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春秋時代の易占 叔孫豹の生涯 

歴史上の有名な占例をご紹介します。

前回は、魯の君主 成公の母 穆姜(ぼくきょう)東宮幽閉占についてご紹介しました。

前回ご説明した通り、穆姜の東宮幽閉は、その愛人 叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)とのクーデターの失敗が原因でした。

穆姜の愛人であるこの叔孫僑如には、叔孫豹(しゅくそんひょう)という弟がいました。

本日は、この叔孫豹の生涯についての占いをご紹介します。

https://www.jendow.com.tw/wiki/%E5%8F%94%E5%AD%AB%E8%B1%B9
百科知識 
 叔孫豹

■叔孫豹(しゅくそんひょう)の生涯 
 (本田濟「易」311頁。岩波文庫「春秋左氏伝(下)」79頁、昭公5年。72-75頁、昭公4年)

叔孫豹が生まれたとき、父親の叔孫得臣がこの子の生涯を易で占いました。

出た卦は「地火明夷の地山謙に之く」でした。

つまり、地火明夷の初爻。

易経には「明夷[めいい]于[ゆ]き飛んで、其の翼を垂る。君子于[ゆ]き行く、三日食らわず。往く攸有れば、主人言有り。」とあります。

父親は、この判断を占い師の楚丘(卜楚丘)にしてもらいました。

楚丘が答えました。

「この方は、いったん国を離れましょうが、やがてもどってきて、あなたの霊を祭ることとなるでしょう。
讒言が巧みな人を連れてきます。その人の名は牛。
最後は飢えて死ぬでしょう。」

皆さんは、もしも占いで、生まれたばかりの自分の子供の将来を、このように言われたら、どう思いますか?
楚丘のこのコトバを聞いて、父親がどのような反応をしたのか、歴史書には記載されていません。

さて、話を戻します。
叔孫家は魯の国の名門貴族です。
古代の名門家においては、兄弟はライバルであり、仲はよくありません。
叔孫豹(しゅくそんひょう)と叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)の仲も悪かったようです。
そして兄弟間の競争はやり手の兄である叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)に軍配が上り、叔孫豹(しゅくそんひょう)は、兄から逃れるように魯の国から斉の国へ逃げることとなりました。

wikipediaの画像を一部加工

叔孫豹が魯から斉へ出奔しているときのこと。
魯の国境で、ある女性と意気投合し、その婦人の家に一夜の宿を借り、行きずりの情を交わしました。

翌朝、
叔孫豹はいいます。
「残念だが、私は斉の国に行かなければならない」。
叔孫豹が事情を話すと、彼女は慟哭しながらも、送り出してくれました。

その後、斉の国に入った叔孫豹は、名門の娘を娶り、二人の子、孟丙(もうへい)と仲壬(ちゅうじん)をなしました。

ある夜、叔孫豹は夢を見ます。
天が自分を押しつぶそうとする夢です。
どうしても跳ね返せない。
ふりむくと色が黒く、目が窪んで口のとがった、牛に似た男がいます。
思わず「牛よ!たすけてくれ」と叫び、その男の助けで天を跳ね返すことができました。
翌朝、叔孫豹は、夢で見た姿かたちの者を家来を使って探させますが見つけることはできませんでした。

時は経て。
前回お伝えした通り弟の叔孫僑如は、魯の君主 成公の母 穆姜と共に、クーデターを謀りますが、失敗して斉に逃れてきます。
すると、それと入れ替わるように、叔孫豹が魯の国に呼ばれます。
叔孫家は魯の名門ですので、叔孫家を継ぐ人が必要だったのです。
叔孫豹は、魯に戻り叔孫家を継ぎました。

楚丘の占断
「この方は、いったん国を離れましょうが、やがてもどってきて、あなたの霊を祭ることとなるでしょう。」が現実のこととなります。

ある女が雉を献上し叔孫豹に面会を求めてきました。
話をすると、以前、斉へ出奔の際に一夜の宿を借りた女です。
その夜孕んで生まれた子供も一緒でした。
見るとかつて夢の中で天と格闘した時の救い主にそっくりです。

思わず「牛!」と
名を聞くより先に、叫びました。

子供はびっくりして「はい」と答えました。
彼の名は、牛でした。
「あぁ、おまえだったか!」
この子は、叔孫豹の側に仕えて彼のお気に入りとなりました。

斉で娶った正妻は、叔孫豹の帰国後すぐに他の男と結婚します。
怒った叔孫豹は、正妻の二人の子、孟丙と仲壬への愛情も薄くなり、魯国へのなかなか呼びよせませんでした。
叔孫豹は、牛をますます寵愛するようになり、牛を通さなければ叔孫豹に取り次ぐことができないまでになりました。

とはいえ叔孫家の名門を継ぐのは、家柄からいって、牛ではなく、孟丙と仲壬のどちらかです。
二人は成人後、叔孫豹のもとへ迎えられます。

BC538年、叔孫豹は狩りの最中に体調を崩し病気となります。
牛は彼のそばをひと時も離れず世話をしました。
それとともに、隠していた本性を少しずつ出し始めます。
牛は、叔孫豹に、孟丙と仲壬の讒言をします。
孟丙は殺され、仲壬は国外へ追放されました。

叔孫豹も牛を疑い始めますが、手遅れでした。
牛の助けがないと叔孫豹は日常をおくれません。
牛は、遠慮なく本性を出し始めます。

牛は、叔孫豹の食事を戸口で受け取り、中身を捨て、空の器を下げ渡すようになりました。
叔孫豹は食事ができません。
でも、どうしようもありません。
徐々に衰弱していきました。
助けを求めようにも、牛を通してしか外の人と会話ができないのです。

チャンスが訪れます。
ある日、家政を司る杜洩(とせつ)という家来との面会がありました。
叔孫豹は衰弱しきっており満足に会話ができません。
しかし、その日のために準備した紙を渡しました。
「牛を殺せ」
叔孫豹の弱弱しい筆跡でそのように書いてありました。

しかし、杜洩は、取り合いません。
杜洩の目からは、牛はひたすら献身的に主君に仕える忠臣です。
家内での牛の信頼は絶大なものとなっていました。

叔孫豹は必死に自らの窮状を訴えます。
しかい、その形相は、杜洩からは、身体が不自由となった孤独な老人のわがままのように見えます。

(牛殿もご苦労な事だ)
杜洩は、深くため息をつきながら、叔孫豹をなだめます。
「食べ物が欲しいならば、届けます。牛を殺すことはないでしょう」

退出のときに杜洩は牛に出会います。
彼は牛の平常の苦労をいたわり叔孫豹の言動を伝えます。
牛は答えます。
「あの人は病気が重くなり、正常な判断ができなくなってしまったのです。人の顔を見たくないと仰せられるのです」
杜洩
「そうですか。いつもご苦労をおかけします。私も今後は面会を遠慮するようにします」

叔孫豹はますます孤立していきました。
ただならぬ叔孫豹の姿を見て、牛の良心が咎めたのか。
食事を叔孫豹の部屋に置きます。
十二月癸丑の日の出来事でした。
しかし、もはや叔孫豹の気力はありません。
何も食べませんでした。

その3日後、叔孫豹は餓死しました。

楚丘の占断
「讒言が巧みな人を連れてきます。その人の名は牛。最後は飢えて死ぬでしょう。
が現実の事となりました(※1)。

地火明夷 初爻
明夷[めいい]于[ゆ]き飛んで、其の翼を垂る。君子于[ゆ]き行く、三日食らわず。往く攸有れば、主人言有り。

後日談。

牛は、叔孫家を乗っ取ろうと、おとなしそうな叔孫昭子を君主に立てます。
ところが、この叔孫昭子は、家来を集め、牛の悪行を並べ立て、牛を殺せを命令を発します。
恐れをなした牛は、斉に逃亡しようとします。

国境付近では、以前、牛の讒言を被った孟丙と仲壬の子供たちが待ち構えていました。
BC537年(※2)、牛は、孟丙と仲壬の子供たちに殺されました。

この話を題材に、小説家の中島敦(「山月記」「李陵」など国語の教科書に載っていて有名です)が、「牛人」という短編小説を書いています。

 ↓ 「牛人」 青空文庫

朗読動画もあります。


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(冒頭画像引用元)Yeu Ninje, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1956670による

※1)地火明夷の初爻から、「牛」の名を導いたのか理由については、春秋左氏伝では、「純離為牛」とあり、離為火から牛を導いています。
離・火は、通常は、麗(きれい)から雉などのきれいな鳥、カニなどを連想されますが、牛というのは一般的ではありません。
この解釈について、学者の間で議論がなされ見解の一致がありません。
学説の中には「離為火」の卦辞「牝牛を畜う」から導いているものもあります。

※2)そのとき孔子16才。その前年の15才の時に「学を志」しています。

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