短編小説 「スクリーンの向こう側の先輩へ」
「え〜。それで先輩、あの映画、最後まで見てないんですか」
そう笑みを零しながら、私は先輩のチャームポイントである、英字プリントTシャツの肩に手を置いた。
運動をしていないと言う割に、先輩の身体はガッチリとしていて、それだけで筋肉の厚みが伝わってくる。
「や。だって、そのまま体育館直行で避難だよ」
そう白い歯を覗かせて、先輩は震災時にあのタイムスリップ映画を見ていたということを自慢気に語っていた。
小さな八重歯と頬に出来上がったえくぼ。
眼鏡の縁は仄かに赤らいで、優しい瞳を覗かせる。
その無邪気な笑顔がまるで光を纏っているようで、私はその笑顔を見ることが何となく好きだった。
「そうですけど。社会現象になってたんだし、その後にもDVDとかで見る機会あったんじゃないですか?」
授業後の大学のホールは、それぞれの話し声が建物に反響して、雑音に包まれている。
先輩の真横の窓に映る大きな木は、昼間の日光を全身で受け止めて煌めいていた。
「いや、でもさ~。途中まで見てると、リモコンで送ったりしてる間に萎えそうじゃん」
そう口角を上げて、窓から入ってきた風に靡かれた眉上ほどの前髪が立ち上がる。
暗い部屋で一人、リモコンをいじりながら映画を見て、口元を凹ませている先輩を想像して、私はつい笑いが零れた。
「小山さんって、今日何時限目までだっけ?」
先輩は腰を下ろしていた木製の椅子をゆっくりと引き、ホールに引き摺った音が震える。
「今日は予定があって3限目までなんで、この時間で終わりですよ」
そう返すと、「そっか。じゃあ、俺も次の授業、めんどいしサボろうかな」と返ってくる。
「単位取れなくなっちゃうんじゃないですか?」
嬉しさ半分、寂しさ半分。
心の中で赤帽子を被った小人が「よいしょ、よいしょ」と声を上げて、綱引き状態。
「1年次に沢山取ってたから、何とかなるよ」
そう繰り出された一言に、寂しさの方の綱を握っていた小人は一斉に手を離した。
嬉しさの方に大きな反動が掛かって、前方へ引っ張られていく。
やった。
心の中の小人と共に私は手を上げて喜び、想像で声が枯れた。
机に置いてあった手提げ袋を素早く肩に掛けて、消しゴムのカスを纏める先輩の近くに駆け寄っていく。
先輩はゆっくりと机を擦って、消しカスを手の中央に集めてから、後ろのゴミ箱の中へ放り投げた。
ホールは4時限目の始業時刻が近づくにつれて、話し声が少しずつ小さくなっていく。
だけど、私の心は対照的に浮き足立っていた。
ホールの扉を開けて、私達は開放的な廊下へ足を踏み入れる。
床を叩く影がうっすらと地面に横たわり、隣を歩く先輩との身長差が際立った。
「先輩の最寄り駅って、風間町駅ですか?」
「いや、その先の櫻田駅」
ああ、大きなショッピングセンターの先のところか。
「結構、遠いんですね」
大学の門を抜けて、私達は白いガードレールの中の歩道を歩いていく。
足元のコンクリートと土の隙間には、小さな紫色の花が顔を出していた。
先輩の表情を見上げるように歩く私の視界の隅には、透き通るような青空が映り込む。
淡藤色の大きな雲が空へ広がって、眩しい日光の光を受け止めてくれる。
今度のサークルの事やら、先輩が先週末に行ったラーメン店の事やら、話の矛先はあちこちへ飛び交って、私はゆっくりと反芻しながら、相槌を打つ。
時折見せる笑顔は爽やかで、やはり心が華やがされていく。
日光に肌が焦がされていく痛みが、それを見ると少しでも和らぐ気がする。
人だかりができている飲食チェーン店を過ぎ、ほんの少し暑さを削いでくれるミスト通りを過ぎ、額には少しずつ汗が滲んできた。
「やっぱ、暑いですね」
そう言いながら、私はポケットの中のハンカチで汗を拭い出す。
先輩の顔からも少しずつ汗が垂れていて、ポリポリと頬を掻いていた。
あと、少しで風間町駅か。
親に徒歩10分だと聞かされた時には億劫だと感じていた道が、まるでほんの一歩のように短く感じてくる。
少しでも、駅に着きたくなくて、私は一歩の距離をほんの少しだけ縮めた。
そして、それを悟られないように「暑いですね」なんて呟く。
段々と並歩する人の数は多くなり、黄色の表示案内の看板が見えてきた。
櫻田駅からでは家には辿り着かないのに、私も櫻田駅まで行って、なんて妄想して、その頃の私は無邪気に、近づいてくる駅舎への距離を恋い忍んでいた。
この後、どんなことが起きるかも知らずに。
「じゃ」
風間町駅の改札が見えたところで、先輩はそう言って、手を振る。
細く長い指で、その様すらも映えていた。
「じゃあ」
私も、先輩に習うように恥ずかしさを誤魔化しながら、胸の前で小さく手を振り返した。
本当はもう少し振っていたかったけれど、先輩が小さく頭を下げて振り返る姿を見て、私はズボンの裾に手を下ろした。
そろそろ、私も行かないと、用事に遅れちゃうか。
心の中でそう呟いて、嬉しさの小人を胸の中に帰らせていく。
改札の端に寄ってから、私は鞄の中からスマートフォンを取り出して、suicaのアプリをタップする。
顔をのぞかせた黒いペンギンを優しくタップして、この嬉しさを密かに噛み締めた。
だけど、その時だった。
「ドンっ!」
甲高いブレーキ音がその場に轟き、肩が僅かに震えた。
辺りは騒然とした空気に包まれ、人々の小さな話し声が耳に伝わってくる。
振り返った先にあったのは、灰色の道路に散った先輩の姿だった。
肩にかかっていたクリーム色の手提げ袋が地面に落ち、顔の前に開いていたスマートフォンがズボンの裾に触れた。
もう、言葉すら出なかった。
「先輩」って駆け寄れる冷静さは無かった。
数多のスマホを向けられる先輩に、私は何をすることもできずに、ただ、その場にしゃがみ込むだけだった。
「なんで。何でだよ」
目の前のスクリーンにはヒロインの亡骸を抱えて涙を流す主人公が映し出されている。
先輩が運ばれた病室には、まるでもう永遠に届かないことを表すかのように、心電図モニターのけたたましい音が長らく響き渡っていた。
そんなことをしたところで、もう会える訳がないのに、私は先輩が最後まで見ていないという映画を今、見つめている。
一度目に見た5年前、私はこのシーンでハンカチを握りながら、また死んでいったヒロインの姿に歯を食いしばっていた。
だけど。
大ヒット、再放映の席に座る私の身は、ただただ震えていた。
自分が今、何を感じているのかも分からないまま、その揺れを抑えることができなかった。
ドリンクホルダーに入れてあったコーラを握って、誰かに操られているように、私はその揺れに成されるままだった。
スクリーンの中、ヒロインが乗った車が炎に包まれて、燃え上がっていく。
僅かに髪を焦がした主人公は、目の前のその惨状を見つめながら、おいおいと声を出して、泣き叫ぶ。
「なんで、わたしが、もう一度、見ることになってるんですか。先輩」
泣き叫ぶ主人公につられて、嗚咽が漏れた。
最初は、誰か他人の口から出た言葉だと思っていた。
だけど、自分の口を触って、気が付いた。
堰き止めていた感情に小石が投じられたかのように、勢いよく溢れ出す。
あの時、私が4限目の授業を受けるように強く言っていれば。
あの時、歩幅を縮めていなければ。
あの時、もう少し短く手を下ろしていたら。
あの時、あの時。
途方もない後悔が溢れ出して、手の中のコーラを私はぎゅっと握りしめた。
ほんの少し水面が上がって、プラスチックの蓋越しに、道路に飛び散った赤黒い血の色が見える。
潤んでいた瞳から、滴がゆっくりと滴り落ち、ジーンズの上に落下した。
真ん丸の穴が出来上がるにつれて、寂しさと悔しさと後悔が身に染みていく。
肩のラインまで伸びていた黒髪がその涙を吸い取って、水分を含んでゆく。
首元に貼りついたその不快感は、ほんのり塩辛かった。
視界が涙に塞がれたせいで、私にはもう一度過去へ戻ってヒロインを救う主人公の姿を見ることはできなかった。
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