【創作】春のミノタウロス
🌸はらとけいさんの企画に参加しました🌸
嘱託のおじいちゃんが校門を閉めにくる10秒前。ダラダラと校門をくぐった小林亮三に清水里香が声をかけた。
「ずるいね」
「そこはおはようって言ってよ」
卒業を控えて、目いっぱいに緩んだ小林亮三の制服のブレザーのボタンは取れている。もちろん靴のカカトは踏みつぶしたまま、シャツの裾は食みだすがまま。シャツが白いだけで許されると思っている。
りんりんと立ち向かう清水里香は、ブレザーが色褪せているものの、月いちのアイロンで崩れていないが、まだマシといった体だ。なんとか整えたブレザー、多少短いスカート、清水里香は学校指定のローファーではなくスニーカーを履く。どうにも足とローファーの相性が悪いらしい。入学一年は足のマメが痛かったらしく、引きずるように歩くのがクセになっていたほどだ。
「教室いけよ?遅れるぞ」
「小林待ってたんだけど」
女子から待ってた、と言われると胸がときめくのは、思春期男子のサガだよな、運命だよな、オレだけじゃないよな、と小林亮三は色めいたが、それは一瞬で終わった。
清水里香のもたれている桜の後ろから、ひょこりと黒い牛が顔を出した。くりっとした黒い瞳が見つめてくる。
「このコ(牛)いるし 小林来てから入れって先生が」
「え?ミノタウロス?まじ?ここ、高校だぞ」
「名前つけたの小林なんだから 優しくしてあげないと怒るぞ?」
牛は甘えたいふうに、もじもじしている。担任の奥野恭平が来た。
「やっと来たのか、小林 とりあえず教室入ろう」
担任の奥野恭平は、慣れた手つきで牛を校庭の隅のクローバーが繁殖している辺りに誘導し、支柱に緩くつないだ。
「風強いけど春一番なら寒くもない ここで待っててもらおう」
が、置いていかれることを察して、牛はブルブルと体をゆすり、おもむろに唸り声をあげた。咆哮の前兆のようだ。
「あーむりむり むりだよ、先生 この子ヤンチャだもん」
支柱は牛を繋ぎとめておくにはヤワで、あっさり抜けてしまった。支柱はひきずったままでクローバーに目もくれず、牛は心なしか軽やかな足取りで小林亮三のブレザーの胸に頭を寄せてきた。シャツのボタンをむしろうとする。
「おっと女子かい?」奥野恭平が無礼な質問をする。
「残念!男子です ミノタウロスって名前でーす」
結局、担任の奥野恭平が折れたので、今日は二人で終日野外デッサンということになった。設備を壊さないでほしい。卒業前に校長室で謝罪とか嫌だろ?と婉曲な脅し文句を残して、担任の奥野恭平は教室に引き揚げた。
「それで頼みがあるんだけど」
ミノタウロスの背中の黒い艶を、6Bの鉛筆のタッチを指でならして表現しながら、清水里香はさりげなく言った。
「なんだよ 簡単なやつにして これから住むとこ探すんだし」
心ここにあらずといった答にも怯まず、清水里香は淡々と続けた。
「ミノタウロスの牛主になってもらえないかな 闘牛に出すんだー」
「オレじゃだめだろ 自分がなるって宣言したの、もう忘れたんか?」
「なりたいんだけど 娘が闘牛など許さんって、家が猛反対で」
「あーだから こないだ清水の家のあたりが騒がしかったんだ」
小林亮三にとっては藪蛇だ。途方に暮れ、逃げたい気持ちで屋上に目線を上げる。階段が腐っているとか、ドアノブがもげたままだとかで、上がれずの屋上という伝説までできてしまった。
「いや勘当だ、出ていけまで言われると参るよ」
「どうせ出ていくのにね」
そうだ、一度は皆ここから出てくよな、と改めて小林亮三は振り返る。良いも悪いもなく、物心ついたときから周りもそうだったし、小林亮三自身も高校を卒業したらこの町から出ていくこと以外の選択肢なんて考えたこともなかった。そして、この春、遂に此の町から出ていく。
「オレ医学部受かったんだ」
「えええすごーい 勉強ばっか しとったもんね!」
「学校の休みくらいしか戻れんけど 名前なら貸すよ
だいたいミノタウロスって名前つけたのもオレだもん」
小林亮三は、つい先日まで、ここから出たい出たいと思って勉強していたのが噓みたいに、センチメンタルな気持ちになっている自分に気づいた。
「じゃ やっぱ家の病院継ぐんだ?」
「まだそこまで決まってないけど」
ミノタウロスは潤んだ瞳で小林亮三を見上げている。この潤んだ瞳が血走り、もうもうと湯気を立てて身体をぶつけあう、あの闘う牛になると考えてみる。なんとなく誇らしいような気もする一方、寂しいような気もする。ミノタウロスは闘うようになったら、もう、こんな瞳はしないんじゃないか。
「うちの病院なんて、もう古いし結構ボロボロなんだよ」
「えっまだ全然いいよ ここ、患者さん多いわりに病院少ないもん」
戻ってこい、と清水里香が言っているような錯覚が胸をよぎって、小林亮三は己を叱咤する。オレは出ていきたいんじゃなかったのか。出ていきたいから死ぬ気で受験勉強してたんじゃなかったのか?
「ところで清水は残るの?」
「言ってなかったっけ 私、信州大学1本だよ」
「目指してんの?」
「動物福祉だよ ミノタウロスの幸福を追求したい」
ここでやりたいことの為に、ここを出ていくという矛盾。清水も同じなんだな、と小林亮三はストンと腑に落ちた気がした。
「ところでさ闘牛出すならミノタウロス、名前変えたら?」
「なんで?ミノタウロスって強そうなのに」
「テセウスってギリシャの英雄に負けるからダメだよ」
「あ!大丈夫だよ 宇和島闘牛に出すから
負けた牛のほうがお金たくさんもらえて 問題ないもん」
出ていって帰ってきてもいいし、帰ってこなくてもいい、この町特有の良さが小林亮三には沁みた、ような気がした後だった。
清水里香は、闘牛にむけてのミノタウロスのトレーニングは、女子一人では厳しいので、帰ってきたときは手伝って欲しいと、おごそかに口にした。
「いつ帰るか、帰る前に必ず連絡ください」
小林亮三は単純なので、一人で寝るより牛舎でミノタウロスと寝る方が温かそうだな、などとぼんやり考えていた。清水里香はとっくに課題のデッサンを終わらせて、ミノタウロスの黒い毛にブラシをかけることに余念が無かった。
【終】
宇和島の牛にギリシャ神話由来の名前を付した点が架空です。