ロバート・B.パーカー『昔日』を読む。私立探偵から自警団への道
ロバート・B.パーカーの小説 スペンサーシリーズは、最初。オーソドックスな探偵小説だった。しかし途中から、殺し屋と徒党を組んで、悪人を殴り倒す(スペンサーは元ボクサーだ)、あるいは銃で殺す物語が増えた。
彼が言った。「きみらは無謀な自警団のようにふるまっていた」 私がうなずいた。 「それがたまたま、わが局にとって多大な時間と手間を省くことにつながり、ひいてはお国のためになったかもしれない」
この『昔日』の物語では、依頼人が犯罪者集団に殺されたスペンサーが、仲間を呼び集めて犯罪者たちを殺していく。依頼料はもらえなくても、けじめをつけるために。そして警察もFBIも、スペンサー一味の不法行為を黙認する。
こう書くと荒唐無稽だが、アメリカの小説では、シリーズの途中から主人公が国家と自分の共通の目的のために働くテロリストに変わっていくことは珍しくないと生成AIは言う。
例えば、『The Executioner(マフィアへの挑戦)』シリーズ。
当初はベトナム帰りの狙撃兵ボランが、家族を破滅に追いやったマフィアに私怨から個人的な戦争を挑む「アウトロー自警団(バイオレンス・アクション)」の物語でした。しかし、シリーズが版元を移して長期化する過程(小説第38巻あたりから)で、彼は自身の死を偽装し、米政府の極秘対テロ組織「ストーニー・マン」を率いる工作員(コードネーム:ジョン・フェニックス大佐)へと転身します
なぜこのような小説が好まれるのだろうか。
アメリカの小説では、「大統領直属の秘密組織」や「FBIの超法規的措置」といった設定が、ヒーローに「公的な大義名分(お墨付き)」を与えるポジティブな要素として機能します。これは、「国家(大統領や星条旗)という理念」を信じるアメリカ的な気風があるからです。
「法律(官僚主義)は役に立たないが、国家(アメリカという理念)は守る価値がある。だから、大統領の直属や極秘機関の黙認を得て、法を超えて戦う」という折衷案が生まれます。
このような基盤があるからトランプ氏が支持されるのだろう。
日本ではそのような小説は生まれない。
アメリカのような「自分の身は銃と暴力で守る」というフロンティア精神(自警主義)の伝統が日本にはありません。そのため、日本で法を超えた制裁を描く場合は、国家に回収されるのではなく、『必殺仕事人』のような「闇の稼業」の方向に純化していきます。日本の読者が好むのは、国家に認められたエージェントではなく、「法から外れた日陰者として、誰にも知られずに悪を葬り、自らも罪の意識や孤独を背負って消えていく」という滅びの美学(判官贔屓や情緒)です。大藪春彦の『蘇える金狼』などのハードボイルドから、現代の裏社会を描くノワール小説に至るまで、主人公たちはどこまでも孤独な反逆者であり続けます。
妖怪人間ベムだ...
『妖怪人間ベム』の持つ「報われぬ愛と、それゆえの崇高な美学」は、日本人の琴線(無常観や判官贔屓)には激しく触れますが、アメリカにおいては「フラストレーションが溜まるプロット」になりかねません。彼らにとって「法を越えて悪を裁く者(スペンサーやマック・ボラン)」は、どこまでもタフで、自立しており、最終的には何らかの勝利や自らの居場所を勝ち取る存在でなければならないのです。
どういう形ならアメリカ人に受け入れられるか。
仮に『妖怪人間ベム』をハリウッドで実写化、あるいはアメコミ化する場合、ほぼ間違いなく以下のような改変(アメリカ化)が行われるでしょう。
単なる情緒的な願いではなく、「人間に戻るための具体的な『解毒剤』や『科学的プロセス』が存在し、それを巡って悪の組織と争う」というクエスト(冒険)に変換される。
「世界中が彼らを拒絶する」のではなく、必ず一人か二人は「彼らの正義を理解し、彼らを支える人間の相棒(例えば、ボストン警察の心優しい刑事など)」が登場し、社会との橋渡し役になります(映画『シェイプ・オブ・ウォーター』のように)。
ラストは、人間にはなれなかったとしても、「自分たちはこの姿のままで、闇の中から世界を守るヒーローとして生きていく」という、前向きなアイデンティティの確立(自己受容)で締めくくられます。
ハリウッド映画だ...
