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満漢全席は清朝宮廷料理ではない


 

 他で何度も書いたのですが、現在いわれる「満漢全席」は、料理のメニューの点でも、サービスの仕方、宴会のやりかたの点でも、清朝の北京宮廷料理ではありません。
 1956年8月に香港大同酒家で、香港、ハワイ華僑、21人がプロモーションした、大規模な広東料理の宴席が始まりです。
 そして、日本でよく知られるようになったのが1978年です。

昭和53年10月日本のテレビ会社が主催して、香港の国賓大酒楼で、日本の芸能界の知名人10人で2日間に600万円という超高価な満漢全席の料理を食べたことが、日本や台湾、香港などのテレビや新聞に大きく出た。これから日本で満漢全席の話はブームとなり、香港や台湾に満漢全席を食べに行く団体旅行が相次いだ。料理の値段は、一人が二日間に60万円食べるという馬鹿げたものではなく、一人前2~3万円のものが多く、高いものでも10万円を越えるものではなかった。

ref. 田中清一、一衣帯水ー中国料理伝来史、柴田書店、1987年、東京。233p 「満漢全席とその伝来」の項目から引用。

「宮廷料理」と詐称して、客を集めようとした宣伝文句です。それにテレビ局が悪乗りして捏造したのです。宮廷料理と称しなくても、珍奇な食材を使う優れた広東料理なのだからいいんじゃないかと思うのですが、まあ大金を使わせるには「宣伝文句」が必要だったのでしょう。まさにマスコミのプロパガンタによる歴史改変ですね。

 北京の紫禁城での宮廷料理については、公文書が残っているので、当時の献立もある程度わかっております。 現在の「いわゆる満漢全席」とは、似ても似つかぬものです。
「満漢全席」を言う人が、よくとりあげる西太后の宴会についてはどうでしょうか?西太后の元旦のメニューが記録されて残っています。難しい漢字があるから、イメージで提供します。


西太后メニュー

少し翻訳してみましたが、やはり難しいなあ。。
・火鍋2品
  羊肉[火+敦]豆腐
  炉鴨[火+敦]白菜
・大皿菜4品
  ツバメの巣萬福字鍋焼鴨子
  ツバメの巣寿字白鴨糸
  ツバメの巣萬字紅白鴨糸
  ツバメの巣年字拾錦さん子
・中皿菜4品
  ツバメの巣肥鶏糸
  溜鮮蝦
  鴨腰の細切
  三鮮アヒルの卵
・小皿菜
  鴨燻製、豚燻製
・点心2品(スイーツ)
・・以下略、すみません、やはり難しい。

 フカヒレも、熊の手も、子豚の丸焼きもラクダのコブも、なにも無いのです。燕の巣は多用されてますけどね。
 宮廷の食料仕入れ帳簿をみると、肉:魚の量的な比率が20:1ぐらい、場合によってはもっと少ないぐらいで、水産物が少ないことは驚くほどです、果物は意外と多いですね。
REF. 荘吉發,満漢全席 故宮文物月刊 No.83 1990/2
  
 これまた満漢全席の典拠として、よく取り上げられる記録に、揚州で豪商たちが乾隆帝一行を接待したときの料理があります。「いわゆる満漢全席」に、多少近い料理のラインナップだし「満漢席」という名称は、中国の文献ではここが初出のようです(揚州画舫録(ようしゅうがぼうろく) 1797年)。「20世紀の満漢全席」は、このメニューを参考にしているんじゃないかな、と思わせるところもありますね。これも、該当文献の該当頁をピンポイントでアクセスすることは、ネット公開時代とはいっても面倒なので、早稲田大学にある原書からイメージをつくって提供しましょう。たった2Pです。

揚州での接待メニュー

しかし、これは、あくまで江南視察旅行中の接待なので、宮廷料理ではありません。天皇陛下が旅行中、長崎のホテルや料亭で宴会に参加されたとして、その接待料理を皇室料理というわけにはいかないでしょう。

 更に、日本の1784年ごろの本:「唐山款客之式」に、
「漢席と満席とを別々に考え、これを一緒にして満漢之席といっており、いま高級官吏、長官の宴席はみな満漢席を用いる」
という記述があります。ref. 田中清一、一衣帯水ー中国料理伝来史、柴田書店、1987年、東京、234ー5p
 「満漢席」という言葉がそもそも、宮廷料理とは関係が無いわけです。各地方にも満州人官吏や有力者はいたでしょう。実際、西太后の父親だった満州人:恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」(「道」の監察史)でした。だから、満州人が参加したり主催したりする宴席が「満漢席」になったのは自然なことです。
  魯迅は、随筆「病後雑談の余」に、子どものころ紹興で「料理屋の看板に「満漢酒席」という 文字をみたことがあった。」とを書いています。宮廷料理でも豪華絢爛でもなんでもありません。
 当時の高級官僚や地方の知事たちや富豪たちが私邸で開く宴会なら、現在の「満漢全席」に近いものがあったかもしれません。特に南中国で香港に近い広州の知事邸宅や広州の豪商の宴会なら「20世紀の満漢全席」に近かったはずです。しかし、それを「清朝宮廷料理」と称するのは無理でしょう。

 清朝の宮廷料理の伝統を多少ともうけついでいるものに、ラストエンペラーの弟 愛親覚羅溥傑の妻、日本人貴族出身の愛親覚羅浩の著「食在宮廷」があります。満州国宮廷で、清朝宮廷料理の伝統を受け継ぐコックに師事された日本人の著作です。
 読んで甚だしい違和感があるのは、この料理書は、ほとんどが数十人分の量で書いてあるのに、序文では「宮廷料理というのは皇帝一人のためにつくられるものだ」と強調していることですね。 
 この矛盾は、ほとんどの料理は下賜システムによって下げ渡され、側近や関係者が消費すると考えなければ理解できません。こういう下賜システムによる宮廷内の食事と,「いわゆる満漢全席」のサービス・システムは全く違ったものでしょう。
 この下賜システムはヴェルサイユのルイ14世宮廷でも似たものが機能していたようです。
無駄遣いと腐敗の温床を生んだ複雑なベルサイユ宮殿の食事システム

 また、中華人民共和国になってからの北京 北海公園の仿膳飯荘は、一応宮廷料理をうけついでいることになっています。
仿膳飯荘: トリップアドヴァイザー
https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g294212-d1052778-Reviews-Fangshan_Restaurant_Beihai-Beijing.html

中華民国時代、1924年、馮玉祥によってラストエンペラーが紫禁城から追い出され失業したあと、
>1925年、北海公園がつくられると、もと宮廷用野菜の仕入れを担当していた趙潤斎と同じく御膳房の名コックが、北海公園北岸に開店し、清朝宮廷御膳の割烹技法にまねて各種料理・菓子をつくったことから仿膳の名が生まれた

ref 中国人民美術出版社+美乃美、中国の名菜、1983、京都
 ということになっているようですが、本当でしょうか?
 魯迅日記を踏まえて、当時の北京の風物を活写した「魯迅与北京風土」(鄧雲卿、魯迅与北京風土、文史資料出版社、1982年初版、北京)によれば、中華民国時代では、ここ仿膳飯荘は「カフェ」「喫茶」「茶座」というカテゴリーに入る店だったようです。この店で有名だったのは料理というよりお菓子・スイーツです。「豌豆黄(豌豆でつくった羊羹)」「小窩頭(シャオウォートゥ)トウモロコシの粉で作った素朴なお菓子」というお菓子を作って喫茶を主にやっていたようですね。これらのお菓子は、閉店した台北の京兆尹にもありました。こういう状態では、宮廷料理の伝統を受け継いでいるかどうか疑わしいと思います。ただ、「魯迅与北京風土」に引用された1926年の魯迅日記では、複数人での夕刻の食事会にも何度も使われています。「茶座」も、点心系のものや麺類などを出すのは普通だったから、結構料理もあったでしょう。ただ、上述の「中国の名菜、1983」 にカラー写真で掲載されているような広東料理、熊の手などが、中華民国時代の仿膳飯荘で出たかどうかは、疑わしいものです。しかしながら、仿膳飯荘 それ自体は、上品な味付けで、北京のレストランとしては評価が高いようです。また、高価な店のようです。場所も最高だしね。宮廷料理であるかないかということをはずして、高級店であるには違いありません。
#満漢全席 #清朝宮廷料理 #宮廷料理 #中華料理

 
 

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