表現において人はどこまで残酷になれるのか
先日、あわらミュージック劇場に行ってきました。
この度一度閉館することになったこの劇場(9月に再開予定です。)その閉館記念興行の中のSM興行に行ってきました。
香盤はこちら
私は23日の1回目途中から3回目途中まで拝見しました。

SM興行と銘打っているだけあり、演目も蝋燭を用いたものや自吊等ハードなものが多い印象でした。
蝋燭は見た目によらず低温のものを使えばあまり熱くないと聞いたことがあります。しかしそれでも見ている側としては熱そうでハラハラしてしまいました。
SMは信頼関係で成り立つと言いますが、それはソロの演目でも同じだなぁと見ていて感じました。自分が蝋燭の蝋を垂らすことを厭わなくても、脳が「熱そう」と拒否反応を示せば、自分の身体に蝋を垂らすなど到底できないと思います。「例え苦しい思いをしても表現したいものがある」そんな強い意志がないとできない、表現技法の最高峰を見せられた気になりました。
先ほど述べたように「信頼」があるからこそ、観客は見ることができるのだと思います。「信頼のないもの」例えば自傷行為や拷問などは、同じ内容のものを見せられてもショーとして楽しめないのではないでしょうか。
では人は表現技法においてどこまで残酷になれるのでしょう。ふと、そんな疑問が沸きました。
私なりに考えるのは、許されるラインとして流血の有無がボーダーラインでしょうか。流れる血は自分の意志でコントロールできません。派手に出血して魅せたい!と思っても大量出血で命を落としてしまったら、表現どころじゃないらからです。
そして大量出血を表現したい場合にただ血を流すだけでは、表現としてお粗末なのではないかなと考えてます。大量の血が出ていると思わせたい→ならどう演出するか、が表現であり流血状態を見せるのは安直すぎると思います。
なぁんて書いたけど、「じゃあ蝋燭の蝋で火傷しても構わないと言うのか!」と、ツッコミが飛んできそうな気がしますが…。
もっと表現したい!と思えば思うほどに、深く沈んでゆく感覚は私にも思い当たりがあります。
見られたい、見せたい。そんな業があるほどに表現の幅を求めて、願ってしまうのではないでしょうか。「どこまでてきるのか」を。
そんな罪深き罪人のことを人は楽しむのですから、同じ穴の狢です。
