目で見て、学ぶ
今年4月から、ろう者の方が教える手話教室に通い始めた。
オンラインと対面、どちらでも参加できる。
最初の参加は、娘たちが給食なしで帰宅する日だったので、オンラインにした。
講師はろう者。
受講しているのは、聴者。
音声による日本語は、ない。
それでも、自然と成り立っている。
講師の手話は、
あまりにも「そこ」にあった。
画面越しにも関わらず、
教室の空気ごと届いてくるような感覚。
その場にいる人たち一人ひとりの手話を、
その場で再現していく。
癖も、リズムも、表情も。
ただ真似ているというより、
その人ごと、そこに立ち上がっているように見えた。
ろう者の手話は、音声による言語ではない。
景色や表情、想いが、
手話というかたちで、目の前に現れてくる。
ただ、手や視線だけではない。
表情やうなずき、動きの強弱。
それらが重なって、
ひとつの意味として立ち上がる。
同じ景色を、見ている感覚がある。
うまく説明はできないけれど、
そこに「伝えよう」とする気持ちがあることだけは、はっきりと伝わってくる。
通訳者を目指した講座に参加していたときは、
文法や言葉の裏側ばかりを追いかけていた気がする。
でも、今ここにあるのは、
伝えたい、ということと、
知りたい、ということ。
それだけなのかもしれない。
頭で考える前に、見て、真似る。
手が動く。
表情が動く。
体が動く。
意味を考えなくても、
映像として見えてくる。
どこか、
言葉を覚える前の感覚に近い。
オンラインで、もうひとつ驚いたことがある。
目線が、むずかしい。
相手が手話をしているときは、画面を見る。
でも、自分が表現するときはカメラを見る。
どこを見ればいいのか、少し迷う。
とりあえず、自分の番になったときは、
「撮影されている人」みたいな気持ちでやってみるけれど、
そうすると、画面の向こうにいる講師とは、視線が合わない。
この違和感を長女に話したら、
「そうだよ。今まで私たち、それやってきてるよ。すごいでしょ」
と、さらっと言われた。
たしかに、すごい。
それでも、この場には安心感がある。
教室にいる人も、オンラインの人も、
同じ場にいるように、
誰も取り残さないように、
すべてが行き渡っている。
音による言葉がなくても、通じている。
目で見て、学ぶ。
そんな空間の中に、今、自分はいる。
#日常エッセイ
