ミステリ小説│影住(かげずみ)│第一話「空き家にいる、何か」【創作大賞2026│ミステリ小説部門】
あらすじ
佐渡島の集落・影住(かげずみ)。
空き家管理を任された青年・椎野は、管理先の空き家で白い面をつけた謎の人物を目撃し、事件に巻き込まれていく。
やがて椎野は、二十年前に影住で起きた未解決殺人事件の存在を知る。犯人とされたのは、白い面をつけたまま失踪した男・本間。
何者かに襲われながらも事件を追う椎野は、真相の一部を知る様々な人物と出会い、時に協力、対立しながら真実へ迫っていく。だが、彼らはそれぞれに異なる思惑を胸に秘めていた。
語られる過去、残された違和感、噛み合わない証言。過去と現在が交わる夜の廃校で、椎野は二十年間封じられてきた真実と対峙する。
白い面の奥に隠されていたものとは――。
佐渡の朝は、澄んでいる。
——そのはずだった。
海からの風はやわらかく、遠くで波が光を弾いている。
潮の匂いが、胸の奥まで少しずつ入ってくる。
朝の空気には、わずかに土の匂いが混じっていた。
生活の温度が、どこかにあった。
「……いい朝だな」
椎野は小さく呟く。
見慣れた風景を過ぎ、目的の集落へ入った。
今日から、一件の空き家を管理する。
高校を卒業し、この仕事に就いて十年経つが、初めて入る地区だった。
――影住。
名前だけは、前から知っていた。
車を降りた瞬間。
さっきまで感じていた生活の温度が、すっと引いている。
道はある。家もある。
人の気配が薄い。
窓は閉じられ、軒先に動きはない。
手入れはされている。
集落全体が、息を潜めていた。
ふと顔を上げる。
集落の背後、小さな山の中腹に、建物が見えた。
窓は黒く沈んでいた。
どこか傾きかけた木造校舎。
――廃校か。
椎野は意識を戻した。
――まずは総代に挨拶を。
細い道を進む。
手入れの行き届いた古い家。
軒先の植木が、規則正しく整えられている。
庭石の脇に、草刈り鎌が置かれていた。
刃先が、鈍く光っている。
戸を叩く。
「すみません、椎野と申します」
すぐに引き戸が開いた。
現れた男は穏やかな顔をしていた。
六十代前半ほど。
白髪交じりの髪を短く整えている。
目元は落ち着いていた。
「はい」
「本日から、この地区の空き家を管理することになりました。ご挨拶に伺いました」
「ああ、そうですか」
男は頷く。
「渡部です。総代をやっています」
声が柔らかい。
椎野は自然に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
渡部は、ほんの少しだけ表情を緩める。
「誰も寄りつかなくなった家が増えましてね」
「冬を越えると、傷みが早いんです」
椎野は軽く頷く。
「そうですね。風も入らなくなりますし」
「ええ」
渡部は目を細める。
「……家に、誰かがいるのが一番です」
何気ない声。
妙に耳に残った。
「影住も、そういう家が増えました」
「昔はもう少し、人の気配があったんですけどね」
小さく笑う。
「この家は、少し分かりにくい場所です」
地図を指でなぞる。
「集落の外れ、林の奥に入ったところです」
「気づかないと通り過ぎます」
椎野は地図に目を落とす。
「分かりました」
「林は入り組んでますから」
渡部は一瞬、言葉を切った。
「迷ったら、無理せず戻ってください」
椎野は頷いた。
「困ったことがあったら、この電話番号に連絡をください。近くにいますから」
その家は、想像以上に見つけづらかった。
集落の道を外れ、細い脇道へ入る。
さらに奥へ進むと、舗装は消え、木々が視界を遮る。
「……この辺か」
一度通り過ぎる。
戻る。
木々の隙間を探す。
そこでようやく、木の隙間に屋根が見えた。
「……あった」
近づかなければ気づかない。
まるで、そこに“隠されている”ように。
椎野は工具箱を下ろし、玄関へ向かう。
そのとき。
周囲が、妙に静かだった。
足が止まる。
「……」
玄関に立ったまま、椎野は一度だけ首をかしげた。
――何かが、違う。
これまで見てきた空き家とは、空気が違った。
閉じた匂いがない。
代わりに――わずかに新しい匂い。
玄関の奥から、ゆっくりと流れてくる。
人肌の残った匂い。
ほんのわずか。
空き家の空気じゃない。
――誰かいる。
玄関へ近づく。
椎野は鍵を開け、扉を開く。
「……すみません。管理で来ています」
返事はない。
なのに、空間のどこかが狭い。
椎野は慎重に中へ入る。
窓を開ける。
光が差し込む。
それでも、奥の暗さは消えない。
――コツ。
音。
椎野は動きを止めた。
上。
天井裏。
心臓が、わずかに跳ねる。
(……気のせいか)
一瞬そう思う。
無視できなかった。
「……確認だけだ」
テーブルを引き寄せる。
上に乗り、天井の点検口へ手をかけた。
持ち上げる。
暗闇。
ライトを向ける。
その瞬間。
――いた。
人。
白い面。
面の右頬に――キズ。
目の穴がこちらを向く。
穴の向こうは、底のない黒だった。
まばたきした。
——ほんの一瞬だったはず。
次に見たときには、消えていた。
「……え?」
椎野はしばらく動けなかった。
——見間違いか。
もう一度、ライトを向ける。
何もない。
ただの暗闇だった。
椎野は息を止めたまま、見つめ続ける。
やがて、身を低くして天井裏へ上がる。
埃っぽいはずなのに、空気が動いている。
ライトが足元をなぞる。
擦れた跡。
払われた埃。
崩れた布。
椎野は息を止めた。
――誰かがいた。
しかも、ほんの今まで。
喉が鳴る。
膝に力が入らない。
重心が、揺れた。
椎野は左手をついた。
――ギィ……。
天井裏の床が鳴る。
瞬間。
椎野の目が、下へ向いた。
天井裏から見えた、部屋の一番隅。
ここに上らなければ、分からなかった。
床板の、ほんのわずかな歪み。
ただの傷みかもしれない。
――見なければよかった。
だが。
もう、止められなかった。
椎野はゆっくりと下へ降りる。
工具箱からバールを手に取った。
床板の隙間へ差し込む。
一瞬、止まる。
目を閉じる。
――バキッ。
開く。
湿った空気が、噴き上がる。
ライトを向ける。
白いものが見えた。
骨だった。
人間の。
「……っ」
音が、消えた。
眼窩が、黒く沈んでいる。
呼吸の仕方が分からなかった。
椎野はその場に座り込む。
濡れた土の匂い。
もう一度、見た。
見間違いではない。
真っ暗な床下。
――人の骨。
(ここは、空き家じゃない)
そのとき。
焦げた匂いが鼻をついた。
遅れて。
――パチッ。
窓の外。
赤い光。
揺れる。
炎。
「……は?」
気づいた瞬間には、もう遅かった。
熱が、来る。
火が走っていた。
外側から。
家を囲むように。
乾いた音が弾ける。
屋根が、低く唸る。
空気が、一気に重くなる。
「……なんで」
立ち上がる。
玄関へ向かう。
扉を開ける。
その瞬間。
熱風が、押し寄せる。
「っ……!」
息が止まる。
肺に入る空気が熱い。
目を開けていられない。
煙が、喉に流れ込む。
「……っ、げほ……っ」
咳が止まらない。
前が見えない。
後ずさる。
足がもつれる。
床に手をつく。
熱い。
指先が焼ける。
(……違う)
こんなはずはない。
息ができない。
逃げろ。
窓へ向かう。
体を低くする。
煙の下を這う。
息が苦しい。
浅く、速くなる。
窓に手をかける。
外を覗く。
赤い。
炎が、壁のように揺れている。
逃げ道が、ない。
足の力が抜ける。
(……なんで)
分からない。
何もかも。
ただ。
ここにいたら、死ぬ。
それだけが、はっきりしている。
天井が軋む。
灰が落ちる。
焦げた匂いが濃くなる。
もう一度、炎の向こうを確かめる。
人影が揺れた。
白い面。
右頬に――キズ。
こちらを見ていた。
灰が舞った。
――そこには、もう誰もいなかった。
