短編小説「二つの国のはざまで」
ミンはハノイの大学で看護学を学んだ。卒業すれば病院で働ける。だが月収はせいぜい七百ドル。親が借金を抱えたままでは、弟たちの学費も払えない。
「日本へ行けば、三年で十年分稼げる」
送り出し機関の言葉は甘く、耳に残った。両親はためらったが、ミンは迷わなかった。借金をしてでも渡航した。
日本の工場は冷たかった。機械の音に囲まれ、夜遅くまで残業をした。毎月の給料は、ベトナムの医師より多かった。だが半分以上は送金に消え、残りで借金を返す。手元にはほとんど残らない。
そんなある日、同じ寮に住むベトナム人男性と出会った。共に疲れた体を支え合うように、恋に落ちた。やがて、ミンは妊娠を知る。
嬉しさよりも、恐怖が勝った。
「やめたら借金が返せない。けれど、この体で続けたら…」
監理団体に相談すれば、帰国を迫られるかもしれない。工場長に打ち明ければ、冷たい目で見られるだろう。彼女の頭には、ベトナムで看護師として働いていた友人の姿が浮かんだ。尊敬される職業に就いても、給料は自分の半分。なのに今の自分は、誰にも守られず、異国で孤独に立っている。
夜、寮の小さな窓から月を見上げた。ベトナムの空にも、同じ月が浮かんでいるはずだった。
「私はどちらの国でも、自由じゃないのかもしれない」
ミンは腹に手を当てた。借金、契約、法律――すべてが鎖のように彼女を縛る。けれどその内側で、小さな命が静かに動いている。
「あなたのために、私は強くならなくちゃ」
そう呟いたとき、彼女は初めて、工場の騒音ではなく、自分の未来の鼓動を聞いた気がした。
選択
ミンは数日間、眠れぬ夜を過ごした。
借金を返すために働き続けるか、命を守るために実習をやめるか。
ある晩、同じ工場で働く仲間が小声で教えてくれた。
「支援団体に相談してみな。帰国しなくても道はあるかもしれない」
恐る恐る電話をかけた先で、流暢なベトナム語が返ってきた。彼女の胸から重荷が少しだけ降りた。妊娠を理由に解雇されるのは違法であること、日本で出産も可能であること、そして支援団体が生活を助けてくれること――初めて知った。
次の日、ミンは工場長に告げた。
「私は妊娠しました。ですが、働き続けたいです」
工場長の顔は固くなったが、監理団体と支援団体の立ち会いで話し合いが進んだ。重い作業を免除され、事務的な仕事を与えられることになった。給料は減ったが、命を削って働く必要はなくなった。
数か月後、ミンは小さな病院で娘を産んだ。
泣き声を聞いた瞬間、すべての鎖が一瞬だけ消えたように思えた。
借金は残っている。将来の不安も尽きない。
それでも、ミンは選んだ。
「私はこの子と共に生きる。働くために生きるんじゃない。この子と未来をつくるために生きるんだ」
窓の外には、日本の夜空。
遠くベトナムにいる両親も、同じ月を見上げているだろう。
