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橘玲『HACK』を一晩で読み切った夜

金曜の夜、バンコクの暑さの中で

金曜の夜、ベッドの上で本を開く。時刻は22時。明日は休みだから、少しだけ読んで寝ようと思っていた。

「欠陥(バグ)があるから 侵入(ハック)する、だけ。」

冒頭の一文で、もう引き込まれていた。

主人公・樹生は30歳のハッカー。暗号資産で得た利益で、バンコクで悠々自適に暮らしている。日本の非居住者となり、55%の課税を逃れている。そこに現れる情報屋「沈没男」。特殊詐欺の違法資金を、ビットコインでマネーロンダリングしたいという依頼。

ニュースで聞く言葉が、小説の中で動き出している。現実と地続きの物語。それが、私の指をページに吸い付かせた。

気づいたら、朝の5時だった。

最後のページを閉じる。窓の外が、うっすらと明るくなり始めている。7時間、ぶっ通しで読んでいた。こんなことは、何年ぶりだろう。いや、もしかしたら初めてかもしれない。

本を読むって、こんなに面白かったんだ。

本を読めなくなっていた日々

実は、この1年で最後まで読めた本は、たった3冊だった。

Kindleライブラリには、50冊以上の未読本が溜まっている。「いつか読もう」と思って購入したビジネス書、話題の小説、評判の良いミステリー。どれも、50ページで挫折した。

仕事から帰って本を開いても、2ページ読んだら眠くなる。休日に読もうと思っても、SNSを見ているうちに夕方。「読書習慣を取り戻したい」と何度思ったことか。

推理小説を読んでも、犯人が読めてしまう。恋愛小説も、最後は結ばれることが分かっている。ファンタジーは現実離れしすぎて入り込めない。純文学は疲れた脳には重すぎる。

「自分、本当に本が好きだったのかな」

そんなふうに思い始めていた、金曜の夜。書店で橘玲という名前を見つけた。『言ってはいけない』シリーズは読んだことがある。社会の裏側を鋭く切り取る作家。でも、小説は読んだことがなかった。

「11年ぶりの書き下ろし長編」という言葉が、気になった。11年も温めたストーリー。それだけ時間をかけているなら、相当な自信作のはず。しかもテーマが暗号資産とマネーロンダリング。ニュースで聞く、2024年の「今」の言葉だ。

橘玲『HACK』を手に取ることにした。迷いはなかった。この選択が、私の読書習慣を取り戻してくれるとは、まだ知らずに。

ページをめくる手が止まらない

最初の50ページを読んだ時点で、「これは当たりだ」と思った。

樹生というキャラクターが、妙にリアルだった。善悪ではなく、技術的な興味で動く。「すべてはゲーム」という冷めた視点。これは、2024年を生きる私たちの感覚に近い。古い道徳観で説教されるわけでもない。フラットな視点で世界を見ている。

土曜の昼、リビングのソファで読み続けた。コーヒーを淹れようと立ち上がったが、気になって本を持ったまま台所に行く。片手で本を持ち、もう一方の手でドリップする。こんなことは、何年ぶりだろう。

100ページを過ぎた頃、元アイドル咲桜が登場する。五年前のスキャンダルで消えた彼女が、なぜかバンコクにいる。樹生に連絡を取ってくる。そこから物語は、思わぬ方向に展開していく。

北朝鮮のハッカー集団ラザルス。検察と公安の諜報機関。伝説のハッカーHAL。登場人物が増えるたび、物語は加速していく。予測不能になっていく。

最初は10億円のマネロンの話だった。それが500億、そして2500億円へと膨れ上がる。金額が増えるたび、陰謀が深くなる。「次はどうなるんだ?」という興奮が、読書を止められない中毒性を生んでいた。

日曜の夕方、気づいたら200ページを過ぎていた。まだ半分も残っている。でも、読む手を止められない。夕飯を作りながらも、本のことを考えている。登場人物たちは、今どこで何をしているのか。樹生は、この危機をどう切り抜けるのか。

朝5時、最後のページを閉じた瞬間

午前2時を過ぎても、読み続けていた。もう眠くない。むしろ、目が冴えている。ページをめくる手が、止まらない。

午前3時、物語は佳境に入る。すべての謎が明らかになり始める。伏線が回収されていく。「あのシーンは、ここに繋がっていたのか」と気づく瞬間の快感。

午前5時、最後のページを閉じた。

「読み終えてしまった...」

満足感と同時に、少し寂しさもあった。もっと樹生の物語を読んでいたかった。もっとこの世界に浸っていたかった。

でも、読後の余韻が心地よかった。本を読む喜び。それを、久しぶりに思い出させてくれた。

3日間の余韻が教えてくれたこと

読み終わった後も、3日間は余韻に浸っていた。

月曜の朝、通勤電車の中で物語の展開を反芻する。火曜の昼、仕事中にふと樹生の台詞を思い出してニヤリとする。水曜の夜、もう一度読み返したくなって、気になるシーンを開く。

そして何より、「次は何を読もう」というワクワク感が戻ってきた。Kindleライブラリを開いて、積読本を眺める。「これも面白いかもしれない」という期待を持って、次の1冊を選べるようになった。

レビューを読んでみると、私と同じ体験をした人が多いことが分かった。「一気に読みました」「007に引けを取らない」「圧倒的な没入感」。そういう言葉が並んでいる。

橘玲氏の小説は、『マネーロンダリング』『永遠の旅行者』『タックスヘイヴン』に続く4作目らしい。過去作の登場人物も出てくるという。検事の榊原、ヤクザの黒木。名前だけ聞いても分からないが、過去作を読んだ人には「あの人だ!」という驚きがあるのだろう。

私も、過去作を読んでみたくなった。『HACK』で描かれた世界を、もっと深く知りたい。樹生の前に、どんな主人公たちがいたのか。彼らは、どんな陰謀に巻き込まれたのか。

読書の楽しみが、こんなふうに広がっていく。一冊の本が、次の一冊へと繋がっていく。それが、本を読むことの醍醐味なのだと、改めて実感した。

完璧ではない、という正直さ

7時間読み続けた本だが、気になる点もあった。

まず、終盤の展開が少し駆け足に感じた。後半は怒涛の展開で、ページをめくる手が止まらなかった。でも、最後の50ページくらいは、もう少しじっくり描いてほしかった気もする。あれだけ複雑な陰謀なのに、解決がやや性急に感じられた。

「もっとハッピーエンドでも良かったのでは」という意見もレビューで見かけた。確かに、結末は少し切ない。すべてが丸く収まるわけではない。でもそれは、現実世界の不完全さを反映しているのかもしれない。綺麗事では済まない世界。それを描くのが、橘玲氏のスタイルなのだと思う。

次に、専門用語が多少出てくる。ハッキング、暗号資産、マネーロンダリング、OTC取引。全く知識がない人には、最初は戸惑うかもしれない。私も、いくつかの用語は読み飛ばした。

でも、物語の流れで理解できるように書かれている。読み進めるうちに、自然と分かってくる。むしろ、新しい知識を得られる楽しさがあった。エンタメとしての興奮と、知的好奇心の満足。その両方を味わえた。

それから、ハッカーの技術描写が少し物足りないという意見もあった。「ハッカーは忍者ではない」というレビュー。確かに、もう少し技術的な説明があっても良かったかもしれない。でも、それをやりすぎると、小説が技術書になってしまう。エンタメとのバランスを考えれば、これくらいが適切なのだと思った。

最後に、過去作を読んでいない人には分からない部分もある。登場人物の一部は、過去作からの再登場らしい。私は過去作を読んでいないので、その驚きは味わえなかった。でも、『HACK』だけでも十分に楽しめた。過去作を知らなくても、物語は理解できる。むしろ、「過去作も読んでみたい」という動機になった。

これらの欠点は、私にとっては許容範囲だった。なぜなら、『HACK』が果たしている役割──読書の喜びを取り戻させてくれる──は、完璧に機能していたからだ。

他の選択肢を改めて見つめる

『HACK』を読み終えた後、改めて他の小説のことを考えてみた。

最近話題の北欧ミステリー。「全米が震撼」「衝撃のラスト」という帯に惹かれて、何冊か買ったことがある。でも、途中で投げ出した。翻訳が硬くて読みにくい。登場人物の名前が覚えられない。そして何より、舞台が遠すぎて共感できなかった。

国内作家の社会派小説も試した。企業不祥事を描いた作品。読みやすさは格段に向上した。日本語のリズムが自然で、舞台も東京。でも、ストーリーが地味すぎて途中で飽きてしまった。現実の延長線上にはあるけれど、現実を超える興奮がなかった。

恋愛小説も読んだ。ベストセラーになった作品。感動的だという評判だった。でも、50ページで挫折した。登場人物の心情に入り込めなかった。「どうせ最後は結ばれるんでしょ」という予定調和が、ページをめくる意欲を奪った。

ファンタジーや異世界ものも試した。映像化された人気作。設定は面白そうだった。でも、現実世界と遠すぎて、没入できなかった。魔法や異世界。それらは、今の私が求めているものではなかった。

結局、私が求めていたのは『HACK』のような小説だった。現実世界と地続きのリアリティ。予測不能な展開。エンタメと知性の両立。そして、一晩で読み切れる中毒性。

それを見つけるまでに、1年かかった。でも、見つけられて本当に良かった。もっと早く出会いたかったが、今出会えたことに感謝している。

どんな人に合うか、合わないか

7時間の読書体験から、この本が合う人、合わないと思う人が見えてきた。

まず合うと思うのは、私のように小説を最後まで読めなくなった人だ。読書習慣を失いかけている人。積読本が溜まっている人。「本を読むって、こんなに楽しかったんだ」という感覚を、『HACK』は思い出させてくれる。

それから、現代社会の裏側に興味がある人。暗号資産、ハッキング、マネーロンダリング。ニュースで聞く言葉の実態を知りたい人。物語を通して学べる快感。それを味わいたい人には、この本が合う。

予測不能なミステリーが好きな人にも向いている。「次はどうなるんだ?」という興奮。ページをめくる手が止まらない中毒性。それを求めている人には、『HACK』は最適だ。

エンタメと知性の両方を求める人にも良いだろう。娯楽として楽しみながら、現代社会の仕組みを理解できる。読後には「面白かった」だけでなく、「なるほど、世界はこうなっているのか」という満足感が残る。

一方で、合わないと思うのは、ファンタジーや異世界ものが好きな人だ。『HACK』は、あくまで現実世界を舞台にしている。魔法も異世界もない。リアリティを求める人のための小説だ。

恋愛小説を求めている人にも向かないだろう。恋愛要素はあるが、それがメインではない。ロマンスを期待すると、肩透かしを食らうかもしれない。

のんびりした日常系が好きな人にも合わない。『HACK』は、スリリングな展開が続く。ハラハラドキドキの連続。穏やかな読書体験を求める人には、少し刺激が強すぎる。

そして、専門用語が一切出てこない小説を求める人。『HACK』には、ハッキングや暗号資産の用語が出てくる。それらを楽しめる人でないと、読み進めるのが難しいかもしれない。

本と共に歩む日々

あれから2週間が経った。今日も、本を読んでいる。

『HACK』を読み終えた後、橘玲氏の過去作を手に入れた。『マネーロンダリング』と『タックスヘイヴン』。どちらも、Kindleライブラリに追加した。週末に、ゆっくり読もうと思っている。

Kindleライブラリに溜まっていた積読本にも、再び目を向けるようになった。「これも面白いかもしれない」という期待を持って、次の一冊を選ぶ。以前は「どうせ途中で挫折する」と思っていたが、今は違う。『HACK』が、読書の喜びを取り戻させてくれたからだ。

金曜の夜、ベッドの上で本を開く。それが、新しい習慣になった。週末の朝、コーヒーを飲みながら本を読む。それも、楽しみになった。

本を読むことが、また日常の一部になった。それは、『HACK』という一冊の本が、私にくれたものだ。

11年ぶりの書き下ろし長編。橘玲氏が11年かけて温めたストーリー。その時間は、決して無駄ではなかった。少なくとも私にとっては、この本が読書習慣を取り戻すきっかけになった。

来年、橘玲氏の新作が出るかどうかは分からない。でも、もし出たら、必ず読むだろう。そして、きっとまた一晩で読み切ってしまうだろう。

本と共に歩む日々。それが、私の新しい日常になった。


商品情報
HACK(ハック) 単行本 橘玲 / 432ページ 暗号資産・マネーロンダリングを描く国際金融ミステリー / ¥2,200 税込


この記事は個人的な読書体験に基づくものです。感じ方には個人差があります。



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