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美食家-陶芸家・北大路魯山人その生誕地と小年時代、永眠する西賀茂小谷墓地を訪ねる #2


マルチな才能を持った魯山人の魅力とは?
前回のおさらいを含めて、魯山人の魅力を感じるままに述べてみよう。今回は趣向を変えて「やわらこう」いきます。
書、料理、篆刻、陶芸などに多才な才能を持った北大路魯山人(本名・房次郎)は、京都市北部にある上賀茂神社の社家に生を受けた。しかし、それは望まれた出生ではなかったため、生れると同時に里子に出される。

生れる前に戸籍上の父は自刃。それは魯山人の生まれる四ヵ月前のことである。生まれてからは養家を転々として、辛い幼少期を過ごしたことだろう。  父も知らず、母の顔をも知らず(母の面影を妻に求めてバツイチどころか…)、養家を転々とした幼少年期だった。

少年期には、養家に気に入ってもらうよう食事をこさえたりして、結構料理は上手かったようだ。

そんな魯山人を好きな焼物(陶芸)から興味を持ち、つかず離れず、折にふれ調べること四十余年。強烈な個性の持主である魯山人の魅力とは、いったいどこにあるのだろうか。


大田神社(上賀茂神社境外摂社)



「美味しんぼ」海原雄山のモデル魯山人
かつて『美味しんぼ』という漫画があった。大人向けの週刊漫画誌に連載されていた。わたしは第一回目からの読者であったが、主人公の山岡が同僚の女性と結婚したころから読まなくなってしまった。

後に漫画「美味しんぼ」の海原雄山のモデルとも言われた魯山人。その漫画に出てくる山岡の父親に北大路魯山人をモデルとした海原雄山がいた。魯山人をモデルとしていたと書いたけれど、実のところはわからない。実在の魯山人と海原雄山とは、とてもじゃあないけど似ているとは言えないと思うのだが…。







北大路魯山人生誕地(大田神社門前)



陶芸家・魯山人のセンスとは…
魯山人は書、篆刻で名声を得たが、経営していた星岡茶寮で用いる器を自前で作っていて、各地から技量のある陶工を呼び寄せていた。その陶工達とはかなり悶着があったようだけど、その中からは数名の「人間国宝」が出ているのだから、その人たちを使っていた魯山人はやはりただ者ではなかったと言うことだろうか。

ちなみにその「人間国宝」の名を上げれば、加藤唐九郎、荒川豊三、金重陶陽、藤原建である。で、魯山人本人はどうかと言えば、文部省の小山富士夫にいく度か推薦をされたが、情実で「人間国宝」になるのはお断わり、といって「国宝指定の推薦状の用紙を弊履のごとく投げ捨て」たという。

北大路魯山人のもとではたらく陶工は、後に「人間国宝」になる者の他に何名かいたようで、その作品に魯山人が手を加えると、あら不思議…!?
星岡窯の職人が作った陶磁器でも「魯山人作」で出回っていると言うし、真贋の判断は難しいようだ。

それでは前回のつづきを…

「千坂わやくや」


和漢薬屋「千坂わやくや」での小僧時代
上の写真は、魯山人(福田房次郎)が10歳から13歳まで奉公していた薬店、通称 "わやくや" である。薬種問屋が集まった烏丸二条北東の角にある。
近年建て替えられ、昔の木造建築の面影は無くなってしまった。以前は二条通りに面して間口の狭い入口があった。店内には海獣「一角」の牙と薬箪笥を飾っていたのが強く印象に残っている。

間口の狭いのには訳があって、昭和三年 昭和天皇即位の御大典のため烏丸通りの拡幅で家屋の西半分が削られたためである。昔の家の写真を見ると "わやくや" は大きな家だったことが分かる。


「わやくや」植込み


奉公はどこも住み込みが条件で、房次郎の一日は早朝の掃除と店先への水打ちからはじまった。そのあとは使い走りや薬の袋貼り、忠七(店の主人-筆者註)の一人娘・つるの外出の際のお共などをした。つるは房次郎より五歳年上で、美しい娘だった。

「知られざる魯山人」山田 和



魯山人は、後年 (六十余年後)"わやくや" を訪れ、思いを寄せていた店の娘さんのことを語っていたとか(つるはすでに亡くなっていた)。それは魯山人の余命が二か月と迫っていた時であった。


薬祖神社



竹内栖鳳との出会い
写真は二条通りに面した薬祖神社である。
料理屋の看板の絵と文字(竹内栖鳳作)に興味を持ち、盗もうとしてバレたのもこの近辺である。
房次郎は使い走りの途中で、ある「行灯看板」を見たという。その行灯看板は奉公先から西南に六、七百メートルほどのところにあった亀政という仕出し料理屋のアンドンである。しかし房次郎が感嘆したのは、行灯看板そのものではなかった。そこに描かれたのほうだった…

…何よりも房次郎が感心したのは、描線の暢達と垢抜けした絵の洒脱な風情であった。絵と書が混じったようなその不思議な看板絵を見上げながら、房次郎少年は「これが芸術だ」と思ったはずである。

以来彼は、亀政の界隈へ使い走りをさせられるたびに、立寄って看板を眺めるようになった。そして幾度か通っているうちに、この行灯絵が毎年正月に描き替えられることを知った。

ならばその直前に剥がして自分のものにしよう。そう彼は考え、明治二十七年(1894年)の年末、丁稚姿のままで亀政へ行って件の行灯絵を剥がしにかかる。しかし運悪く店の者に見つかって懲らしめられるところを、店から出てきた若主人らしい男に許された。

じつはこの人物こそ行灯絵を描いた本人で、…京都画壇の総帥として帝展文展に君臨することになる竹内鳳だった。彼は亀政の主人・竹内政七の長男で、名を恆吉といい、…「棲鳳」の雅号で四条派風の絵を描き、京都府画学校の教師をしていた。

このとき棲鳳はまだ二十九歳か三十歳だったが、すでに花形画家となりつつあった。
……

房次郎は、はからずも棲鳳の ひととなりに接したことで、彼に特別な親近感を抱き、その結果、絵に対する彼の好奇心と情熱は一気に高められた。

「知られざる魯山人」山田 和

房次郎は三年で "千坂わやくや" を辞め、養家の木版の仕事を手伝い扁額や篆刻など、のちに活躍する分野の基礎的な技を身につけたのだろう。
そして当時京都で流行っていた書道コンクールに応募し賞を得る。次々に稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描いたという。 
限りがないので、房次郎の少年時代の話はそろそろ終りにしよう…。

便利堂の社屋


便利堂とのなれそめ
便利堂の社屋(新町竹屋町下がる)は房次郎の養家福田家からそう遠くない所にある。奇しくもというか、当然のなりゆきか便利堂の創設者中村彌二郎の弟である傳三郎、そしてその弟で星岡茶寮の共同経営者・中村竹四郎とのかかわりはこの地…梅屋尋常小学校時代からはじまっていたのである。




話は飛んで…古陶磁の店が星岡茶寮へと発展
魯山人は、銀座で古陶磁の店を開き(便利堂の中村竹四郎との共同経営)、店はヒマだったのか、その店(売り物?)の器を用い、骨董店の二階で料理を出したのが、数寄者たちにうけて美食倶楽部に発展。やがてそれが星岡茶寮になるのである。
星岡茶寮は繁盛していたようであるが、経営は苦しかったようだ。…問題は…魯山人の骨董ぐるい!
茶寮でもうけたお金が…次々に骨董に化けた。ついに魯山人は共同経営者から「解雇」されてしまったのである。


西方寺


魯山人眠る小谷墓地を訪ねる
またまた話は飛んで…
初夏のころ魯山人が永眠する上賀茂神社の西(西賀茂)にある小谷墓地を訪ねてみた。






小谷墓地の奥の奥に墓はあった!



和子という名は長女のようだ。魯山人が溺愛した娘さんも、この地で供に眠る。奥さんだった方はここにはいないようだ。実母の面影を求めていたのだろうか、離縁された奥さんは片手ほどの数いたようであるが。

魯山人その最期のとき
晩年の魯山人はけして幸福とは言えなかったようだ。体調が思わしくなく、その上莫大な借金をかかえていたので茶寮や窯場で働いている人たちに満足に賃金が払えないような状態だったようだ。そのせいか窯場で働く職人たちは魯山人の贋作を作って売ったり、女たちも台所などにあった陶磁器を勝手に持ち出して売ったりしていたようである。

そんなことが『知られざる魯山人』(山田和-著・2008年大屋壮一ノンフィクション賞)に書いてある。この本はおすすめである(文春文庫で読める)。
ちなみに魯山人の死因はジストマ虫による肝硬変だったという。鮒を生で食べたせいか、晩年には肝臓ジストマにかかり苦しみ、肝硬変で亡くなった。

北大路房次郎(1882 - 1959)享年77歳…誕生年については1883年の説あり


小谷墓地北辺(墓地は他所)より上賀茂神社のご神体・神山の方角を望む
神山は頭頂部が丸い山である。


神宮寺山から臨む上賀茂(魯山人生誕地)


魯山人の篆刻看板
京都市内には魯山人の篆刻看板がいくつかある。
もっとも有名なのは、"柚味噌"で名高い、姉小路通りに面した「ゆずみそ」を売る "八百三" (京都市中京区)である。
魯山人の篆刻看板は、店内で大事に保管されているので人目につかないようだ。

篆刻看板「柚味噌」ー(本物は店内に飾られている)




源田紙業(京都市上京区)創業1200年余 「御水引老舗」と篆刻


篆刻看板「呉服」ー長浜・安藤家



【参考文献】
 ・『知られざる魯山人』山田 和
 ・『魯山人の世界』白崎秀雄
 ・『魯山人』黒田草臣
 ・その他



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