電卓を叩きながら泣いていた理由——売却、豊田市
夜中の二時に、電卓を叩いていた。
リビングのテーブルに紙を広げて、売却価格、取得費、仲介手数料、控除額。何度も同じ数字を入れて、何度も同じ答えが出る。わかっている。計算は合っている。でも手が止まらなかった。
母の家を売ることになったのは、今年の春だ。母が亡くなって二年。姉と二人で相続して、維持するか売るかを話し合って、最終的に売ることに決めた。
決めた、と言えば聞こえはいいが、本当は決められなかった。ずるずると時間が過ぎて、固定資産税の通知が届いて、草刈りの業者を呼んで、また固定資産税が届いて。そのうちに姉が「もう限界だよ」と言い、私も「そうだね」と答えた。決断というよりは、消去法だった。
不動産会社に査定を依頼して、媒介契約を結んで、半年ほどで買い手が見つかった。ここまでは淡々と進んだ。問題はその先だった。
担当の方から「確定申告のことも考えておいたほうがいいですよ。3,000万円の控除が使えるかもしれません」と言われた。控除。税金が安くなる。それはありがたい話だった。
でも調べれば調べるほど、要件が複雑だった。母が一人暮らしだったかどうか。建物の築年数。売却の期限。耐震基準。私の家ではなく母の家だから、通常の3,000万円控除ではなく「空き家の特例」というものを使うことになるらしい。
ある夜、パソコンの前で国税庁のサイトを読みながら、頭が真っ白になった。何を読んでいるのかわからなくなった。日本語なのに、頭に入ってこない。
それで電卓を取り出した。パソコンの画面では理解できないことも、自分の手で数字を叩けばわかる気がしたのだ。
売却価格、2,100万円。取得費は、母の家の購入時の契約書が見つかったので、その金額と建物の減価償却を計算して約680万円。仲介手数料と諸経費が約80万円。
2,100万円 - 680万円 - 80万円 = 1,340万円。
これが譲渡所得。ここから3,000万円を控除できれば、税額はゼロ。できなければ、約270万円の税金がかかる。
270万円。
その数字を見たとき、指が震えた。だから何度も電卓を叩いた。数字を変えれば結果が変わるわけではない。でも叩くことで、自分が何かをしている気になれた。
三時を回った頃、ふと手が止まった。テーブルの上の紙を見下ろして、自分が何をしているのかがわからなくなった。
税金の計算をしているのではなかった。私は、この家を売ることへの許可を、数字に求めていたのだ。控除が使えれば税金はゼロ。それは「売っても損はしませんよ」という、数字からのお墨付きだ。損をしないなら、売ってもいい。
その瞬間、涙が出た。電卓を握ったまま、テーブルに額をつけて泣いた。
翌朝、目が腫れたまま姉に電話した。「控除のことで悩んでる」と言うと、姉は黙って聞いてくれた。私がひとしきり話し終えたあと、姉はこう言った。
「税金のことは税理士さんに聞こう。私たちが夜中に電卓叩いても答えは出ないよ」
そして少し間を置いて、こう続けた。
「お母さんの家を売ることは、もう二人で決めたことでしょ。それはお金の問題じゃないよ」
そうだった。売ると決めたのは、固定資産税が重いからでも、維持が大変だからでもない。母の家を空き家のまま朽ちさせたくなかった。それが二人で出した答えだった。
姉の言葉を聞いて、電卓を置いた。控除が使えるかどうかは、明日調べればいい。そう思ったら、なぜかあの夜中の数字の羅列が、ばかばかしいような、切ないような気持ちで思い出された。
この記事は、過去にご相談いただいたお客様の実体験をもとに、物語調に編集したものです。同じような気持ちを抱えている方に、「悩んでいるのは自分だけじゃない」と感じていただけたら、それだけで書いた甲斐があります。
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