【創作大賞2026応募作品】白卓の沈黙 第4章:余白に刺す真夜
白い照明の下にいると、夜が昼に似てくる。似てくるのに、昼よりずっと静かで、静かだからこそ自分の呼吸が目立つ。
紗季はその呼吸を目立たせたくなくて、駅からの道を少しだけ遠回りした。遠回りの途中で看板の光が変わり、路面の色が入れ替わる。
人の流れが細くなるころ、街は音を削っていく。電光の点滅がゆっくりに見え、車の走行音が遠くでほどける。
終電後という言葉は便利で、便利な言葉ほど感情を隠してしまう。紗季は隠しているふりを続けたまま、ファミレスの扉の前に立つ。
ガラス越しの白は、外の暗さを薄く押し戻す。押し戻された暗さが、入口の足元に溜まっている気がした。
自動ドアが開く音は短く、短いのに境界を作る。境界を越えるとき、紗季はいつも肩の力が少し抜ける。
抜けた力のぶんだけ、何かが入り込みそうになる。入り込みそうになるから、紗季は急いでメニューの文字に視線を落とした。
店内の匂いは乾いていて、けれど氷の冷えがどこかで湿りを作っている。薄い音楽が耳の奥に残らず、沈黙の角を丸くする。
席のほうを見る前に、見てしまう。目が勝手に確かめるのは、期待ではないと自分に言い聞かせたいからだ。
直人はいた。今日も同じ席で、背中を背もたれに預けすぎず、手をテーブルの端に置いている。
紗季は斜めの席に座る。向かい合わない距離が、今夜の自分の心臓を守ってくれる。
「来ましたね」
直人の声は小さく、けれど聞き落とされない温度がある。温度があるだけで、紗季の胸の奥が少しほどける。
「来ました」
紗季はそれだけ言って、水に触れる。冷たさで指先を現実に戻し、戻った指先で自分の感情を押さえる。
店員が来て、注文を促す。直人は必要な言葉だけで済ませ、紗季もそれに倣う。
注文が終わると、沈黙が戻る。沈黙は重いはずなのに、二人のあいだでは、重さがいつも少し違う。
紗季はその違いを言葉にしたくなる。言葉にした瞬間、違いが形になって、形になったものが怖くなる。
直人はグラスの氷を一度だけ揺らす。硬い音が短く鳴り、紗季の胸の内側のざわめきが一段落ちる。
落ちたざわめきのぶん、紗季は余計なことを考える。考えるのに、考えないふりをする癖が、今夜はうまく働かない。
「今日は、どうでした?」
直人が聞く。聞き方が穏やかで、けれど逃げ道の位置をちゃんと残す。
「どうって言えるほど、まとまってないです」
紗季は正直に言ってしまう。言ってしまったあとの喉のひりつきが、少しだけ軽い。
直人は頷く。頷きの角度が深いとき、紗季は自分が受け取られている気がして怖い。
飲み物が届き、湯気のない冷たさがテーブルの上に置かれる。グラスの外側にすぐ水滴が浮かび、木目の上に淡い輪ができる。
輪はじきに消える。消えると分かっているのに、紗季はそれを見てしまう。
「まとまらない日は、無理にまとめないほうがいい気がします」
直人の言い方は断定ではなく、気がしますで終わる。終わり方が柔らかいせいで、紗季は反発を忘れる。
「まとめないと、怒られるので」
紗季は笑いかけてやめる。笑いにしたら軽くなるけれど、軽くしたくない痛みが今日は残っている。
「怒られるんですね」
直人が言う。その短さが、紗季の胸の奥に刺さる。怒られるという言葉を、誰かにそのまま置いてもいいのだと感じる。
「怒られます、毎日じゃないけど」
紗季は水を飲む。水が冷たくて、喉の奥が痛い。痛いのに、泣きたい感じとは少し違う。
泣きたいのは、怒られたことではなく、怒られても平気な顔を作れる自分のほうだ。平気な顔を作るのが上手いほど、本音が遅れてくる。
遅れてきた本音は、たいてい夜の端で置き去りになる。置き去りになった本音が、こうして白い照明の下で息をする。
「紗季さんは、仕事が上手そうです」
直人が言う。上手そうという言葉が、誉め言葉に聞こえない瞬間がある。紗季はその瞬間を知っている。
「上手いんじゃなくて、逃げるのが下手なだけです」
言ったあとで、紗季は自分の口が余計に開いたことに気づく。けれど直人は、それを閉じようとしない。
「逃げるのが下手だと、ずっと前に進んじゃいますね」
直人が言う。前に進むという言葉が、紗季には重い。前に進んだ先で、誰が待っているのか分からない。
「進んでるふりして、同じところをぐるぐるしてるだけです」
紗季は少しだけ意地悪に言う。意地悪が出るのは、自分を守りたいときだ。
直人は笑わない。笑わずに受け取ることで、紗季の意地悪をそのまま置く。置かれると、紗季は意地悪を続けられなくなる。
沈黙が来る。沈黙の中で、隣の席の食器が触れ合う音がひとつだけ鋭く聞こえる。
音の鋭さが、紗季の中の疲れの輪郭を少しだけ際立たせる。際立つと、隠せない。
「今日、変な夢を見たんです」
紗季は話題を変えるふりをする。話題を変えるふりをしないと、今の沈黙が深くなりすぎる。
「どんな」
直人の返しは短い。短い返しが、紗季の続きを待っている。
「提案書が、紙じゃなくて砂になってて」
紗季は自分でも笑いそうになる。笑いそうになるのに、夢の中の焦りはまだ指先に残っている。
「触ると崩れて、ページがなくなるのに、提出だけは迫られるんです」
夢の中の空気の乾きまで思い出して、紗季は喉を押さえたくなる。
直人は小さく頷く。頷きが、夢を馬鹿にしない。馬鹿にされないだけで、紗季は少し救われる。
「砂だと、確かに怖いですね」
直人が言う。怖いという言葉が、夢の中の焦りを現実の言葉に変える。言葉に変わると、焦りは少しだけ外に出る。
「怖いです、何も残らない感じがして」
紗季はそう言ってしまう。何も残らない感じが怖いと言った瞬間、仕事の話を越えてしまった気がする。
直人はそれでも黙って聞く。聞かれると、紗季は自分が何を怖がっているのか探してしまう。
残さないのが怖いのは、努力が無駄になるからではない。誰かの気分ひとつで消えるものばかりに囲まれて、自分の輪郭まで薄くなるからだ。
「残したいもの、ありますか?」
直人が聞く。質問が静かで、紗季の胸の奥の壁に触れる。触れるのに、叩かない。
「残したいって、言うと、重い」
紗季は逃げる。逃げる癖をここで使ってしまうことに、少しだけ自分が嫌になる。
直人はその嫌さを追わない。追わない代わりに、氷を一度揺らす。音が短く鳴り、紗季はその音に息を合わせる。
「重いほうが、ちゃんと残りますよね」
直人が言う。残りますよね、の言い方が、紗季の胸の内側を少しだけ温める。
温められると怖い。温められた場所は、冷えたときに痛む。痛むのを知っているから、紗季は温度に慣れたくない。
けれど慣れたくない気持ちの奥に、慣れたい気持ちもある。慣れたい気持ちがあることが、紗季には一番の弱音だ。
直人は水を飲む。飲む前に小さく息を吸う癖が、今夜は少しだけ深く見える。
深く見えるのは、紗季が直人を見ているからだ。見ているという事実が、紗季の胸の奥で静かに鳴る。
「直人さんは」
紗季は言いかけて止める。相手の生活に触れるのが怖い。触れたら、この関係が生活の延長では済まなくなる。
直人は待つ。待つ沈黙は、紗季の言葉の背中を押さない。押さないのに、紗季は続きを言う。
「直人さんは、残したいもの、ありますか?」
言ってしまったあとで、紗季は自分の声が少し掠れているのに気づく。掠れは疲れのせいにしたい。
直人は少しだけ目を伏せる。伏せたまま考える時間が、紗季には長く感じる。長く感じるのに、目を逸らしたくならない。
「残したいものは、あります」
直人はそれだけ言う。あります、の短さに、紗季の胸が揺れる。
「でも、残せるかどうかは、分からないです」
直人の声が少しだけ低くなる。低くなるだけで、白い照明の下の空気が少し濃くなる。
紗季は黙る。黙ったまま、グラスの水滴の輪を指でなぞる。輪は消えるのに、指先の冷えは残る。
「仕事ですか?」
紗季は聞く。聞いた瞬間、踏み込んだ気がして喉が詰まる。詰まった喉のまま、逃げずに待つ。
直人はすぐに答えない。答えない間に、店内の音が遠のく。遠のいたぶんだけ、直人の呼吸が近くなる。
「仕事も、そうです」
直人は言う。そうです、の言い方が曖昧で、でも曖昧さの中に決めた線がある。
「出版の営業って、何を売ってるんだろうって、たまに思います」
直人の言葉が少しだけ長くなる。長くなるとき、直人が自分の話をしているのが分かる。
紗季は息を吸う。吸った息が胸の奥まで届かない。届かないのに、聞きたい。
「本そのものは、もちろん売ってるんですけど」
直人は言葉を探す。探す間が、紗季には刺さる。刺さるのは、言葉を探す人の弱さが見えるからだ。
「実際は、場所とか、面子とか、約束とか」
直人の声は静かで、静かなのに、言葉の端が少しだけ痛い。痛い言葉は、紗季の体のどこかに触れる。
「誰かが守りたいものを、別の誰かの前で守る仕事みたいな」
直人はそう言って、そこで止まる。止まった瞬間、氷が自分で鳴ったみたいに小さく音を立てる。
紗季は頷けない。頷いたら、分かると言ってしまいそうで怖い。分かると言ったら、二人の痛みが同じ棚に置かれてしまう。
「守るって、疲れますよね」
紗季は結局、言ってしまう。言ってしまったあとで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
直人は目尻をほどく。ほどけ方が小さくて、笑いというより許可に近い。許可されると、紗季はもっと言ってしまいそうになる。
「疲れます」
直人は短く言う。短い言葉に、直人の疲れが詰まっている。詰まっているのに、重さをこちらに渡してこない。
「疲れるのに、帰れない夜がある」
直人が続ける。帰れない、という言葉が紗季の胸に当たる。紗季だけの言葉ではなくなる瞬間が怖い。
「会食とか、取次とか、書店さんの都合とか」
直人は具体を並べすぎない。並べすぎないのに、夜の粘りが伝わる。伝わってしまうと、紗季は手を伸ばしたくなる。
伸ばしたくなる手を、紗季は膝の上で握る。握った指が少し痛い。痛みで自分を止める。
「それでも、やめたいとは思わないです」
直人が言う。やめたいとは思わない、の否定が、紗季には強い意志に見える。
「やめたら、何かが消える気がするので」
直人の声がほんの少しだけ掠れる。掠れがあるだけで、紗季の喉の奥が熱くなる。
何かが消える気がする。紗季も同じことを思っていた。思っていたのに、同じだと言うのは違う。
紗季は同じという言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉が喉に引っかかり、咳になりそうになる。
「直人さん、ちゃんと休めてますか?」
紗季は別の形で聞く。別の形でも、心配の温度が混ざってしまう。混ざった温度が怖い。
「休めてないです」
直人はあっさり言う。あっさりが、作った強さではないことを感じさせる。
「休めてないのに、平気なふりはできます」
直人が続ける。平気なふり、という言葉が、紗季の胸の奥の壁を薄くする。薄くなると、涙の芽が近づく。
紗季は水を飲む。冷たさで涙を押さえる。押さえた涙の代わりに、胸が小さく震える。
「平気なふりって、便利ですよね」
紗季は言う。便利と言った瞬間、胸の奥が少し痛む。
「便利です」
直人は頷く。頷きながら、視線を一度だけ落たす。落とした視線が戻るとき、そこに少しだけ恥が混ざる。
恥が混ざるのが、紗季には刺さる。刺さるのは、直人が完璧ではないと知ってしまうからだ。
「僕、たまに」
直人が言いかけて止まる。止まった間に、店の奥で食器が重なる音がする。音が短く響き、直人の言葉の続きを促す。
「たまに、誰にも見られないところで、息が止まりそうになります」
直人が言う。息が止まりそう、という言葉が、紗季の胸の奥に落ちる。落ちた言葉が、紗季の呼吸を少し乱す。
「止まりそうになると、何を思うんですか?」
紗季は聞く。聞いてしまったあとで、踏み込んだ気がして喉が詰まる。
直人は少しだけ笑う。笑いは目尻からで、口元は遅い。遅い口元が、言葉にするのをためらっている。
「何も思えないです」
直人は言う。何も思えない、という空白が、紗季には一番怖い。
「何も思えないのに、体だけが動いて」
直人が続ける。動く体が、仕事のために作られた機械みたいに聞こえる。聞こえるのに、それが人間の話だと分かっている。
紗季は頷けない。頷けない代わりに、指先でグラスを回す。回すと水滴の輪が歪み、歪んだ輪が消える。
「だから、ここに来ます」
直人が言う。ここに来ます、の言葉が静かに落ちる。落ちた言葉が、紗季の中で熱を持つ。
熱を持つのに、直人はそれ以上言わない。言わない余白が刺さる。刺さる余白は、言葉よりずっと厄介だ。
紗季は、自分が直人の置き場所になってしまうのではないかと怖くなる。怖いのに、なってもいいと思う自分がいて、その自分を殴りたくなる。
殴りたくなるのに、殴れない。殴れないから、紗季は弱音を置く場所をまた探す。
「ここって」
紗季は言いかける。ここって、という言葉の先に、何があるのか分からない。分からないまま続ける。
「直人さんにとって、ただの場所ですか?」
紗季は聞く。聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。縮んだまま、息だけを深くしようとする。
直人は少しだけ黙る。黙った時間が、紗季の心臓の音を浮かせる。
「ただの場所だったら、楽でした」
直人が言う。楽でした、の過去形が、紗季の胸にひっかかる。
「でも、ただの場所じゃないです」
直人は続ける。続けた瞬間、紗季の喉の奥が熱くなる。熱くなるのに、涙はまだ出ない。
「言い方が難しいんですけど」
直人は言葉を探す。探す言葉の背中が見えて、紗季はそこに触れたくなる。触れたくなる手を、紗季はまた膝の上で握る。
「ここに来ると、息が戻る感じがするので」
直人が言う。息が戻る、という言葉が紗季の核心に触れる。触れられた瞬間、紗季は自分の言えない言葉を思い出す。
会えると息が楽になる。だから怖い。
紗季はその言葉を言わない。言わない代わりに、視線を落とし、テーブルの水滴の輪を見つめる。輪は消える。消えるのに、今夜の言葉は消えない。
「息が戻るって、すごいですね」
紗季は絞るように言う。すごいと言ったのは、本当は怖いと言いたかったからだ。
直人は頷く。頷きが控えめで、言葉を奪わない。奪わない頷きのせいで、紗季は自分の感情を置かされる。
「紗季さんも、息が戻る感じ、ありますか?」
直人が聞く。聞かれて、紗季は逃げたくなる。逃げたくなるのに、逃げない。
「……あります」
紗季は言う。言った瞬間、胸の奥が少しだけ崩れる。崩れたところから、言わないはずの気持ちが見えてしまう。
直人はそこで黙る。黙ることで、紗季の言葉を追い詰めない。追い詰めない沈黙が、紗季には一番きつい。
きついのに、嫌ではない。嫌ではないから、さらに怖い。
帰るべき時間が近づく。店内の白さが少しだけ鈍り、外の暗さがガラスに戻ってくる。
紗季は立ち上がれない。立ち上がったら、この言葉の余韻を置いていくことになる。置いていったら、また息が浅くなる気がする。
直人は先に立たない。先に立たないことで、紗季の選択を待つ。待たれると、紗季は自分が欲しがっていることを否定できなくなる。
「今日は、ありがとうございます」
紗季はようやく言う。ありがとうという言葉が、恋の言葉に近づきすぎないように、声を少しだけ平らにする。
直人は小さく頷く。頷きの中に、放っておけない気配が混ざっている。混ざっているのに、言葉にはしない。
会計を済ませて外に出ると、空気が少しだけ湿っている。雨が降ったわけではないのに、路面が夜の匂いを抱えている。
二人は店の前で並ぶ。並ぶのに、肩は触れない。触れない距離が、今夜は妙に意識される。
「無理しないでください」
直人が言う。無理しないで、は簡単すぎる言葉なのに、直人の声で言われると簡単ではなくなる。
「直人さんも」
紗季は返す。返した瞬間、自分が相手を気遣う側に立ってしまったことに気づく。気づいても、もう戻れない。
直人は少しだけ笑う。笑いは短く、目尻がほどけるだけだ。ほどけた目尻が、紗季の胸の奥を撫でる。
「来週も、ここにいます」
直人が言う。いる、という言葉が約束に近いのに、約束とは言わない。言わない余白が、紗季の中に残る。
紗季は頷く。頷いた自分が、少しだけ弱いと思う。弱いのに、その弱さが今夜は恥にならない。
信号が変わり、白い街の輪郭が少しだけ薄くなる。薄くなる中で、二人の言葉だけが不思議と残る。
紗季は歩き出す。背中に視線を感じる気がして、振り返りたくなる。振り返ったら、息が楽になるのが分かっているから怖い。
怖いまま、前を見る。前を見ながら、胸の奥の呼吸が少しだけ深いことに気づいてしまう。
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