【本要約】なぜ女性はセックスをするのか?——237の動機が照らし出す、人間という動物の複雑な内側
「愛しているから」——この答えは、科学的には8%にすぎなかった。
残りの92%に何があるかを知ったとき、おそらくあなたは「人間」という生き物を、少し違う目で見るようになる。
要点
臨床心理学者シンディ・メストンと進化心理学者デイヴィッド・バスが、世界中の女性1,006名に「あなたはなぜセックスをするのか」と問いかけた。返ってきた答えは、237通りだった。
「性的に引きつけられたから」「気持ちよくなりたいから」という単純な動機から、「頭痛を治したくて」「神に近づきたかった」「復讐のために」「自分を罰したくて」「職を得るために」まで——動機の射程は、欲望・戦略・恐怖・義務・スピリチュアリティの全域にわたる。
「男は快楽のために、女は愛のために」という長年の通念は、このデータの前で静かに解体される。女性の性行動を規定するのは、愛でも本能でもなく、もっと複雑な「理由の網の目」だった。
こんな人にオススメ
「人間の性行動は愛か本能で説明できる」という前提に、どこかもの足りなさを感じてきた人
心理学・進化論・臨床研究の交差点から「なぜ人間はこうも奇妙な行動をとるのか」を考えたい人
書籍情報
著者:シンディ・M・メストン(Cindy M. Meston)、デイヴィッド・M・バス(David M. Buss)
訳者:高橋佳奈子(たかはし かなこ)
出版社:講談社
日本語版刊行:2012年6月13日
価格:1,980円
ジャンル:性心理学・進化心理学・臨床心理学・科学読み物
著者について
シンディ・M・メストンは、テキサス大学オースティン校の臨床心理学教授であり、女性の性心理生理学(せいしんりせいりがく)研究の第一人者だ。 女性の性的反応に関する論文・著作は100篇を超え、2003年には「女性の性的健康に関する国際調査委員会」を主導するなど、純粋な学術研究に留まらず、臨床現場との橋渡しを担い続けている。
デイヴィッド・M・バスは、同じくテキサス大学の進化心理学教授で、「現存する心理学者の中でもっとも多く引用される研究者の一人」として知られる。 『欲望の進化』『危険な熱情、嫉妬』など日本語でも広く読まれる著作を持ち、ヒトのつがい選択・嫉妬・性的競争を進化論の枠組みで論じ続けてきた。
二人はまず2007年に学術誌『Archives of Sexual Behavior』に「Why Humans Have Sex(ヒトはなぜセックスするのか)」という論文を共同発表し、その衝撃的な反響を受けて、対象を女性に絞りさらに深化させた本書を執筆した。 異なる専門を持つ二人が組むことで、「生物学的衝動」と「心理的・文脈的動機」の両面から性行動を解剖する、稀有な二重構造の研究書が生まれた。
Ⅰ 「なぜ」を問わなかった半世紀
1948年と1953年、アルフレッド・キンゼイ(Alfred Kinsey)は8,000人以上のアメリカ人を対象に性行動の実態を調査し、「キンゼイ報告書」として世に問うた。 それは当時の社会に大きな衝撃を与えたが、根本的に「どのように(How)」を問う調査だった。
その後50年以上、性科学者たちは同じ問いを磨き続けた——「どれくらいの頻度で」「どんな相手と」「どんな行為を」。
だが「なぜ(Why)」は問われないままだった。なぜなら、皆がその答えを「すでに知っている」と信じていたからだ。
「人は快楽のために、愛のために、そして繁殖のためにセックスをする」——この三語の答えが、百年近く疑われなかった。
メストンとバスはここに楔を打ち込んだ。
彼女らは、その「すでに知っている答え」が驚くほど貧しいことを証明するために、1,006名の女性に直接問いかけた。「あなたが過去にセックスをした理由を、すべて教えてほしい」と。
〔注〕この調査は2006年から2009年にかけてオンラインで行われ、世界各地の多様な民族・年齢・性自認を持つ女性が参加した。最初の調査で444名から237の異なる動機を特定し、第二の調査でその頻度と重みを評価するという二段階の設計を取った。
Ⅱ 237という数字の意味
返ってきた動機は、整理すると237種類にのぼった。
研究者たちはこれを大きく四つのカテゴリーに分類した——「身体的動機」「目標達成的動機」「感情的動機」「不安・不安定性に基づく動機」の四つだ。
だが分類よりも、個々の動機の具体的な内容の方が、はるかに雄弁だ。最頻出の動機には「その人に性的に引きつけられたから」「気持ちよくなりたいから」「愛情を示したかったから」が並ぶ。 これは「通念通り」の答えに見える。
しかし237の動機の射程は、はるかに遠くまで伸びる。
「頭痛を消したかったから」(薬物的動機)
「神に近づきたかったから」(霊的動機)
「ライバルを嫉妬させるため」(地位競争的動機)
「別れさせるために」(関係破壊的動機)
「自分を罰したくて」(自傷的動機)
「お金をもらえるから」(資源獲得的動機)
「相手に性病を移したかった」(加害的動機)
これほど振れ幅の大きな「理由の地図」が存在する行動は、人間の行動の中でもきわめて珍しい。
食事や睡眠にここまで多様な動機は存在しない。
237という数字は、性行動が「本能」と「快楽」だけでは語れない、人間の社会的・認知的複雑さのすべてを引き受けた行為であることを示している。
Ⅲ 「女は愛のために」という通念の崩壊
本書が最も鮮やかに打ち崩す通念が、「女性は愛情のためにセックスをする」という図式だ。
調査では、性行動の動機として「愛を表現するため」を挙げた女性の比率は8%にとどまった。
一方、「愛」を動機として挙げた男性は32%だった——つまり、「愛のためのセックス」という動機は、むしろ男性の方が高かった。
この逆転は、単純な統計の驚き以上の意味を持つ。
「女は感情的で男は本能的」というジェンダーステレオタイプが、実態とは正反対だった可能性を示唆するからだ。
女性の上位三動機は「その人に引きつけられた」「身体的快楽」「気持ちよくなれる」——すべて「愛」よりも先に「身体」が来ていた。
〔注〕ただし、これは「女性が愛情を軽視する」という意味ではない。女性の方が「愛情をセックスの前提条件」として重視する傾向はある。「愛があれば応じる」と「愛のためにする」は、心理学的には別の構造だ。
Ⅳ 戦略としての性——資源、地位、競争
本書の最も刺激的な章の一つは、「性を戦略的に使う」という行動の分析だ。
「欲しいものを手に入れるためのセックス」という動機は、複数の形で記録されている。
昇進・就職のためのセックス(資源獲得)、ライバルを嫉妬させるためのセックス(地位獲得)、浮気するパートナーを引き止めるためのセックス(関係保全)、相手の別の恋人を奪うためのセックス(競争戦略)——これらはすべて、「純粋な欲望」や「純粋な愛情」とは異なる、冷静な目的意識をともなう行動だ。
進化心理学の観点では、これらは「感情的に計算された適応行動(adaptively calculated behavior)」と見なされる——つまり、非倫理的な逸脱ではなく、進化によって形成された戦略レパートリーの一部だという解釈だ。
〔注〕「性を資源交換として使う」という現象は、人類学的にも古くから記録されており、現代社会にだけ現れた病理的行動ではない。問題はその行為が合意に基づくものかどうかであって、動機の存在自体ではない、と著者たちは慎重に注記している。
さらに言えば、この構図は人間固有ですらない。たとえばオマキザルに金属トークンを「通貨」として教えた実験では、トークンと食物の交換だけでなく、性交直後にオスがメスへトークンを渡し、そのメスがすぐにブドウと交換したという「売買春」的行動が観察されている。 この例が示しているのは、性が「資源との交換」に組み込まれうること自体は、社会的霊長類に共通する戦略であって、それを一律に病理として切り捨てることはできないという点である。病理として問題になるのは、そうした交換がどのような権力関係と制約条件のもとに構造化されているか、そして本人の同意がいかに確保されているかという、水準の異なる問いである。
Ⅴ 暗い理由——強制、恐怖、義務の存在
本書が他の性科学書と決定的に異なるのは、「暗い理由」を誠実に記録している点だ。
調査に参加した女性の中に、多くの「不本意なセックス」の経験が報告されている——言語的強要によるもの、アルコールや薬物を使われたもの、幼少期の虐待の延長にあるもの。
著者たちはこれらを「例外的なケース」として排除せず、全体の動機マップの一部として含めた。なぜなら、「なぜ女性はセックスをするのか」という問いが本当に誠実であるなら、自発的な欲望だけでなく、強制・恐怖・義務も含めて可視化しなければならないからだ。
この選択が、本書を単なる「面白い性の統計本」から、「人間の性行動の倫理的複雑さを正視する科学書」へと格上げしている。
まとめ
解釈① ——237という動機は「自己欺瞞の在庫一覧」
精神分析的な視点から本書を読み直すと、237の動機の多くは「意識化されていない動機の、事後的な言語化」である可能性がある。
人間は自分がなぜある行動をとったかを事後に物語るとき、実際の動機よりも「社会的に受け入れられやすい動機」を選ぶ傾向がある——これを「合理化(rationalization)」という。
とするならば、237という数字の中に「本当の動機」はいくつあるのか、という問いが浮かぶ。
「退屈だったから」と答えた女性は本当に退屈だったのか。それとも「誰かに必要とされたかった」という動機を言語化できなかっただけかもしれない。
本書のデータは、「セックスの理由」のカタログであると同時に、「人間がいかに自分の欲望を知らないか」を照射する合わせ鏡でもある——ギリギリそう読める。
解釈②「237」とは、文明の圧力が作り出した症状目録だ
人間以外の動物に「なぜ交尾するのか」を問えば、答えは一語だ——「本能」。
だが人間の女性の答えが237通りになったのは、人間だけが「性行動を意味づける認知システム」を持つからだ。
ここで突飛な解釈を一つ:237の動機の多くは、「本来は性以外の目的のために発達した認知機能が、性行動を乗っ取った結果」ではないか。
「地位を得るためのセックス」は地位欲求の乗っ取り、「復讐のためのセックス」は攻撃衝動の乗っ取り、「神に近づくためのセックス」は超越欲求の乗っ取り——文明が「性を意味づけるな」と禁じても、脳はありとあらゆる目標に性行動を接続しようとする。237という数字は、文明の禁圧と人間の認知的柔軟性の衝突が生み出した「症状の総数」として読めるかもしれない。
解釈③ ——「なぜ女性だけに問うのか」という問いそのものが、回答の一部だ
本書の原題は Why Women Have Sex——女性に特化した調査書だ。
著者らはその理由を「性行動における意思決定の主導権は、短期的な性的関係において女性の方がより高い可能性がある」と説明している。
だが「なぜ女性だけに問うのか」という問いには、もっと根深い構造が埋まっている。
男性の性行動の動機は「自明のもの」とみなされ、女性の動機だけが「謎」として研究対象になるという非対称性そのものが、社会が男性の欲望を規範(ノルム)として、女性の欲望を逸脱として扱ってきた歴史の残滓(ざんし)ではないか。
この解釈では、237の動機のリストは「女性の性心理の複雑さの証明」である以上に、「男性の動機を問わなかった社会の単純さの証明」でもある。
同じ調査を男性に行えば、そちらも237以上になるはずだ——ただし、誰もそれを「謎」だとは思わなかっただけで。
