、盗んだり中傷したり魔術を行う人にとっては残念なお知らせとなる。


『千年王国』の過去サンプル



 聖書には、この王国の予型となるサンプルが紹介されている。

 それが、『出エジプト記』である。

 奴隷とされていたイスラエル人がエジプトから脱出した出エジプトのエピソードは、サタンの統治下にある現在の世界からキリストの王国に入る人々の予型である。


 イスラエル人はエジプトの地にいながらエジプトにくだされた10の災いから守られ、ファラオの統治から逃れて神の統治のもとに入った。

 しかし、それで終わり、めでたしめでたしとはならなかった。

 その後、神と神の代理であるモーセに反逆したり、神のものを盗んだものたちは、猶予もなく裁きを受けている。


 キリストの王国に入る人々は、神のしもべとは限らない。
 
サタンとともに庶民を食い物にしていた政治家や富豪とその賛同者が王国の樹立前に殺されることはたしかだが、それ以外の民衆はみな残されるかもしれないのだ。
 そして、残された民衆はキリストによる迅速な法の裁きにより選別されてゆく。

 だからこそ、盗みや暴虐を働く者がいなくなり、平和が訪れるのである。



 これを良いと思うか、ひどいと思うかで、現在のあなたの立ち位置がわかるだろう。



 では、以下に、『千年王国』と『出エジプト』の類似点を並べてみる。


 王国が樹立される前、神の反対者たちは数々の災いと裁きを受ける。
 エジプトの地とファラオが災いを受けたように。

 王国のために残される民は同じ地上にいながら災いの甚大な被害から守られ、生き残ってキリストの統治下にはいる。
 イスラエル人が災いを免れ、神の統治下にはいったように。
 
 王国で罪を犯した者は即座に処分されるだろう。
 荒野で罪を犯したイスラエル人が即座に裁かれたように。

 王国では神が世話をしてくれるので、飢えることはなくなるだろう。
 荒野のイスラエル人に、マナという食物を神が与えたように。

 王国では、神が近くにいて声を聞くことになるだろう。
 荒野のイスラエルの民に対して神が直接語りかけ、モーセやアロンを通して常に対話が可能だったように。



 このように、『出エジプト記』は終わりの日の予型とするために書き留められた出来事である。


『千年王国』後の世界



 現在の地上での千年におよぶ神の統治が終わると、地下に縛られていたサタンが解放される。


 ……千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。
 彼らの数は海辺の砂のようである。
 彼らは地上の広い平地に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。
 すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。

(黙示録20章7~9節)


 「愛された都」とはエルサレムのことである。

 サタンはかつてアダムとエバを誘惑したように、ふたたび平和な世界で何不自由なく暮らしている人々をプロパガンダによって神へ反逆するよう誘導する。

 
サタンのプロパガンダに賛同した人々はまるでハルマゲドンの再来のようにエルサレムを取り囲み、神の火によって滅ぼされる。

 そして、サタンも滅びのために火と硫黄の池に投げ込まれる。


 
それから、現在存在する天と地上は消滅し、いよいよ『裁きの日』が訪れる───。



 また私は、死んだ人々が、大きいものも小さいものも、御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物がひらかれた。
 また、別の一つの書物もひらかれたが、それはいのちの書であった。
 死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。
(黙示録20章12節)

 それから死とハデスとは火の池に投げ込まれた。これが第2の死である。
 いのちの書に名の記されていないものはみな、この火の池に投げ込まれた。

(黙示録20章14~15節)


 神にのことばに従うことを選ばなかった人々は、火に焼かれて焼失する。
 
存在そのものが消えるのだ。
 
 そのあとで、死とハデスも火の池に投げ込まれて消去される。
 ハデスとは「墓」の意味である。
 裁きによって死すべき人々が死に渡されたあと、世界から「死」そのものを死に渡す───消去する、ということである。

 こののちに死ぬ人々はいなくなる。


 また、わたしは新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
(黙示録21章1節)

 ……神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
 また、神はご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
 もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
 以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

(黙示録21章3~4節)


 神のことばに従うことを選んだ人々は、創造されたときのアダムのような完全な肉体を与えられ、新たに創られた破壊の痕跡のない完全な世界で生きることになる。


 
この世界こそが『楽園』である。

 人々の選別が終わっているので、もはや「死も涙もない」世界がやってくる。

 以降、人は神とともに永遠の世を楽しむことになる。

 
 ***

 
───これが、聖書に記された未来の筋書きである。


 要約すると、

 『千年王国』とは、地の支配者として創造されたアダムがサタンの言葉に従ったために、人間と地上の支配権を得たサタンから、神が支配権を取り戻して樹立する神の王国のことである。

 神がサタンと彼に従う人間たちを排除したのち、地上に残された人々が臣民となり、神の言葉に従い殉教した人々が生き返って神とともに統治者となる。

 その王国では悪や不正を働いたものは即座に処罰され、平和な世の中となる。

 人々は健康になり、寿命も延びる。

 そして、千年の終わりにはサタンが解放され、サタンの世を経験したことのない人々が惑わされ、彼らもまた選別のふるいにかけられることとなる。

 それから「裁きの日」が訪れる。




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