【アマノ文筆クラブ】狭き門をこじ開けろ!
「僕のことはコウと呼んでください」
自己紹介のときのコウを、私は今でも思い出せる。しかし彼は私のことなどおぼえていないだろう。出会ったのは、大学の公務員試験対策用の合宿夏季講座で、やる気の無い私は初日から遅刻した。隣の席を占めていたのがコウだった。
「どうも、よろしく」と、私が挨拶代わりに呟き、返ってきたのが冒頭句になる。
私たちは、これから公務員試験という狭き門をくぐるべく死闘を繰り広げることになるのだが、コウは武士道にのっとって先ず名乗りをあげたらしい。
「私はタチバナ」
「有名だから知ってます」
「そりゃどうも」
コウにおける武士道とは、後からずいぶん聞かされたものだ。ただ、当時の私はモチベが無い以上に眠かった。この会話のおかげで2時間ほどは起きていられたことは有りがたかった。
その夜、私はピッキング稼業に励む予定だった。当時の私は大抵の錠なら最小限の工具でこじ開けられたし、経験をつめばつむほど面白くなっていた。
一部の教育・研究機関は、盗難にあっても気付くのが遅い場合がある。
私はピッキングが目的で、公務員試験対策用の合宿夏季講座という課外活動に参加したと言っても過言では無かったのだが、暗闇のなか忍び込んだ私を待ち構えていたのはコウだった。
「タチバナの名前が泣くぞ」
やむなく私はうそぶくことにした。
「まだ何もしてない」
闇のなか笑ったような間が空いた。
「これからするんだろう?」
気が付くと私は合宿所に連れ戻されていた。合宿中に私を連れ出す者はおらず、コウは誰にも密告しなかったようだ。ただ、いつもコウが隣の席を占めていて、私もいやいや受講する羽目になった。
正直あまり勉強した記憶などはない。おぼえているのは休憩中の雑談や、模試の結果が悪かったときに慰め合ったくだらない会話、あと暑さで寝苦しい夜に披露しあった将来の夢とか。
コウは府中と書くらしい。フチュウじゃないのかと指摘したら、フチュウは不忠なので孝にしてコウと読ませるという。忠・不忠といえば朱子学で朱子学が流行したのは江戸時代だ。こんなことを答えさせる問なんて、試験に出たりなんかしないだろうけれど。
私は、国家I種から地方III種まで全落ちし、教員免許まで取ったにもかかわらず企業に就職し、そこもすぐ辞めて転々と転職を繰り返して今に至る。コウとは卒業して別れて以来、連絡も取っていない。
が、最近になって受けた人間ドックで寄生虫感染が発覚した。私の体内で寄生虫が無法にも噛みつき、食い荒らし、こじ開け、臓器の中に居候を決め込んでいるらしい。
若かりしあの頃、知らない扉のピッキングを繰り返していた私が、今や顔も無い寄生虫によってこじ開けられている。
コウがそれを知ったら笑うだろうか。因果応報だと断じるだろうか。それとも、ちゃんと通院して薬のめというだろうか。
処方された駆除薬が、ひどく苦い。
風の便りに、コウは警察官になって近々定年だときいた。
【終】
あとがき
府中とかいて「こう」と呼ぶのは徳島の府中駅で実在します。
橘(タチバナ)は、よくある武家の苗字です。
