プジョーという名の衝撃【第1話】
僕がプジョーという名前を初めて意識したのは、中学一年生の頃だった。
きっかけは、テレビの特番で見たダカール・ラリーである。
年末から正月をまたぎ、サハラ砂漠を越え、大西洋の海岸線を目指して走る。
当時の僕は、それがどれほど無茶な競技なのか、正確にはわかっていなかった。
ただ、画面の中の大人たちは、明らかに正気ではなかった。
道なき道を、砂埃を巻き上げながら走る。
迷う。壊れる。直す。眠らずに進む。
ハンドル操作を誤れば、簡単に命を落としかねない。
そんな危険な場所へ、なぜわざわざ行くのか。
なぜ、そこまでして苦労を背負い込むのか。
当時の僕には、まるで理解できなかった。
けれど、格好よかった。
美しかった、と言ってもいい。
思春期の閉塞感に苛まれていた少年にとって、砂漠を突き進むオートバイや四輪車やカミオンの姿は、日常の壁をぶち破ってくれる何かに見えたのだと思う。
あの頃、ダカール・ラリーの模様は、地上波のテレビで放送されていた。
しかも、ゴールデンタイムである。
今となっては、なかなか信じがたい。
砂漠で道に迷い、車が壊れ、泥まみれ砂まみれになった大人たちが、それでも前へ進む映像を、家族が夕食後に見る時代だったのだ。
いま同じ企画を地上波の編成会議に持ち込んだら、まず「誰が見るんですか」と冷静に却下されるに違いない。
だが、当時は違った。
そこには冒険があり、メーカーの意地があり、国家の威信のようなものまで、うっすら乗っていた。
日本の経済力が世界を席巻していた時代である。
子どもの僕もまた、日本製品の絶対的優位性を信じて疑わなかった。
日本の車こそが世界一。
日本の技術こそが世界最高。
そんな、いま思えば実に素朴で、少し傲慢な信仰を、僕もきっちり抱えていた。
だから当然、僕は三菱パジェロを応援していた。
俳優の夏木陽介氏が率いる三菱自動車チーム。
四駆ブームの先駆けとなった、日の丸を背負うパジェロ。
子どもの僕にとって、それは「強い日本」の象徴のような存在だった。
ところが、そのパジェロの前に、妙な車が立ちはだかった。
キャメルイエローの小さなハッチバック。
プジョー205。
ぱっと見れば、街中を走っていてもおかしくない小さな車である。
スーパーカー世代の尻尾に辛うじて引っかかっていた僕の知識では、強い車といえばイタリアのフェラーリかランボルギーニ、ドイツのポルシェ、せいぜい英国のロータスあたりだった。
フランス車など、完全に眼中になかった。
それなのに、その小さなプジョーは速かった。
とにかく、速かった。
圧倒的だった。
砂漠を切り裂くように走り、パジェロの前に立ちはだかる。
日本の車が世界一だと信じていた少年の目の前で、フランスの大衆車メーカーが、王者のように砂漠を駆け抜けていた。
僕はテレビの前で、呆然としていた。
プジョーって、何だ。
後で知ったことだが、あの205は外見こそ当時のプジョーの主力車種に似せていたものの、中身はまるで別物だった。
世界ラリー選手権を席巻したグループBのモンスターマシンをベースにした、砂漠用の怪物である。
つまり、ただの小さなハッチバックがパジェロを倒していたわけではない。
だが、そんな理屈は少年には関係なかった。
僕にとって重要だったのは、フランスの大衆車メーカーが、世界の砂漠で日本勢を圧倒しているという事実だった。
それは、僕の中にあった「強い車」のイメージを、静かに、しかし決定的にひっくり返した。
プジョー。
百獣の王たるライオンをエンブレムに掲げる、フランスの自動車メーカー。
当時の中学生が触れられる情報など、たかが知れている。
インターネットもない。
スマートフォンもない。
気になったことを検索窓に入れれば、誰かが懇切丁寧に教えてくれる時代ではない。
雑誌を読む。
テレビを見る。
カタログの断片を探す。
それくらいしかない。
調べてみても、プジョーは「華よりも実を取る、地味なフランスの自動車会社」くらいの印象だった。
だが、その地味な会社が、砂漠で勝っている。
スーパーカーのメーカーでもない。
超高級ブランドでもない。
ドイツの精密機械信仰に支えられたメーカーでもない。
日本の圧倒的な信頼性を誇るメーカーでもない。
フランスの大衆車メーカーが、あの正気ではないレースで、とてつもない記録を残している。
その事実は、僕の心に深く刺さった。
翌年以降も、ダカール・ラリーでのプジョーの王者の走りは続いた。
日本勢の挑戦を歯牙にもかけないように、キャメルイエローのライオンは砂漠を駆けた。
やがてプジョーは、ダカール・ラリーでの役目を兄弟ブランドのシトロエンに譲り、今度はサーキットの耐久レースへ活動の場を移す。
ル・マン二十四時間耐久レースである。
このレースも、当時は夜通しテレビで中継されていた。
いま考えると、僕らの世代は妙な時代を生きていた。
夜中にテレビをつけると、フランスのサーキットで、車が延々と走っていたのだ。
そのル・マンで、マツダがロータリーエンジンにより、日本車勢として初めて総合優勝を果たした。
僕はテレビの前で歓喜した。
あれは日本の車好きにとって、間違いなく特別な瞬間だった。
ところが、その翌年。
プジョーはマツダやトヨタを制して一位、三位を獲得する。
さらに翌年には、一位、二位、三位を独占した。
もう、何なのだ。
砂漠で勝ったと思ったら、今度はサーキットでも勝つ。
しかも、フランスの大衆車メーカーが、である。
日本製こそが世界最高だと思い込んでいた僕の浅はかな信仰は、時折しもバブル崩壊とともに、静かに砕けていった。
もちろん、だからといって僕が反日少年になったわけではない。
そこまで思想的に立派でも危険でもなかった。
ただ、世の中は、自分が思っていたよりずっと広いのだと知った。
日本が一番。
国産車が一番。
高級車が強い。
有名ブランドが偉い。
そういう単純な物差しの外側に、とんでもない実力を持った存在がいる。
そのことを、プジョーは少年の僕に見せつけた。
思えば、この時点で僕は少し歪んだのかもしれない。
王道に素直に感動すればいいものを、僕はその脇道にいる妙な存在に惹かれてしまった。
メジャーなものより、どこか一癖あるもの。
誰もが称賛するものより、わかる人だけがにやりとするもの。
プジョーは、僕の中のそういう性分を掘り起こした最初の存在だったのだと思う。
山形に、バブル崩壊の余波はまだはっきりとは届いていなかった。
十八歳を過ぎれば運転免許を取る。
社会人になれば車を買う。
それは、水や空気のように当然のことだった。
都市部のように、数分おきに電車が来るわけではない。
県庁所在地を離れれば、バスが縦横に走っているわけでもない。
ちょっと気の利いたものを買いたければ、隣の隣の大きな町まで行かなければならない。
そして、山形には雪が降る。
一年の三分の一は、雪のことを考えて生きる。
積もる。凍る。轍になる。
朝は車の雪を下ろし、夜は凍ったフロントガラスを削る。
二輪で一年中暮らすなど、よほどの修行僧でなければ無理である。
だから、地元で就職するなら車を持たないという選択肢はなかった。
車は贅沢品ではない。
生活必需品だった。
そうして、いよいよ社会人としての自立を考える頃になると、僕の中でプジョーは、単なる憧れから、いつか自分で買いたい対象へと姿を変えていった。
ただし、ここからが田舎の悲しさである。
「輸入車を買う」ということは、プジョーが大衆車メーカーであろうが、こちらが中古で買おうが、そんな事情とはまったく別の次元の話になってしまう。
当時の山形では、輸入車はひとくくりに「ガイシャ」だった。
しかも、ドイツ車ではない。
精密機械の秀逸性が神格化されたメルセデスでもBMWでもない。
フランス車である。
「へえ、フランスでも車って作ってるんだ」
そんなことを、悪気なく言う人もいた。
悪気がないぶん、余計に効く。
僕はそのたび、心の中で妙にこじれていった。
わかっていない。
あのプジョーが砂漠で何をしたか。
ル・マンで何をしたか。
あのライオンが、どれほど僕の価値観をひっくり返したか。
もちろん、そんなことを熱弁したところで、相手は困るだけである。
だから僕は黙っていた。
黙って、胸の中でプジョーへの憧れを少しずつ膨らませていた。
しかし、人生はそう簡単に憧れだけでは動かない。
特に田舎の若造の人生は、本人の希望だけでなく、親戚関係や家の事情や、昔からの付き合いという、目に見えない何かでがんじがらめになっている。
僕がプジョーを手に入れるまでには、もう少し、紆余曲折が待っていた。
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プジョー306を購入して30年、クルマを買い替えない生き方を綴ります
