19. リコネクション®前のディープ・シンクロニシティ
人生を振り返ったとき、よく考えてみればあれはディープ・シンクロニシティだったと気づくことがある。これはディープ・シンクロニシティのしくみを知るうえで重要だと思う。
しかし、そんなシンクロニシティの1つ1つが生じたそのときには、それがディープ・シンクロニシティの一部だと気が付くことはまれである。
私の、リコネクション®より前に起こったディープ・シンクロニシティのことについてお話ししよう。これはもちろん、リコネクション®より前なので333と関係するものではない。気づいていなかっただけかもしれないけれど。
そして人生の終わりに差し掛かった時、すべてはディープ・シンクロニシティの一部だったと気づく時があるのかもしれない。
ディープ・シンクロニシティのはじまり
私は20代の時、会社から米国ミネソタ大に客員研究員として留学させていただいた事がある。
最初赴任した時は、生活を立ち上げるのに苦労した。住むところを決めたり、車をリースしたり、生活用品を整えたり、といったことを一人で調べながらやった。当時はそれほどインターネットの情報網が発達しておらず、日本人の知り合いもほとんどいなかった。
赴任して数か月経ってある程度落ち着いてきた時、中学時代から机を並べてきた親友が、偶然学部は異なるが同じ大学にph.D.を取りにやってきた。というわけでお互い心細いところもあって、私の住んでいたアパートは広めだったこともあり、ルームシェアをすることにした。これもシンクロニシティだよね。
しかし私とその親友は性格が全く異なった。
私は研究に没頭したいので食事は基本、2ブロック先の小さなスーパーで買ってきた食料で自炊していた。もちろん果物や野菜も当時は日本と比較してとても安かったので、十分だった。テイクアウトで済ませる場合も、近所でとても安く手に入った。
が、その親友はアメリカの食事が合わなかったらしく、毎日必死に日本食を求めた。そこは日本人が多くいるような都市部ではなかったので、アジアの食材を買うのにはかなり遠くまでいかなくてはならなかった。そして彼なりの「日本食」を作るのに彼は相当の時間を使っていた。私はそんな時間はもったいない、と思っていた。
その様子を知って、親友のお母さまからレトルト食品や様々な日本食が送られてきた。そしてある日、お母さまの「友人」の「知り合い」が、このアメリカの片田舎に住んでいらっしゃるということがわかり、いろいろと手配してくださって、「そのお宅に行って日本食をごちそうになっていらっしゃい」ということになった。
彼は車の運転が不得意であり、車も持っていないので、私が運転することになっていた。我々の自宅から車で30分程度のこところだった。
約束の日に二人そろってそのお宅を訪問すると、ご夫妻が暖かく迎えてくださった。他にも日本人の学生数名が先にいらしていた。あの時にいただいた味噌汁は、この私でも胃袋にしみるのが分かった。
他にも学生がいたので、私の自己紹介は到着から1時間ほど経ってからになってしまった。私が自分の所属する会社名と現在何をしているのか、についてお話しした。
するとその家のご主人が笑顔になった。そのご主人は私と同じ系列の会社に勤めていらしたとのことだった。退職されたときは役員クラスだったそうだ。その後アメリカで他の企業を経営されていた。
しばらくの歓談ののち、ご主人がこう切り出された。
「私の祖父は…と申しまして」
私は驚いてその場で立ち上がってしまった。
「…という会社を創業したものです。」
それは我々の勤めていた会社の親会社、日本を代表する大企業の創業者だったのだ。目の前のご主人はそのお孫さんということになる。アメリカの片田舎で、そんなシンクロニシティが起こったのだった。
その創業者の家で育ったその方は、おじいさまが大事にされていたことなどをお話ししてくださった。
当時は帰宅してからも興奮が収まらなかったが、しかし今振り返ってみれば、それはディープ・シンクロニシティのほんの始まりでしかなかった。
そしてあれから30年。その創業者のお孫さんの奥様が、2024年に私が現在の三重の家に引っ越した後、すぐに訪問してくださった。帰られた後、ようやくそれらのシンクロニシティ群がなぜ起こったのか、生まれる前に何を計画してきたのか、などが謎解きのようにわかってきた。
もしかすると未来の自分から人生を逆算できる部分があるかもしれない。
ただ、この先で詳細をお話しするにはプライバシーの問題もあり、一般公開はするべきではないとおもう。なので有料区間とする。まずは、ディープ・シンクロニシティの背景から。価格は333円だけれど3円はおまけね。
ディープ・シンクロニシティの背景
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