人事としての矜持
この土日は、会いたい人たちがいて、ライブで聴きたいセッションもあって、京都に戻っていました。
お目当てのひとつは「京大 知の森」というイベント。この日のテーマは「AI時代の『知性』と『衝動』」。
登壇されたうちのお一人である塩瀬隆之先生のお話のなかで、そもそも京都大学はどんな場(環境)か?に言及された時間があって。
「自由『の』学風」が生まれたのは、初代・木下総長による「自重自敬」という方針が下敷きになっていて。
大学での研究を通じて何を突き詰めるのかを、誰にも干渉されない。
なぜそんなことをし続けているの?と言われそうなときにも、他者の評価・解釈を受けない。
でも他者との関係性を閉じるのではなく、むしろ対話を重んじる。
そんな「対話を根幹とした自学自習」の場であるのだ、と。
越境も横断も、誰かに言われたからやるのではない。それが世の中で評価されるのか、なんてことはどうでもいい!
周りには「生涯かけて、このテーマを追いかけるんだ!」という「衝動」によって、大いなる問いに身を委ねて生きる人たちが溢れていて。
そんな場に身を置いていると、そうだ、自分も突き詰めていいんだ!ってなるんだ、と。
あと、お聞きしたなかで、大学のこと(京大で活躍する人たちのこと?)をこんなふうに表現する方もいらっしゃる、というお話もあって。
【やりたいことしかできない才能にあふれた人たち】
この話の流れで紹介されると、なんかもう、京大そのものっぽくて、思わず笑ってしまったのですが。同時に、いや、ほんとはどんな場であっても、そういう「人間らしさ」がちゃんと受けとめられる器をつくっていかないと、ってしみじみ思うのです。
ちなみに塩瀬先生ご自身は(必ずしも大学のことだけに触れる意味合いではないけれど)「好奇心の前では、皆平等」ということをおっしゃっていて。含蓄のある言葉だなあ、と。
昨日のメモを見返し、改めて「自由『の』学風」という言葉について調べてみようとしたら、ドンピシャのコラム(リンク先)に行き当たり。
自由『な』女神と、自由『の』女神の対比は、昨日のお話でも言われてましたが、このコラムにある、
「主体的に動き、自由を体現した学びを重ねることが求められる。“能動的”に自由とは何かを追求する必要がある」
…というくだりを読んでふと思い出したのは、私が母校の高校(大阪の公立ですが、昔から自由を大切にする校風で地元では有名でした)に入学した初日に、先生から
「自由には、責任が伴う。自由というのは、決して楽な道ではない」
と教えられたこと。で、考えたのは。
塩瀬先生が、ご自身が参画・リードされていた「学びの多様化学校」のプロジェクトの話をされているときにおっしゃっていた、
「大人が子どもたちに、自由の探究ができる環境をつくれないこと自体が甘えではないか」
というメッセージがあって、これは「企業がそこで働く人たちに」と置き換えても、全然違和感がないな、と。
人事として、社員の方々に対してどんな場を差し出すのか。そこに個々人を見て必要な環境をつくるという意志が存在するのか。
SINIC理論で言われる自律社会を迎えるための「人間の真の変容」にも、密接に関わることのように思えてきています。
そんなこんなも全部ひっくるめて、企業の文脈でも、自由の重みを引き受けつつ、個々人が自らの好奇心に突き動かされ、大いなる問いに向き合い続けられる組織文化をつくりあげていきたいな。いや、自分がたまたま所属する企業組織などというごく小さな範囲に閉じることなく、広く人が働く場というものをアップデートしていきたいな、と思う朝です。
