第1話|嫌いな上司と働ける残り時間。
前回のあらすじ。
十歳を超えた飼い猫・あんずの頭上に、突然
「残り時間」が見えるようになったハムカツ。
それは命の終わりまでの時間だと思っていた。
けれど翌朝、職場へ向かったハムカツは、あんず以外の誰かにも同じ数字が浮かんでいることに気づく。
そして最初に数字が見えた相手は……
ハムカツが苦手としている上司だった。
~🌙🌸🐹🍁🐦🌞💈🔥~
あんずの頭上に浮かぶ数字は、眠って目を覚ましても消えていなかった。
頭上に浮かぶ数字は、昨夜と変わらず静かに減り続けていた。
眠れば消えると思っていた。
疲れが見せた幻だと思いたかった。
けれど、数字は消えなかった。
「行ってくるな」
玄関まで見送りにも来ないあんずへ声をかけ、
僕は仕事へ向かった。
病院に着いた瞬間、違和感に気づいた。
受付の職員。
廊下を歩く患者。
慌ただしく動く看護師。
すべての人に数字が見えるわけではない。
数字が浮かんでいるのは、ごく一部だけだった。
その意味を考える暇もなく、朝の申し送りが始まった。
「ハムカツさん」
聞き慣れた声に、背筋が少し固くなる。
上司だった。
僕が苦手としている人。
忙しい現場を置いて、
定時になれば当然のように帰る。
急な欠勤が出れば、残された人間へ仕事を振る。
こちらが疲れていても、「仕方ない」の一言で終わらせる。
嫌いだった。
できることなら、必要以上に関わりたくなかった。
「今日、残ってもらえますか?」
またか。
理由を聞く前から、胸の奥に苛立ちが広がった。
断りたい。
家に帰れば、家事もある。
子どものこともある。
自分の時間だって欲しい。
なぜ、いつも残る側だけが我慢するのか。
そう思いながら上司の顔を見た時、
頭上に数字が浮かんでいることに気づいた。
――九か月と十三日。
心臓が大きく鳴った。
昨夜見た、あんずの数字。
同じ形。
同じように減っていく秒数。
僕は言葉を失った。
九か月。
この人は、九か月後に死ぬのか。
突然、目の前の上司が別人に見えた。
いつも通りの無表情。
いつも通りの事務的な声。
けれど、その日常があと九か月しかないのだと思うと、さっきまでの怒りをどこへ置けばいいのか分からなくなった。
「……分かりました」
気づけば、そう答えていた。
上司は少し驚いた顔をした。
その日から、僕の態度は変わった。
頼まれた仕事を断らなくなった。
上司が困っていれば、先回りして動いた。
以前なら聞き流していた言葉にも、意味を探すようになった。
もしかすると、この人にも事情があるのかもしれない。
家族に何か伝えられないことがあるのかもしれない。
病気を隠しているのかもしれない。
そう考えると、嫌いなままでいることが酷いことのように思えた。
けれど、優しくすればするほど、仕事は増えた。
残業が続いた。
家に帰れば疲れ果て、子どもの話を聞きながら眠ってしまった。
あんずが隣に来ても、撫でる余裕がない夜もあった。
ある日、僕は勤務表を見て言った。
「この日は難しいです」
上司は眉をひそめた。
「みんな大変なんです。ハムカツさんだけではありません」
胸の奥で、何かが切れた。
九か月しかない人に怒ってはいけない。
そう思った。
けれど、言葉は止まらなかった。
「九か月しかなくても、嫌なものは嫌なんですよ」
上司が固まった。
僕も固まった。
「……九か月?」
「あ、いや……」
その時。
上司の頭上の数字が、一瞬だけ揺れた。
そして、文字が浮かんだ。
《この職場で、共に働ける時間》
僕は息をのんだ。
寿命ではなかった。
この人が死ぬまでの時間ではない。
僕とこの上司が、同じ場所で働く時間。
残り九か月。
終わるのは命ではなく、関係だった。
どちらが職場を去るのかは分からない。
けれど、その事実を知った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
永遠に続くと思っていた。
この理不尽も。
この怒りも。
この人を嫌い続ける時間も。
けれど、違った。
終わりは来る。
だからといって、我慢し続ける必要はない。
好きになる必要もない。
残された時間すべてを、美しい思い出に変える必要もない。
ただ、嫌いなままでも、伝えるべきことは伝えられる。
「無理な日は、無理です」
僕はもう一度言った。
今度は、九か月という数字ではなく、目の前の人を見ながら。
「働ける日は働きます。でも、全部は背負えません」
長い沈黙のあと、上司は小さく息を吐いた。
「……分かりました。勤務は調整します」
たったそれだけだった。
分かり合えたわけではない。
好きになれたわけでもない。
翌日には、また腹が立つかもしれない。
それでも帰宅した僕は、いつもより少し早く布団へ入った。
あんずが隣に来る。
頭上の数字は、今夜も減っていた。
僕はその数字を見たあと、そっとあんずの背中を撫でた。
残り時間があるから、大切にしなければならない。
そう思っていた。
でも、違うのかもしれない。
限りがあるからこそ、無理に愛さなくていい関係もある。
終わりが来るまで、自分を失わずにいられたなら。
それもきっと、時間を大切にするということなのだ。

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