「概説 静岡県史」第184回:「教育行政と教員のレッド・パージ」
このところ、朝はまだまだ寒い日が多いですが、日中は暖かい日もあって、まさに「三寒四温」ですね。春に近づいているってことなんでしょうか。静岡県では先週公立高校の入試も終わり、新しい春が近づきつつあるってところなんでしょうね。
それでは「概説 静岡県史」第184回のテキストを掲載します。
第184回:「教育行政と教員のレッド・パージ」
1946年(昭和21年)3月初頭に来日したジョージ・D・ストダード博士を団長とする第一次アメリカ教育使節団は、日本の教育制度を積極的に調査し、31日に以下の提言を含む第一次報告書を提出しました。この報告書は、日本人が自らの文化の中に健全な教育制度を再建するために必要な条件を確立するのを支援することを目的としているとしており、
① 教育制度の地方分権化:高度に中央集権化された教育制度は、官僚政治
の弊害を受ける可能性がある。教師が自由な国民を育成するためには、地
方分権化が必要である。
② 教育内容の多様化:画一的な教科書や試験に頼らず、広い知識と深い知
識を習得できるような多様なカリキュラムが必要である。個々の生徒の学
習体験や能力を考慮し、教師と協力してカリキュラムを作成する必要があ
る。
③ 修身教育の見直し:従来の服従心を助長する修身教育ではなく、自由な
国民生活に必要な平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神、理想的な技
術精神を育むような新しい解釈の修身教育が必要である。
④ 教科書の改善:地理や歴史の教科書は、神話を客観的に記述し、地方の
資料を積極的に活用する必要がある。
⑤ 保健衛生教育と体育の重視:保健衛生教育と体育は教育計画の基礎とな
るものである。身体検査、栄養、公衆衛生、体育、娯楽厚生計画を大学ま
で延長し、設備を速やかに改善する必要がある。
⑥ 職業教育の重視:あらゆる水準の学校で職業教育を強調し、実践的な職
業経験を積む機会を提供する必要がある。工芸や技術の基礎・理論に重点
を置き、技術工や労働者の貢献を社会研究のプログラムに組み込むべきで
ある。
などと提言しました。その結果、教育委員会制度が成立することになります。
教育委員会制度は、15年戦争下で日本の一部の教育学者から提唱されており、第一次教育使節団に協力するために日本側で組織された日本側教育家委員会から、「府県に地方教育委員会制度を設くること、学務委員の制度は之を廃止すること」という提案があり、それを教育使節団が採用したものです。なお、日本側教育家委員会は使節団の帰国により任務を終了し解散しましたが、46年8月内閣に設置された「教育刷新委員会」の新委員38人中20人が日本側教育家委員会の委員で、この委員会により、使節団報告書に基づいた教育改革が行われていくこととなります。
1948年(昭和23年)7月15日、「教育委員会法」が公布され、都道府県・市町村に公選制教育委員会が設置されることになりました。教育委員は都道府県で7人、市町村で5人とされ、1人は議会の議員から議会での選挙で選出し、残りの委員は公選することとされ、公選委員の任期は4年で2年ごとに半数を改選するとされました。
静岡県でも48年10月5日に県教育委員の選挙が執行され、藤井千代、松岡義平、西岡熊三郎、後藤敏夫、塩谷一夫、土橋一雄の6人が当選、県議会からは本杉亮平が選出されました。11月10日の第一回委員会で本杉が委員長、土橋が副委員長に指名されましたが、教育長は決まらず、しばらくは教育長心得を置きましたが、49年4月に岡野徳右衛門が初代教育長に就任しました。
市町村教育委員会は「教育委員会法」の規定により5大市(大阪、京都、名古屋、神戸、横浜)を除いて、50年11月1日まで設置を猶予されていました。これは小さな市町村では財政力が弱く、新たに一つの委員会をつくるとなるとその裏付けとなる経費が負担できないという一面があったためなのですが、静岡県では48年に清水市、富士宮市に設置されることになり、県の委員と同じ10月5日に選挙が行われました。清水市では無効投票が続出し10%あまりに上りました。48年10月9日付け「静岡新聞」によると、1枚の投票用紙に「県の委員の候補者の氏名」と「市(町村)の委員の候補者の氏名」を書く欄が離されずに付いたまま並んで置かれていたために、「四年委員になれた者が二年委員に転落したという悲劇まで招く結果」も生まれたとされています。清水市の教育委員は山田昌栄、杉山亮太郎、安部久作、北村正治の4人、富士宮市の委員は宇佐美誠作、小沢清、長村政藏、佐野源三郎の4人でした。
他の市町村では教育委員会をどのようにつくったらよいかを検討するため、地方教育委員会準備委員会を設置したところもありました。しかし、49年5月に文部省は設置期限をさらに延長し、52年11月1日にするとの改正案を提出したため、多くの市町村では52年設置の方向になりましたが、県内では静岡・磐田・吉原の三市が50年12月に設置されました。
このように公選制教育員会はスタートしましたが、さまざまな方面から反対意見が表明されました。文部省は現状維持の態度を示しましたが、地方制度調査委員会は市町村教委の廃止、全国教育委員会協議会は現行どおり、中央教育審議会は現行法を維持しながら市町村教委は任意設置、全国都道府県議会議員会は五大都市以外は廃止または任意設置、都道府県教委は議会の同意を経て知事の選任、全国知事会は都道府県のみ存続、全国市長会は市町村教委の廃止、全国町村長会も同様、全国町村議会議長会も同様、日教組は都道府県と五大都市は残し、他の市町村教委は任意という意見でした。
このような諸団体の意見をもとに、公選制から首長の任命による、人数は5人ないし3人と縮小した「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(新教育委員会法)案が国会に提出されました。衆参両院とも混乱の末、1956年(昭和31)年6月2日の明け方、警官隊導入という異常事態のなかで強行成立しました。その結果、55年10月5日が公選制教育委員会委員の最後の選挙となりました。
1949円(昭和24年)4月、吉田内閣は「団体等規正令」を制定して共産党員の登録を要求し、翌月、ドッチ・プランに基づいて「行政機関職員定員法」を公布して国家公務員と地方公務員の整理計画を立てました。「行政機関職員定員法」による行政整理での教員関係は10%ということでしたが、各都道府県の実情から言えば閣議決定どおりの実行は困難でした。教職追放の口実は、「行政機関職員定員法」に基づいて各都道府県で「定数条例」を設定して、過剰定員を整理するということで進められました。
静岡県では49年3月頃から警察の調査が進められ、「団体等規正令」の届け出も含めて、同年9月には整理対象者リストが作成されたといわれています。9月9日に開催された全国教育長会議の席上、静岡県教育長岡野徳右衛門は、GHQの係官から静岡県には300人近い党員、同調者がいるといわれ、大規模なパージが行われることが示唆されました。
49年9月28日付けの静岡県教育委員会が作成したレッド・パージ基準は、「番号」「校名」「関係度CSL(Communist. Sympathizer. Leader-Unionist)」「氏名・住所」「摘要」「主要経歴」「各種団体との関係」「交友関係」「研究活動」「個人的活動」「教育活動」とあり、「教育活動」の二として「勤務状況」があり、そこには「直接たると、間接たるとを問わず特定の少数者又は団体の支持又は反対の為に教育公務員としての地位を利用して言動し、又は諸法規、諸通牒の定める所に従わない言動あるものは好ましくない」とありました。同じく三として「教育指導に関する知識、技能」があり、そこには「自由に個性を伸展させることを、直接間接に阻害する如き教育指導上の考え方又は言動のあったものは好ましくない」とありました。これは48年7月に、公務員の争議禁止などを要求したいわゆるマッカーサー書簡と同一の文言であり、共産党員とその同調者が狙われていたことは明白です。
同年10月8日、県下一斉に67人の解雇が言い渡されました。そして50年2月以降「定数条例」が改正され、教員の補充が行われ、再び活動しないことを誓約した者が教職に復職したことから、この整理が明確なレッド・パージであったといえます。
次回は、「文化財への関心」というテーマでお話しようと思います。
