『らんだむノート15』母が逝った2013年の備忘録。元気ハツラツな後家さんでいてほしかった。
自分にも何時その日がやってくるかわからない歳になってアチラへのいきかたについて考えるようになった。ピンピンコロリは冗談でなく本気だけど先のことは分からない。



さんがいた。













聞えぬ耳に歌、見えぬ目に涙💛
2013年に83歳で亡くなった母は、2000年に夫を癌で亡くしてから徐々に元気を無くしていったのだと思います。
世間には元気ハツラツな後家さんが多い!?気がしますが、母は夫を亡くしてから13年も過ごしながら、その逆を行きました。
亡くなる前の数年間は自ら食べる事を放棄したかのように痩せ衰えていきました。
当時、母は私の姉夫婦と同居しており訪問看護を受けていました。
姉は仕事を持つ忙しい人でしたが、ずっと母を自宅で看るつもりで頑張っていました。
そんな恵まれた環境で、本人に深刻な病気もなく、傍目には幸せな老人のはずでした。
でも、お友達がウォーキングに誘ってくれても行かず、趣味にも興味を示さず、ご飯も食欲がないと残す量が増えていきました。
老人は一旦弱り始めると坂道を転げ落ちるように体力を失ってゆきます。
母はついにトイレに行くにもデイサービスに行くにも車いすを使うようになりました。
そして、いろんな病気に罹るようになりました。
ある日、母は訪問看護師さんから肺炎の発症を指摘されて、居住地にある市立病院に入院しました。
それでも肺炎の治療が終われば、また自宅に戻るはずでした。
その時点で誰も母の死を想像する人などいませんでした。
ところが、そこで今度は結核になってしまったのです。
母は幼児期に結核にり患したことがあると話したのを姉が覚えていました。
体内に潜んでいたその菌が母の体力の低下に乗じて復活したのでしょうか。
母はすぐに結核病棟のある別の市の公立病院に転院を余儀なくされました。
それまで毎日母を見舞っていた姉も、遠方の病院には頻繁にゆく事ができなくなり、母は孤独感を深めて行った事と思います。
私も諸事情から度々は母を訪れず、今となっては後悔が残ります。
母の状況は、私が病棟に行くたびに変わっていきました。
いつの間にかオムツをつけられ、ついには手足を拘束されていました。
本人が点滴や鼻の管を嫌がって抜いてしまうからだとのことでした。
これでは痛くても何でも、看護師さんを呼ぶベルも押せないではないか。
しかし、実際に介護に当たることのできない自分たちにはどうすることもできません。
この様な状況の中で母は次第に生きる気力を失っていったのだと思います。
とうとう「今のうちに会わせたい人に会せるように」と言われたと姉から連絡が入り、私は遠方に住む子供たちに集合をかけました。
そして「今度の週末に息子達が見舞いに来るから楽しみにしてね」と母に告げると、母は「ホント」と嬉しそうに返してくれました。
彼らの見舞いの当日、姉がベッドを囲む息子達と母の写真を撮って送ってくれました。
息子たちは全員大きなマスクを着けて口元は見えませんが、母は嬉しそうに笑ったような顔で写真に納まっていました。
みんな、母と握手をしていました。
姉は、みんなが来ている間だけは手足の拘束は解いてくれと頼んだのだそうです。
それからしばらくして母は危篤状態に陥りました。
私が病院に行った時には母の意識は既になく、呼びかけても手を握っても反応はありませんでした。
その状態がしばらく続いた後に母はついに亡くなりました。
それは、姉が夜通しの付き添いをして自宅に戻り、私が病院に向かう隙間をついてやって来ました。
私がもっと早く病院に向かえば、私があの時姉に一旦自宅に帰るように促さなければ、誰かが母の最期に立ち会う事ができたのに。
あの日、母は一人ぼっちであの世に旅立ったのです。
医師の死亡宣告は家族の立会いの下でなされます。
既に死亡しているせいか医師は手の空いた時に病室に来て、私たちの前で死亡宣告をしてくれました。
それを合図に私たちは部屋の片づけを始めました。
姉は荷物を駐車場に運ぶため、部屋を出て行きました。
亡くなった母と二人きりになると、私は今までの感謝と思い出話と親不孝を詫び、もう聞こえない母の左の耳元で歌をうたいました。
なぜか、亡き父の愛唱歌が頭に浮かんだのです。
すると、母の左目の目尻に水が溢れてきました。
母の目は昏睡状態に陥ってからは常に開きっぱなしで乾燥していました。
不思議に感じつつも歌い続けると、今度は目頭がキラキラと光り出しました。
そこに溜まり始めた水が、窓辺の日差しに反射していました。
それにつれて目尻の水の量も増えて、今にも流れ落ちそうです。
そうなる前に、この水を見てほしい。私は急いで姉に電話しました。
姉は葬儀社などへの連絡に追われているようでした。
結局、姉が戻る前に母は清拭され水は跡形もなく消えてしまったのですが。
さて、清拭を終えた母はお気に入りだったという毛糸の帽子を被り、今は笑っているような可愛らしい顔で一層涙を誘います。
私は一旦、退室して自分の家族に連絡を済ませ、病室に戻りました。
すると姉が、「今『千の風になって』を歌ってみたけど、母さんの涙は一滴も出なかったよ」と言いました。
二人で泣き笑いしました。
母は春日八郎のファンでしたが、私が歌ったのは亡き父の好きだった「長崎の鐘」でした。
でも、最近は「千の風になって」にハマっていたんだね。
ずっとご無沙汰で、母の事を何も知らなかった自分。(母さん、ごめん)
今も「長崎の鐘」を歌うと、あの時の切ない情景が浮かんできます。
(これは、加藤啓子さん主宰「らじお話の会」の”私の思い出の1曲”に寄稿、朗読したものです)
誰も自分のサイゴは分からない💛
私の友人知人は年上が多く最近の話題は終活や墓じまいのこと,,,。
自宅で死ぬか病院か。ピンピンコロリか寝たきりか。
孤独死か、親族にずらーと取り囲まれて看取られるのか。
好むと好まざるとに関わらず、自分で選択することはできません。
だから、その時はその時でしょうがないのです。
そこで、家族に言っておきたいことがあります。
もしも私の最期に立ち会えなかったとしても決して悔やんでほしくありません。
残した家族には、元気に過ごしていた自分を思い出してくれれば十分です。
さて、2000年に逝った父は母とは真逆の、ホスピスで家族と穏やかに最後の時を過ごしました。
まんが「愛しのマリー」には、その時の父と母も少し登場します。
次は自分もおくられる番に近づいて初めて考える自分のさいごのこと。
だけど先のことは分からないから、とにもかくにも「みんな、ありがとう」と、ここに記しておきたいです。
