"追わない"贅沢
“追わない”ことで、
あえて余白をつくる贅沢がある。
時間が30分空いたら、
何か意味のあることをしなきゃ、と焦ったり。
数字が95なら、
100にしなきゃ、と落ち着かなくなったり。
人は少しの余白があると、
それを誰でも無意識に、
埋めずにはいられない。
"今よりもっと"そう願うが故に
気がつけば大して必要のないもので、
溢れてしまう生活をしてしまう。
1より10の方が尊くて、
静かなことより賑やかなスケジュールが
必要な気がしてしまう。
何かが足りないような欠乏感から
抜けられなかったり、
心がどことなくザワザワする時、
そんな時には、あえて
"追わない贅沢"を楽しんでみる。
100ではなく、
99の今にあることをあえて楽しんでみる。
すると、本当に100が必要なこともあれば
99で十分美しいことがわかったり、
逆に99が本当は必要ない、
ただの隙間を埋めていたもので
他の大きなたった1つの1が
必要だったことに気づいたりもする。
沈黙があれば言葉を入れたくなり、
予定がなければ何かを詰め込みたくなる。
人生には、
ぎっしり満ちている時期と、
ふっと余白が生まれる時期がある。
満ちている時間は、
安心と安定をくれる。
でも、余白があると、
人は言う。
「どうして埋めないの?」と。
「次に進まなくていいの?」と。
“追わない”という選択は、
足るを知ることとも、
今ある場所でじっと咲くこととも少し違う。
それは、
余白をあえて埋めないことで、
生まれる"遊び"を楽しむという考え方。
不思議なもので、
本当に必要なものは、
こちらが追いかけなくても、
余白の中に勝手に入り込んでくる
ようにできている。
こちらから埋めようとしなくても、
しなやかに、余白を楽しんでいるだけで、
存在すべきでない余白は気づいたら埋まってくる。
ダイヤが美しく高潔に輝くのも、
そのまわりに空間があるから。
光は、
ぎっしり詰まった場所ではなく、
余白の中でいちばんきれいに反射する。
人生も、きっと同じ。
例えば、
日記を書いて、
日々の言葉を綴ったり、
ダイヤをそっと身につけてみたり、
ゆっくり時間が過ぎることや
ダイヤの美しさをまばたきしながら
みつめていく。
そんな何気ないことの中で、
人はまた、自分の輪郭を思い出していく。
人生の余白は、
実はこの世で限られた"贅沢"である。
