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播磨の城を歩いた男が語る「本当の城の姿」——木内内則氏ギャラリートーク レポート

はじめに

「本業は額縁屋です。でも17歳の頃から城を測り続けています」——そんな自己紹介から始まったギャラリートークは、一時間があっという間に感じられるほど濃密な内容でした。

今回のイベントは、企画展の締めくくりとして開催されたギャラリートーク。講師を務めたのは、播磨の中世城郭を35年以上にわたって独自に測量・研究してきた中世城郭研究家・木内内則(きうち ただのり)氏です。

額縁職人が城を「測る」という発想

木内氏は神戸在住の額縁職人。「四角で測る」という本業の感覚を活かし、播磨の城山に登ってはメジャーで実測し、1000分の1(10mを1cm)の縮尺で測量図を描き続けてきました。

この35年で測量した城の数は、なんと320以上。播磨に点在する城跡のほぼすべてを自分の足で登り、自分の手で測ってきたという行動力には、ただただ驚かされます。

「一つ測れたら、できるやん、てなって。そしたら次々と測りたくなった」と語る木内氏の言葉には、研究者というよりも探求者・職人としての純粋な情熱が感じられました。

「播磨の城」は姫路城型ではない

私たちが「城」と聞いて思い浮かべるのは、姫路城のような石垣・天守・櫓を備えた近世城郭ではないでしょうか。ところが木内氏の測量が明らかにしたのは、播磨の城のほとんどは山を削っただけのシンプルな形だということです。

さらに興味深いのが、縦堀(竪堀)の構造。一見単純に見えますが、実はこれが絶妙な守りの仕掛けになっています。攻め手を一列に誘導することで、上から弓を構える10〜13人+補助の計約30人で守れる城になっているというのです。

お寺を守るように城がある

複数の測量図を並べた「分布地図」から浮かび上がってきたのが、お寺と城の関係です。

現代の私たちは「城があってお寺がある」という感覚を持ちがちですが、播磨の地図を見ると逆の配置が見えてきます。大きなお寺(三重塔・多宝塔を持つ古刹)を取り囲むように、山上の城が配置されているのです。

東播磨にお寺が多く西へ行くほど少なくなる分布も、赤松氏ら武士が力を持った西播磨の歴史と重なります。「城がお寺を守っていた」という逆転の発想は、地図を俯瞰することではじめて見えてくる視点です。

秀吉の播磨攻め——地図で追う城攻めの経緯

今回のトークのハイライトの一つが、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による播磨攻めの経過を、分布地図の上で番号を追いながら解説するパートでした。

上月城・三木城を中心に、秀吉軍がどの城を、どの順番で攻め落としていったか。加古川の水運・兵糧ルートの封鎖、毛利軍の動き、別所氏の離反——それぞれの城が持つ地理的意味が、測量図と分布地図によって鮮明に浮かび上がります。

「なぜこの城を攻めたのか」が地図を見ると腑に落ちる。歴史の教科書では文字でしか追えなかった戦略が、空間として理解できる——これが木内氏の研究の最大の醍醐味だと感じました。

特に印象的だったのは、三木城が落城するまでの包囲網が徐々に完成していく様子です。地図上で城が一つ一つ落ちていく過程は、まるで歴史のアニメーションを見るようでした。

参加してみての感想

木内氏の研究は、大学や公的機関ではなく、一人の職人が35年間かけて自分の足と手で積み上げてきたものです。その行動力と継続力には、純粋に頭が下がります。

播磨に320以上の城跡があること、その多くがお寺と深く結びついていること、そして秀吉の播磨攻めがいかに緻密な地理的戦略に基づいていたか——地元にいながら知らなかったことが、たった一時間でたくさん見えてきました。


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