見出し画像

国連加盟を阻んだ拒否権とは?冷戦下の安保理を読み解く

YouTubeで歴史動画を投稿している歴史ラボです。

投稿した動画の内容をベースに、読み物としてまとめています。

今回のテーマは終戦後の日本が国連加盟を実現し、国際社会へ復帰するまでの道のりについてです。

この記事の内容は、ホームページの動画でもご覧いただけます。
よろしければこちらもご覧ください。


第1章 国際連合とは何か?戦後日本が目指した国際社会への復帰

国際連合(国連)は、第二次世界大戦の反省から生まれた国際機構です。国と国が対話し、協力し、争いを抑え込むための「場」をつくる。戦争を未然に防げなかった国際連盟の失敗を踏まえ、より実効性のある仕組みとして1945年に発足しました。

国連の中心には、安全保障理事会(安保理)があります。ここにはアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国という常任理事国がいて、「拒否権」を持ちます。つまり、どれだけ多くの国が賛成しても、常任理事国が1か国でも反対すれば決定できない。この強烈な制度が、戦後日本の国連加盟において最大の壁になっていきます。

一方、終戦直後の日本は、そもそも国際社会の「一員」として行動できる状態ではありませんでした。1945年9月の降伏後、日本は連合国軍の占領下に置かれ、GHQのもとで民主化・非軍事化が進められます。国としての主権が制限され、外交の自由も大きく縛られたまま、まずは国内の再建に取り組む時期が続きました。

だからこそ、日本にとって国際社会への復帰は「念願」でした。戦争に負けた国が、再び世界の中で認められるには、最初の関門を越えなければならない。それが平和条約の締結であり、主権回復でした。


第2章 サンフランシスコ講和条約で主権回復、しかし残った課題

1951年9月、アメリカ・サンフランシスコで講和会議が開かれます。集まったのは52か国。日本側の全権は当時の首相・吉田茂が務めました。戦後の日本外交は、この講和会議を通して「国として再出発できるか」が問われたわけです。

最終的に、日本を含む49か国が条約に署名します。ところが、ここで重大な「欠け」が生まれます。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは署名を拒否し、特にソ連が加わらなかったことは、のちの日本外交に重くのしかかりました。さらに中国は、代表権をめぐる対立(中華民国か中華人民共和国か)によって会議に招かれませんでした。つまり、平和条約が成立しても、国際政治の分断はそのまま残ったのです。

条約は1952年4月28日に発効し、日本は占領を解かれて主権を回復します。独立国として立ち上がる日が来た。けれど、同時に領土や地域をめぐる厳しい現実も突きつけられました。台湾や千島列島などの権利放棄が定められ、沖縄や小笠原諸島は引き続きアメリカの統治下に置かれます。

主権を取り戻した日本にとって、次の目標は明確でした。国連への加盟です。国連に加わり、各国と対等な立場で外交を行う。それは「戦後復興の総仕上げ」として、象徴的な意味を持ちました。ですが、その願いは簡単には叶いません。国連には、拒否権という冷戦の装置があるからです。


第3章 1952年、国連加盟申請とソ連の拒否権という壁

主権回復から間もない1952年6月、日本は国連加盟を申請します。ところが当時は冷戦の真っただ中。アメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営が激しく対立し、世界が二つに割れていました。アジアでも中華人民共和国の成立や朝鮮戦争があり、緊張はさらに高まっていきます。

加盟申請は安保理で審議され、賛成10、反対1という圧倒的な支持を集めました。それでも加盟が認められなかったのは、反対したソ連が拒否権を行使したからです。「時期尚早」という理屈はつけられましたが、要するにソ連は、西側の側に立って復帰しようとする日本を簡単には受け入れたくなかった。国連が理想を掲げる一方で、現実の国際政治は大国の思惑で動く――その厳しさが露骨に出た瞬間でした。

日本は総会で支持決議を得ても、安保理の拒否権がある限り突破できません。外務省はアジア・アフリカ諸国へ働きかけ、賛同の輪を広げようとしますが、最後の鍵を握るのはソ連です。ここで日本政府は痛感します。国連加盟の道は、ソ連との関係修復を抜きにして開けない、と。

つまり、国連加盟は単なる「手続き」ではなく、冷戦構造の中で日本がどこに立つのか、そしてどのように隣国と向き合うのかを問う、外交そのものになっていきました。


第4章 鳩山一郎とモスクワ交渉!日ソ国交正常化への険しい道

転機となったのが、1954年12月に発足した鳩山一郎内閣です。鳩山は日ソ国交正常化を最重要課題に掲げ、アメリカ協調を軸にした吉田路線とは異なる「独自外交」を目指しました。国連加盟のために必要なのは、ソ連の態度変化。ならば正面から交渉するしかない、という発想です。

ただし交渉は、最初から難所だらけでした。最大の争点は北方領土です。日本は4島の返還を求め、ソ連は譲らない。議論は平行線をたどり、「国交回復」以前に、互いの不信があまりに大きい現実が露呈します。

行き詰まった1956年、ソ連は強硬手段として「ブルガーニン・ライン」を一方的に引き、北海道北側海域での漁を制限します。日本の漁船が捕まり、漁に出た人々が連行される。水産業への打撃は深刻で、日本側には強い圧力がかかりました。外交交渉が、生活の現場を揺さぶる形で迫ってきたのです。

それでも鳩山は引きません。側近の河野一郎農林大臣をモスクワへ送り、交渉を継続させます。そして1956年10月、鳩山自身がモスクワへ赴く決断をします。高齢で体調も万全ではない中、それでも「ここで動かなければ道は開けない」という執念があったのでしょう。

交渉は10月13日に始まり、日本側は鳩山、ソ連側はブルガーニン首相やフルシチョフらが臨みます。領土問題で全面的合意には至らない。それでも、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡すことで合意し、現実的な妥協点を探ります。

10月19日、日ソ共同宣言が調印され、戦争状態の終結と国交回復、シベリア抑留者の帰国が決まりました。そして何より重要なのが、日本の国連加盟をソ連が支持することが明記された点です。拒否権という最大の壁を、外交交渉によって取り除いた――ここが、国連加盟への決定打となります。


第5章 1956年12月18日、ついに実現した悲願の国連加盟

日ソ共同宣言から約2か月後の1956年12月12日、日本の国連加盟は再び安保理で審議されます。ここでソ連も賛成に回り、全会一致で加盟が支持されました。1952年に拒否権で止められた扉が、ついに開いた瞬間です。

そして12月18日、ニューヨークの国連本部で開かれた総会で、日本の加盟が正式に承認されます。日本は80番目の加盟国として迎え入れられました。敗戦から11年。占領、主権回復、冷戦の壁、日ソ交渉――いくつもの関門を越えて、ようやく国際社会の「正式な一員」として認められたのです。

加盟式には外相の重光葵が出席し、国連の目的を尊重し世界の平和に力を尽くすと誓いました。このニュースは日本中を駆け巡り、新聞やラジオも大きく報じます。国連加盟は、単なる外交上の成果ではなく、戦後日本にとっての「復帰の証明」であり、人々の心に残る節目になりました。

大仕事を終えた鳩山首相は総辞職し、その後の政権も国連中心主義を外交の柱に据えていきます。日本はやがて安保理の非常任理事国に何度も選ばれ、国連を支える主要国へと歩みを進めます。費用面でも存在感を強め、国連の活動を支える負担国としての役割も大きくなりました。

1956年12月18日、日本は敗戦国から脱し、国際社会の一員へと復帰しました。そこから先の歴史は、「平和国家として世界に何ができるのか」という問いと、ずっと向き合い続ける歴史でもあります。


※本記事は、趣味の一環として、AIツールなども活用しながら調べた内容をもとにまとめたものです。


いいなと思ったら応援しよう!