「概説 静岡県史」第215回:高校進学率の上昇と大学の「大衆化」」
自民党総裁選挙の結果を見て、そのまま女性首相が誕生するのだと思っていましたが、ここに来てあやしくなってきました。確かに自民党の新執行部の顔ぶれを見ると、公明党が連立離脱するにもわかりますが(そもそも公明党は新総裁が女性になった時点で連立離脱を検討していたようですが)、いろいろあった国民民主党の代表が首相候補に浮上するのは疑問です。やっぱり日本の戦後政治は、三流ですね。
それでは「概説 静岡県史」第215回のテキストを掲載します。
第215回:高校進学率の上昇と大学の「大衆化」」
1960年代に入ると、国民の教育要求は高まり、高校への進学率も急上昇しました。文部省が1961年(昭和36年)度に立てた高校急増計画での10年後の進学率予測は72%でしたが、実際には予想数値をはるかに超えて、70年度には82%にのぼりました。静岡県も高等学校課程再編成協議会が61年度に今後10年間の高校進学率を推定し、70年度には72%になると予測しました。しかし、文部省の『学校基本調査報告書』によると、静岡県は71年度に83%の進学率となっています。静岡県の伸びは67年から全国平均を上回るようになり、伸び率は全国平均以上でした。先の静岡県の推定によると、高校在学生の最大値は65年度の13万4000人でしたが、その年の実際の在学者は14万8141人でした。静岡県の高校進学者数は当局の思惑をはるかに超えた伸びを示しました。
高等学校課程再編成協議会によると、将来の産業構造に対応すべく、普通課程と職業課程の生徒定員比を50対50とし、公立対私立の定員比は2対1とすることと示されていました。48年の新制高校発足時の普通科課程を持つ高校が41校、職業系課程を持つ高校が30校であることを考えると、職業系課程の高校増設を意図していると言えます。
65年度の第六次静岡県総合開発計画後期計画においては、高校進学率が予想通り伸びていることに満足しつつ、70年度の進学率を75%と上向きに調整し直しました。進学率の伸びが予想外に高いことを認めつつ、「問題は高校進学率の上昇テンポが、予想をこえて余りにも急激であったために、需要側の必要性との関連にずれを生じたといえる」と述べています。静岡県の工業は中小企業が多く、そこでは「相対的に高賃金をもって迎えなければならない高卒者よりも、むしろ中卒者をより多く希望する事態も多」いのが実態で、高校進学率が高まることは雇用者の望むところではありませんでした。しかし進学率上昇という事態に対応して「高卒を採用し得るような企業体質の向上、生産性の上昇をもととした企業の発展を基調としなければ」なりませんでした。
このような進学率の上昇に対して、20世紀中葉の国際的な後期中等教育改革として「すべての者に中等教育を」というスローガンを掲げて、「希望者全員入学」運動が民間レベルで展開されましたが、文部省は消極的でした。文部省がとった原則は、高校はすべての者に開かれているものではなく、高等教育進学のための予備的機関であるという、伝統的な中等教育の役割の確認で、一言で言えば「適格者主義」と呼ばれる原則です。静岡県もこの原則を踏襲し、1969年(昭和44年)度県立高校入学者選抜の実施要項で、「高等学校を受けるに足る資質と能力」を判定して合格者を決めるという方針を示しました。しかし、この原則は、高校間格差を認めるならば高校ごとに「資質と能力」は違ってくるはずなので、一種の資格試験に変えなければ通用しないのであり、単独選抜方式の場合であれば、なおさらその矛盾は拡大されます。
このように高校進学者の増加は、押しとどめることができない流れとなりました。そこで静岡県は1970年代後半に入り県立高校の新設を進めていきます。76年(昭和51年)に袋井高校、77年に静岡西高校、78年に富士東高校、79年に伊豆中央高校、浜北西高校、湖西高校、81年に庵原高校、富士宮西高校、83年に浜松湖南高校、静岡南高校、伊東城ケ崎高校、84年に浜松江之島高校が新設されます。私立高校も75年に星稜高校(富士宮市)をはじめ、83年に中野学園オイスカ高校(浜松市)、桐陽高校(沼津市)、藤枝明誠高校(藤枝市)、加藤学園暁秀高校(沼津市)が新設されました。
大学進学率も高度成長期の成長に合わせるように急増しました。日本全体でその動向を見ると、65年(昭和40年)の17.1%から75年には38.4%と2.25倍伸びています。60年の数値を起点として見ると、大学進学率は10.3%で10年後の70年には24%となり、2.3倍の伸びを示しています。急激なスピードで30%台後半に到達したのです。以降は30%台後半で推移するので、この時期が「教育爆発の時代」と言われるのも分かります。なお、ここでの数値の出し方は「三年前の中学校卒業者」数で、「高等教育機関(短大も含む)入学者」数を割って、100をかけた数字です。
同時期の静岡県の大学進学率は、65年は21.6%、75年は36.9%なので、65年は全国よりも高く、75年は全国よりも低く、伸び率は1.7倍です。60年は13.7%で、65年に初めて20%台となり、70年代初頭に30%台に達します。ただしこの数値は上記の出し方での数値であり、全国の数値の出し方と違うので、全国的方式での進学率を見てみましょう。62年の中学卒業者は5万2713人で、65年の大学進学者数6814人を割って100をかけると12.9%となります。72年の中学卒業者は4万8562人で、75年の大学進学者数の1万5258人を割って100をかけると31.4%になり、全国と比較するとかなり低い進学率であることが分かります。
75年に大学進学率が38%になったということを別の角度から意義づけると、新制中学校初期における卒業生が高校へ進学する割合とほぼ同じということです。50年の高校進学率は全国平均で42.5%ですが、都市部ではともかく、地方ではそれ以下というところが少なくなく、静岡県では50年の中学校卒業生5万3433人のうち高校進学者は2万399人で、就職しつつ進学した者1593人と合わせると、高校進学率は41.2%、前者だけならば38.2%となります。
旧制大学の学生数のピークは49年の11万3320人で、同年の児童数は1230万8195人なので、わずか9%しか大学に行かなかったことと比べると、70年代の大学進学状況は、大学は誰でも行ける存在になったことを意味するのであり、大学の「大衆化」と言われるゆえんです。
かつて大学は一部の特権的階層の独占物でした。それが進学率の上昇により大学の門戸が開放されれば、すべての階層に開放されるはずで、それが教育の機会均等であり、社会的公正というものです。
進学率の上昇は当然大学入学者の増加に結び付きます。1963年(昭和38年)の4年制大学の入学者が全国で2万人になり、67年には3万人台となります。2万人から3万人となるのにわずか4年しかかからず、それだけ門戸開放が急速に進んだのです。
その門戸開放がすべての階層に開かれたのかというと必ずしもそうではなく、教育機会の量的拡大は機会の平均化にほとんどつながりませんでした。文部省が4~5年おきに行っていた「学生生活調査」を用いた潮木守一の『学歴社会の転換』を見ると、61年の国立大学の学生の20%は家庭の年収が最も低い20%層で、最も高い20%層から来た者は26%です。この層がやや高めだとしても大体はどの層の出身者もほぼ20%程度となっています。その意味で国立大学はかなり平等、公平にすべての階層に開かれていたと言えます。
次に74年のデータを見ると、出身階層は大きく変わり、所得の最も高い層から来た者が34%、次に所得の高い層の者が24%で両者合わせると58%を占めています。逆に最も所得の低い層の出身者は14%と減少し、次に低い所得層出身者も61年の20%から11%と落ち込みました。国立大学は次第に経済的に有利な階層によって独占され始めており、階層的閉鎖性が強まりつつありました。
私立大学もこの時期学生増は顕著でした。61年から74年までの、全国私立大学の学生数は3.5倍に拡大しました。その門戸は、裕福な家庭から進学するという私立大学のイメージのごとく、比較的所得の高い層からのみで、低所得層にとって少しも拡大していません。私立大学の授業料も高騰したことから、低所得層にとってはますます縁遠いものとなりました。この授業料の値上げをきっかけに、60年代半ばに大学紛争が頻発します。
次回は、「大学の新設と定員増」というテーマでお話しようと思います。
