忘却の村|第1話|霧の朝
第一幕:静かな綻び 1話 霧の朝
霧が濃い朝だった。
村長の吉岡健三は、目覚めると同時に違和感を覚えた。
自分がどこにいるのか、一瞬わからなくなったのだ。
見慣れた天井、見慣れた障子。
そう、ここは自分の家だ。
五十年も暮らしてきた家なのに、まるで初めて訪れた場所のような感覚が胸をよぎった。
「おかしいな」
呟きながら起き上がると、畳の上に散らばった書類が目に入った。昨夜、何かを調べていたのだろうか。だが、何を調べていたのか思い出せない。
書類を手に取ってみる。村の住民名簿だった。
何人かの名前に赤線が引かれている。
川端美咲、田中誠、佐々木良子ーー。
「この人たちは……」
記憶の底を探るが、何も浮かんでこない。
名前は知っている。確かに村の住人だ。だが、なぜ線を引いたのか、まったく思い出せなかった。
キッチンからは妻の作る朝食の匂いが漂ってくる。
いつもと同じ朝のはずなのに、すべてが薄い膜を通して見ているような心地がする。
「あなた、朝ごはんよ」
妻の声が聞こえた。いつもの優しい声だ。だが、その声に応えようとした瞬間、ふと疑問が浮かんだ。
・・・。
妻の名前が、思い出せない。
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