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薬局二代目社長の話が突然消えたが、特養を日本一にした男のはなし


主人公:高坂涼介
薬局名:株式会社ウォーターメロン
創業1976年、創業者は高坂の父、一代で24店舗まで拡大
※2代目になる予定だったチェーン薬局、すでに倒産

主人公の経歴
1996年 ポコスカ高校卒業
2000年 北海道ウキウキ薬科大学卒業
2000年 株式会社ウォーターメロン入社
2020年 社会福祉法人超源会 入社
2024年 社会福祉法人超源会 日本一達成

エピソード1

「涼介、会社売ったから」

跡取りとして入社して三年が経った2003年6月のある日。

出社する朝、メルカリで売るような軽さで父から告げられた。
そこで、僕の薬局2代目、左うちわでウハウハの人生は幕を閉じた。
25歳、初夏の時である。

創業者 高坂 蝶八郎

まずは株式会社ウォーターメロンの創業者である父の話から語ろう。
地元の有名薬学部を卒業後、愛知県西尾市のメロン薬局に入社。同期とは一線を画すほど働き者で、薬局で不要になったダンボールを回収し古紙回収業者に売り、給料は一切使わずに貯金していた。
なぜそんなことをしていたのか。
父には自分の薬局を持つという大きな夢があったのである。

メロン薬局で働くこと5年。
開業資金が貯まり、当時一緒に働いていた女性従業員を口説き落とし、二人で父の地元である岐阜県関市で薬局を開業することになったのである。

お店の名前は、ドラッグストアウォーターメロン。1976年のことである。

当時は地元のローカルな薬局しかない時代。
そこに父は黒船のごとくドラッグストアを開業したのである。
これからの時代が見えていた男である。
いち早く、海外のドラッグストア業界を視察し、この業界が世の中に求められている薬局の形態であると察していたのである。
今の父を見ると、本当にそんな先見の明があったようには思えないのではあるが、、、。
(またそれは別の機会に話そうと思う。)

父がオープンしたドラッグストアは大当たり!!
当時は、朝の9時から夜の11時まで、年中無休で両親は働いていた。
今ではドラッグストアのチラシに商品の値段を入れること(安く)は当たり前だが、当時はローカルな地元のくそじじいたちの薬局から、むちゃくちゃ文句を言われ、定価でチラシに載せないと薬剤師会には入れないなど、相当な嫌がらせを受けていたのである。
そんな圧力にも父は屈することなく、『お客様』のために安く売ること、必要な物を届けること、街のよろず薬局としての使命を果たし社会貢献をしてきたのである。

開業してからは目が回るほど忙しかったという。
そのわりに、開業して一年、長男の僕、涼介が生まれた。
私が生まれるその日まで母は店でレジ打ちをしていたという。
よくも僕は五体満足で生まれたものだ。
今では考えられない昭和のど根性時代である。
そして翌年、長女の里子が生まれ、四年後に次男の真彦が生まれた。
きっと父と母は店を手伝う戦力が一日でも早く欲しかったのであろう。それとも、単に親父がスケベだったかはこの年になっても聞く勇気はないのだが。

開業して忙しかったので、長男で生まれた僕は両親に育てられることはほとんどなかった。
養老の母方のおばあちゃん、母方の妹夫妻、そしてお店のお客様に育てられたと言っても過言ではない。
本当にドラッグストアウォーターメロンは順調に売り上げを伸ばし店舗数もどんどん増やしていった。
チェーン展開をし当時、同時期に創業したピノキオ薬局よりも岐阜県では知名度も高く、社会的認知も高かったのである。
ピノキオ薬局は業界トップ5に成長した一方で、父のウォーターメロン薬局は30年後には事業を終える運命になった。

人は誉められるとすぐに調子に乗るものだ。
このことを父は昔も今も理解していないようだ。
常に謙虚で居る事がどれだけ大変で大切であることか。。。

店舗を拡大するのと人を育てるのと、どちらが先かは永遠のテーマではあるが、父は人を育てるのがどうやら苦手であったようだ。
尊敬と賞賛を受けることで気分を良くした父は、次第に自店の経営よりも業界全体の仕事に没頭していった。
月の半分以上は家を空け、店の経営は母に任せきり、自分は出張ばかり。
出張先ではきっとおだてられて気分が良かったのだと推測できる。
(僕だったらそうだと思うから、同じ遺伝子の父ならきっと同じ感情だったのではないかと思う。)

ドラッグストア戦国時代

当時は今ほど熾烈なドラッグストア戦国時代ではなかった。
出店するエリアも、近くに薬局を出店できないルールもあった。
30年近くチェーン展開して営業していたが、法の改正により業界が戦国時代に突入すると、もろくもドラッグストアウォーターメロンはあっという間に勢力図が縮小していったのである。

一番の問題は、営業するのに必要な薬剤師が確保できなかったことである。
そのため、営業時間を短縮したり定休日を設けたりと、もともと父が目指していた薬局像とどんどん現実がかけ離れていったのである。

経営者は孤独なんだ

そうなると経営者は藁にもすがる思いになる。
変な宗教にはまり、お店にも立たず、教祖のもとへ入り浸り。
自宅の仏壇でずっとお経を唱える毎日。
それだけ創業者っていうのは弱みを部下に見せられないものなのだと、考えさせられたのは忘れられない記憶である。

そんな中薬局業界にM&Aの潮流が来た。
そこで冒頭の「涼介、会社売ったから」につながる。
ウォーターメロンの中で、会社を売る話を知っていたのは母だけだった。
部長も役員も誰一人知らされず、経営者である父が決めたのである。
相当な決断だったと思う。
『このままでは会社は倒産する。』
『大切な従業員たちを露頭に迷わすわけにはいかない!』
『それならば会社を売ろう!』
と決めたそうだ。

なんという英断でしょうか!

「さすが!」って言うと思います??

「にゃんだって!?」と思わず、噛みかみで声をあげてしまった。

僕が継ぐはずだった二代目の座はどうなるんだよ?

走馬燈のように、、、

あんた、中学校に俺が上がる時、大好きな野球やめさせたの覚えてます?
蝶八郎「野球はいつでもできる、勉強は今しかできないぞ!」って。
小学校6年生にそれを決めさせるなよ!
わかるわけないだろ!
ギリギリの成績で進学校に進んだが、勉強についていけず、高校野球を続けたが中学でのブランクのせいでほとんど出場できなかった。
小学校の少年野球はクリーンアップを任されてたんだぞ!
覚えてるだろ?
満塁ホームラン打った、あの夏の日。
その夜の宴会でウォーターメロンさんの息子さんが大活躍で!って、全部おごらされたよな?
野球、そこそこやれてたんだぞ。

高校も勉強ついていけない。野球は楽しかったけど万年補欠。
当時、夢中になってたのが『料理の鉄人』。
いやぁ、鉄人にはしびれたな~。俺もこんな料理になりたいな!
高校で持てた『料理人になる夢』。

これも全て潰されたんだよ!
あんたがPTA会長、地元の名士だったし、僕が薬局の長男坊で二代目になることが、地域ぐるみで結託したかのような教師たちの包囲網。
「オマエハ、ヤクザイシニナルノダ」
「オマエハ、ヤクガクブヲウケナケレバナラナイ」
「オマエハ、ウォーターメロンノアトヲツナガナケレバナラナイ」
周りの大人たちの目はすごかったね。

結果、大学受験をすることになったわけですよ。どうせ、訴えても、
蝶八郎「料理はいつでもできる!」って言うんでしょうね。
しかも、すべて薬学部を受けることになったわけですよ。
結局12コの薬科大学を受けたけど、テストを受けても手ごたえナイナイ。
試験問題、全くわかんない。全国受けに行ったが交通費いくら使ったんだろう?
ワンチャン、受かってるかな~なんて、合格通知書を待ってるけど(当時はハガキで送られてきたんです)
めくってもめくっても、『桜散る』『桜散る』『桜散る』。
不合格通知ばかり。。。

たった1つの合格通知
唯一受かったのが、北海道の薬科大学。
日本で一番偏差値の低い、北海道ウキウキ薬科大学!
さすがに無いわ~。
俺にもプライドあるし。
せめて父と同じ岐阜ピンイチ大学くらい卒業しとかんと、二代目としての威厳が無いしな。
しゃーない、浪人頑張るか!
そんな考えをしとったら、
蝶八郎「まあ受かったんだし、これも何かの縁だから行った方がいいんじゃないの?」と。

いやいや、北海道ですよ。
今まで自分の服もお母さんに選んでもらっていた箱入り息子ですよ。
そんなボンボンが北海道で一人暮らしとかできるわけないでしょ!
マジで言ってます???

1996年4月。
高坂涼介、北海道にいます。

薬局二代目じゃなくなる日まであと7年と少し。
別業態で日本一になる日まであと28年。

次回をお楽しみに。

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