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モット・アンド・ベイリーの城主は誰か――シャッケル「ポストモダニスト方法論の空虚さ」を、シャッケル自身の基準で読む



はじめに――「モット・アンド・ベイリー」の出生地

近年、「モット・アンド・ベイリー」という語は、批判を受けると防御しやすい穏当な主張へ退却し、批判が去ると再び刺激的で急進的な主張へ戻る論争戦略の名称として広く使われている。ただし、この語を最初に定式化したニコラス・シャッケル(Nicholas Shackel)が2005年の論文で用いた原語は、Motte and Bailey Doctrine、すなわち「モット・アンド・ベイリー型教説」であった[1]。シャッケルは後年、教説それ自体は一個の誤謬や論証ではなく、強弱の異なる命題からなる体系であり、教説そのものと、それを利用した個別の詭弁とは区別すべきだと明確化している[2]。したがって本稿でも、体系の構造を指すときは「教説」、具体的な論争上の往復を指すときは「戦略」または「利用」と呼び分けることにする。

この概念の出生地が、シャッケルの論文 "The Vacuity of Postmodernist Methodology"(「ポストモダニスト方法論の空虚さ」)である[1]。同論文の目的は、ポストモダニズムに帰属される個々の哲学説を改めて一つずつ反駁することではない。シャッケル自身の表現を借りれば、彼はそれらの説が反駁された後にも存続できる理由を示すため、修辞的な仕掛けを陳列した「小さな博物館」を作り、それぞれに棄却のための名称を与えようとする。論文はその出発点から、思想史的に中立な解説ではなく、合理主義を防衛するための、意識的に攻撃的な論争文である。

本稿の目的は二つある。第一に、この論文を、現在よく知られている「モット・アンド・ベイリー」だけに還元せず、フーコー、ブルア、リオタール、ローティをめぐる議論と、論文末尾の絶対的非合理主義批判まで含めて、論証の順序に沿って紹介すること。第二に、思考実験として、シャッケルが提示した診断基準を、シャッケルの論文そのものに適用することである。この自己適用は単なる意趣返しではない。診断概念の価値は、敵対する思想だけでなく、その概念を作った論者自身にも同じ証拠基準で適用できるかによって試されるからである。

一 原論文を丁寧に読む――論証の順序と射程

1 論争の設定――「アロゴシア」と合理主義者の挑発

シャッケルが「ポストモダニスト」と呼ぶ範囲は、通常の思想史的用法よりはるかに広い。自らをポストモダニストと称するリオタールやローティだけでなく、ポスト構造主義者、脱構築論者、科学知識社会学のストロング・プログラム、一部の反合理主義的フェミニストまでが一括される。彼がこの異質な集団に共通するとみなすのは、合理性は人間に対する客観的拘束ではなく、われわれが価値に応じて作るものだ、という懐疑的教説である。シャッケルはこれを alogosia(アロゴシア) と命名する[1]。

ここで重要なのは、シャッケルがアロゴシア自体をこの論文で本格的には論じないと明言していることである。彼はむしろ、その教説の「不条理な帰結」を利用する。もしアロゴシストが健全な論証と詭弁のあいだに客観的な優劣を認めないなら、シャッケルが詭弁的な修辞によってポストモダニズムを打ち負かしても、それを不当だとは言えない。反対に、その議論を「詭弁だから」と拒否すれば、健全な論証と詭弁を区別する合理的規範を認めたことになる――これが冒頭の挑発的な二者択一である。

この導入は単なる冗談ではない。シャッケルは、自分のより広い目的が「強固な合理性」をポストモダン的懐疑から守ることにあると述べる。その一方で、侮蔑的な比喩や風刺を意図的に用い、やがて「遊びはここまで」と区切って、本論である「彼らの手法についての私の手法」へ移る。つまり原論文には、最初から二つの層がある。ひとつは具体的な語義分析と論証批判、もうひとつは読者にポストモダニズムへの軽蔑を共有させようとする論争的演出である。

2 トロールの自明句――刺激的な虚偽を自明な真理に乗せる

第一の展示物が Troll's Truism(トロールの自明句) である。シャッケルの定義では、これは「刺激的な虚偽が、軽度に曖昧な文を介して、退屈な真理に便乗する」場合をいう。典型例は、「構築されたものは、別の仕方にも構築できた」という文である。

この文を弱く読めば、人間は信念、意味、分類、制度を形成し、それらは教育や文化によって別様にもなりえた、という主張になる。シャッケルもこの意味での社会的形成を否定しない。しかし強く読めば、何が真であるか、世界がどうあるかまで人間が恣意的に構成する、という主張になる。彼によれば、ポストモダン的言説は、強い読みの急進性によって読者を引きつけながら、反論を受けると弱い読みへ退却できる。

シャッケルが代表例として取り上げるのは、ソーカル事件後のスタンリー・フィッシュの応答である。フィッシュは、世界そのものではなく、世界を理解する語彙や説明が社会的に形成されるのだと述べた[3]。シャッケルはこれを、外界の構築という強い命題から、信念や語彙の形成という自明な命題への退却と読む。また、バーガーとルックマンの著書名『現実の社会的構成』(The Social Construction of Reality)と、本文中の「構成されるのは現実そのものではなく信念である」という限定的な但し書きとの落差も、同じ型の最初期の先例として挙げられる[4]。

ここでの中心的な区別は、後の議論全体を支える。すなわち、信念がどのように形成されたか、語がどのような意味を与えられたか、命題が真であるか、世界そのものがどのように存在するかは、別々の問題である。シャッケルの批判は、これらの水準を一つの「構築」という語で滑らせる言説に向けられている。

3 モット・アンド・ベイリー型教説――一文から理論体系へ

トロールの自明句を理論体系の水準へ拡張したものが、Motte and Bailey Doctrine である。中世のモット・アンド・ベイリー城では、広く居心地のよいベイリーが生活の中心だが、防御には弱い。丘上のモットは狭く不快だが、攻撃時には守りやすい。これを哲学に移すと、ベイリーは支持者にとって魅力的で急進的だが防御困難な命題群、モットは独創性に乏しいが反駁されにくい命題群となる。

軽い批判に対してはベイリーを維持し、強い反論が来るとモットへ退却する。批判が去れば、再びベイリーを占有する。トロールの自明句では、同じ曖昧な文の弱い読みがモット、強い読みがベイリーとなる。しかしシャッケルは、モット・アンド・ベイリー型教説が常に一つの曖昧な文からできるとは考えていない。理論全体が、退屈だが防御可能な中心部と、刺激的だが脆弱な周辺部から構成されていればよい。

シャッケルはここで、ポストモダニズム全体がまさにそのような教説だという大きな診断を提示する。しかし同時に、この大きな主張を論文内で詳細に擁護する余裕はなく、少数の事例から全体の機構が見えることを期待する、とも認めている。この自己限定は、後にシャッケル自身へ基準を適用する際の重要な論点になる。

4 ハンプティ・ダンプティ化――フーコーの「真理」をめぐって

モット・アンド・ベイリー型教説を構築する一つの方法として、シャッケルが取り上げるのが Humpty Dumptying(ハンプティ・ダンプティ化) である。『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティのように、通常語を独自の意味に再定義しながら、あたかも同じ対象について語り続けているかのように見せる方法を指す。

標的は、フーコーの「真理と権力」をめぐる議論である[5]。フーコーは、真理を、発言の生産・規制・配分・流通・作用に関する秩序だった手続きの体系として説明し、各社会には固有の「真理の体制」があると論じる。シャッケルはここに二つの意味を区別する。第一は、命題が実際に成り立っているという通常の意味での真理。第二は、どの発言を真として作動させ、誰に真理を語る資格を与え、どの手続きを承認するかという制度的体系――シャッケルが「フーコー的真理」と呼ぶもの――である。後者の意味で「真理は権力である」と言うなら、命題は比較的穏当な制度論になる。前者の意味で言うなら、急進的ではあるが誤った真理論になる。フーコーの文章は、この二つを同一箇所で往復することによって、制度論の防御可能性と、真理そのものを覆す急進性を同時に得ている、とシャッケルは分析する。

この批判を形式化するために、シャッケルはタルスキの規約Tを用いる[6]。規約Tは、真理の完全な定義ではなく、真理論が満たすべき実質的適切性の条件である。たとえば、「『雪は白い』は真である ⇔ 雪は白い」という同値が導けなければ、その理論は通常の真理についての理論とは言いがたい。シャッケルはフーコーの立場を、議論のために「文Sが真である ⇔ Sが社会的に生産された」と再構成する。そこに規約Tを加えると、社会的に生産・承認された天動説から、太陽が地球の周囲を回るという内容そのものが導かれてしまう。したがって、社会的生産は通常の意味での真理の十分条件ではない。シャッケルの二者択一は明快である。フーコーが通常の真理について理論を提示しているなら、その理論は偽である。別の制度的対象を「真理」と呼び直しているだけなら、彼は真理についての理論を提示していない。

ただし、この形式的反論が直接に示すのは、シャッケルによる再構成がフーコーに正しく帰属できる場合に限られる。この点は自己適用の節で改めて扱う。

5 ブルア――「知識」と「真理」の社会学的再定義

第二のハンプティ・ダンプティ化の例は、デイヴィッド・ブルアのストロング・プログラムである[7]。ブルアは、社会学者が扱う「知識」を、哲学者のいう正当化された真なる信念ではなく、人々が確信し、それに基づいて生活し、集団的に承認している信念として定義する。

シャッケルはこれを、通常の知識と「ブルア的知識」の混同と診断する。社会学にとって本来重要なのは、信念を生産する制度が本当に知識を生み出すのか、他の制度より信頼できるのか、という問いである。ところが知識を最初から「集団的に承認された信念」と定義すると、研究は、集団的に承認された信念がなぜ集団的に承認されたかを説明するだけになり、真理や正当化の問いが定義によって消去される。さらにブルアは、真理を、紙幣、勲章、婚姻関係のような「社会的種類」として捉えようとする。シャッケルはこの議論を「ある信念が真であるのは、他者から一定の仕方で扱われる場合に限る」という形に再構成し、通常の真理概念とのずれを追及する。ブルアの議論では、「知識」「真理」「理由」「承認」が、通常の規範的意味と社会学的・因果的意味のあいだを移動し、その移動が理論の急進性を支えている、というのがシャッケルの診断である。

6 両義的支点――フーコーとブルアからリオタールへ

ここで登場する第三の主要概念が、Equivocating Fulcrum(両義的支点) である。梃子の支点が小さな力を増幅し運動の方向を変えるように、意味の曖昧な中心概念は、修辞的印象を論証上の効果へ変換し、議論の方向を逸らす。いったん「真理」「知識」「客観性」「正当化」といった語に両義的支点が作られると、後続の多数の論者がそれを再利用できる。シャッケルによれば、露骨な再定義だけでは読者は納得しないため、再定義は単なる語の変更ではなく「概念の深い本質の発見」として提示され、通常の意味と新しい意味が同じ文章のなかで重ねられる。フーコーにおける通常の真理と制度的真理、ブルアにおける通常の知識と集団的承認が、その例とされる。

より微妙な事例として扱われるのが、リオタールの『ポストモダンの条件』である[8]。リオタールは、近代科学が自らを正当化するために、人類の解放、精神の弁証法、富の創造などの「大きな物語」に依存してきたと論じ、ポストモダンを大きな物語への不信として定義する。シャッケルは、ここで「正当化(正統化)」に二つの問いが混在すると考える。第一は、科学が生み出す信念が本当に知識であるか、どの方法が真なる信念を生みやすいかという認識論的問い。第二は、科学を社会として推進すべきか、その成果が望ましいか、科学制度にどのような権威を与えるべきかという倫理的・政治的問いである。シャッケルによれば、リオタールはこの二つを分離せず、知識が知識であるためには、その知識を望むべき理由と望ましい社会の構想まで含む統一的な大きな物語が必要であるかのように扱う。

これに対しシャッケルは、何が知識であるかは認識論が、科学を実践すべきかは倫理学や政治哲学が論じればよく、両者は概念的に別問題だと反論する。雨が降っていることや鋼鉄のヤング率を知るために、歴史全体を正当化する大きな物語は要らない、というのが彼の風刺的な要約である。

7 ポストモダニストのフォックストロット――無立場とアロゴシアの二段階

第四の装置が、Postmodernist Fox-trot(ポストモダニストのフォックストロット) である。原論文での順序は明確である。第一歩は、哲学は否定的にしか行えず、積極的な立場を占めた時点で誤っているとする No-Position Position(無立場の立場)。第二歩は、客観的な合理性の規範は存在せず、合理性の規則は構築されたもので、その構築の仕方に客観的な優劣はないというアロゴシアである。この二つを組み合わせると、相手には「誤っている」「不当である」と規範的な批判を加えながら、自分の主張が同じ規範に照らして審査されそうになると、積極的理論を提示していないと言って退却できる。また、論証の妥当性を問われると、妥当性の規範そのものが構築物であると応じられる。シャッケルが問題にするのは、この規範使用の非対称性である。

ローティについては、「真理は哲学的に興味深い理論を期待すべき対象ではない」という趣旨の記述が取り上げられる。シャッケルによれば、ローティの真理観に不整合を指摘しても、ローティは「そもそも真理理論を提示していない」という無立場へ退却できる。しかし「立場を取るべきでない」という主張自体が一つの立場であり、そこへ至る論証も必要である。異なる前提から出発すると言うだけで議論を拒否するなら、哲学を超えたのではなく、哲学をまだ始めていない――これがシャッケルの応答である。

ブルアについては、真なる信念と偽なる信念を同種の原因で説明する「対称性原理」が検討される。シャッケルは、ブルアが信念の真偽を信念形成の説明から排除しながら、自説については読者が理由に基づいて信じるべきだと振る舞っている、と批判する。理由が単なる信念原因なら、なぜその理由が正しい理由なのかを説明できない。もっともシャッケル自身、この箇所では、問題を完全に特定できたか確信はないと留保している。

最後に彼は、ポストモダニストが合理的語彙を使うのは、合理主義者の前提から合理主義の自己崩壊を導く内在的批判、すなわち tu quoque 型の議論だからだ、という防御を検討する。シャッケルの回答は、実際に合理主義全体を自己崩壊させる具体的な論証を示してほしい、というものである。懐疑論やパラドックスが未解決であることは、合理性全体の否定を意味しない。むしろ、パラドックスへの応答は論理と概念の発展を生んできた、と彼は主張する。

8 腐臭を放つ相対化の場と絶対的非合理主義

第五の装置が、Rankly Relativising Field(腐臭を放つ相対化の場) である。これは一個の文や一人の論者の誤りではなく、複数の曖昧な概念、著者、読者、学問領域が相互に防御し合う知的環境を指す。「知識」の用法を批判されれば「真理と権力」によって防御し、「真理」を批判されれば「客観性の構築性」へ移り、個々の概念が詳しく分析されると、自明で安全なモットへ退却する。読者は難解な語彙を理解したという感覚によって取り込まれ、場全体が客観的合理性への拒否を維持する。

シャッケルによれば、この場が行き着く先は、どの主張も他の主張と同じ程度に良いとする absolute irrationalism(絶対的非合理主義) である。この立場は自己反駁的である。何かを主張するには、少なくとも言葉の正しい使用と誤った使用、信号と雑音、自分が発した文と別の文を区別しなければならない。したがって、すべての使用が同等であるという主張は、主張として成立するために、自らが否定する規範を前提にする。論文末尾では、さらにデリダの「テクストの外部はない」という表現が、外界への指示関係を拒否するテクスト主義として読まれ、指示関係の全面的否定はテクストについての真理すら失わせる、と論じられる。こうしてポストモダニズムは、ブラックホールのような絶対的非合理主義へ必然的に落下する――これが原論文の最終的な物語である。

9 五つの装置は同じ水準にない

以上からわかるように、原論文の要旨に列挙される五つの名称――トロールの自明句、モット・アンド・ベイリー型教説、両義的支点、フォックストロット、相対化の場――は、単純な並列項目ではなく、次のような階層をなしている。背景となる教説がアロゴシア。一文の水準の装置がトロールの自明句。理論体系の構造がモット・アンド・ベイリー型教説であり、ハンプティ・ダンプティ化はその構築方法の一つ(五装置と同列の項目ではない)。理論を動かす中心概念が両義的支点。反論を受けた際の対話戦略がフォックストロット。複数の論者と概念が作る知的環境が相対化の場であり、シャッケルが想定する終着点が絶対的非合理主義である。文レベルの曖昧さが理論レベルの防御構造になり、それが学問分野全体の自己防衛システムへ発展する、というのが論文全体の物語である。


二 自己適用の実験――同じ証拠基準でシャッケルを読む

シャッケルの用語をシャッケル自身に向けるには、いっそう慎重でなければならない。似た弱点が見つかったというだけで、ただちに同じ修辞的装置が実在すると結論すれば、診断語は単なる罵倒語になる。以下では、厳密な該当、構造上の類似、通常の論証上の欠陥を区別しながら進む。

1 アロゴシアの帰属――帰属上の飛躍と、両義的支点との類似

シャッケルの議論には、少なくとも次の三つの命題が関係している。第一に、合理性の規範には歴史的・社会的な形成過程がある。第二に、合理性には、歴史や実践から完全に独立した超越的基礎がない。第三に、健全な論証と詭弁のあいだに客観的な優劣はない。

第一または第二の命題から第三の命題は導かれない。規範が歴史を持ち、訂正可能であることを認めながら、証拠との整合性、推論の一貫性、反論への応答可能性によって、より良い推論と悪い推論を区別する立場は十分可能である。ローティも「すべての信念が等しく真または善である」という意味での相対主義を自認してはいない[9]。

したがって、ここで最も確実に言えるのは、シャッケルが、対象となる思想家たちの歴史主義や反基礎づけ主義から、第三の強いアロゴシアまでを、十分な解釈的論証なしに帰属している、ということである。シャッケルはアロゴシアを明示的に定義しているから、語そのものが二義的なのではない。問題は語ではなく、対象の立場を弱い反基礎づけ主義から絶対的非合理主義へ強化する帰属上の飛躍である。もっとも、「客観的」という語がこの移動を容易にしている点では、両義的支点との構造的類似がある。最低限の正誤区別、個人の好みに還元されない規範、歴史を超えた「強固な合理性」は同じではないが、シャッケルはこれらを十分に分節していない。

2 論文全体は本当にモット・アンド・ベイリーなのか

シャッケル論文には、確かに強弱の異なる二つの層がある。

防御しやすい中核は、社会的承認と真理を区別せよ、信念形成の原因と認識論的正当化を区別せよ、日常語と技術語を無断で往復するな、という局所的な主張である。「文Pが社会的に生産されたことが、Pの真理条件である」と本当に主張する理論に対するタルスキ的反論も、この範囲では強い。一方、論文が掲げる広い結論は、異質な思想家群が単一のアロゴシアを共有し、ポストモダニズム全体が不誠実な修辞的装置によって存続し、最終的に絶対的非合理主義へ落ちる、というものである。ところがシャッケルは、ポストモダニズム全体をモット・アンド・ベイリー型教説とする大きな主張を詳細には擁護せず、少数の事例から全体が見えることを期待すると明言している。ブルアのフォックストロットについても、問題を完全に特定できたか確信がないと留保する。

ここから確実に導ける批判は、証拠の範囲に比べて結論の範囲が広すぎるということである。少数の文章に曖昧さがあることから、思想潮流全体が意図的な欺瞞装置であることは導けない。

ただし、これを直ちに「シャッケル論文そのものがモット・アンド・ベイリーである」と断定するのも早い。シャッケル自身の厳密な基準では、この診断には、弱い命題の根拠が強い命題を守るために流用されていること、あるいは批判下での体系的な退却と、批判が去った後の再占有が実際に起きたことを示す必要がある。2005年論文の内部だけから確認できるのは、広い結論の立証不足であり、実際の退却と再占有ではない。

したがって、より正確な判定はこうなる。シャッケル論文は、モットとベイリーに似た強弱非対称の構造を持つが、厳密なモット・アンド・ベイリー戦略が立証されたわけではない。最も確実な診断名は「性急な一般化」、すなわち事例から全体への不当な外挿である。2014年のシャッケル自身による、教説とその詭弁的利用を区別せよという補足は、むしろ彼を批判する側にも同じ慎重さを要求する[2]。そして、診断名を安易に使わず、本人の厳密な条件に従って適用範囲を限定すること自体が、シャッケルよりもシャッケル的な態度なのである。

3 フーコー批判――有効な条件文と、排除されていない第三の読み

シャッケルのタルスキ的反論は、条件付きでは明快である。フーコーが本当に「命題が社会的に生産されたことが、その命題を真にする」と主張しているなら、その理論は偽である。社会的に生産された虚偽は無数に存在するからである。

問題は、フーコーの「真理の体制」が本当にそのような真理条件の理論なのかである。シャッケルは、通常の真理論か、真理ではない別対象の再命名か、という二者択一を置く。しかし第三の読みがありうる。フーコーは、命題を真にする性質を定義しているのではなく、どの発言が真として認定されるか、誰が真理を語る資格を持つか、真理の受容が主体にどのような拘束を課すかを分析している、と読むことができる[10]。

この読みは、単なる「人々は社会の影響を受ける」という自明な命題ではない。医学、司法、教育、精神医学などの制度において、証拠の形式、専門家資格、正常と異常の分類、告白や検査の手続きが、どのように知識と主体を同時に形成するかという、実質的な歴史的・政治的研究になりうる。通常の真理と、真理主張を社会的に運営する制度を区別することは必要だが、その区別から後者の研究が空虚だとは言えない。したがって、シャッケルはフーコーの一部の表現が二重に読めること、また強い真理相対主義的読解が成立しないことを示している。しかし、強い読みを反駁し、弱い読みを自明として退けるだけでは、その中間にある制度分析を排除できない。

4 ブルアとリオタール――概念上の区別から、実践上の分離は導けない

ブルア批判でも、シャッケルの区別は有益である。ある信念がなぜ広まったかという因果説明と、その信念を信じるべきかという規範的評価は別である。しかし、対称性原理は、まず社会学的説明の方法に関する原則として読める。真と評価される信念にも偽と評価される信念にも同種の因果的説明を適用することと、真偽や理由の規範的区別そのものを否定することは同じではない。シャッケルの自己言及批判が成功するには、ブルアが方法論的な括弧入れを超え、規範性を全面的に因果性へ還元していることを、さらに示す必要がある。

実際、この点はその後も独立の論争対象になっている。興味深いことに、その論争のなかには、バーンズとブルアは研究対象である科学者たちの合理性規範を自然化することには成功するが、自分たち自身が科学者に合理性を帰属させるときの規範性を自然化することには失敗する、と結論する分析もある[11]。つまりシャッケルが直観的に指摘した自己言及上の緊張は、より精密な形で追認されうる。ただしそれは、対称性原理の方法論的読解が防御可能であることと両立する結論であって、ストロング・プログラム全体の空虚さを示すものではない。

リオタールについても、認識論的正当化と倫理的・政治的正当化を概念上区別できる、というシャッケルの主張は正しい。しかし、区別できることから、実際の科学制度において両者が相互作用しないことは導けない。科学が何を研究対象とし、誰に資金を配分し、どの言説に社会的権威を与えるかという問いは、個々の命題の真偽とは別だが、知識制度の「正統性」の問題としては重要である。リオタールの問いを、雨が降っているかを知るために大きな物語が必要か、という個別命題の問題だけに縮小すると、彼が論じた科学の制度的権威、遂行性、技術化の問題を取り逃がす。ここでも、シャッケルの区別は残るが、その区別から対象の分析全体の空虚さを導く部分が弱い。概念上別であることと、社会的実践において無関係であることは同じではない。

5 合理主義者の二段跳び――局所的規範から「強固な合理性」へ

シャッケルの冒頭の二者択一には、第三の選択肢がある。ある個別の議論を詭弁として批判し、推論の正誤を局所的に区別することと、歴史や実践を超えた「強固な合理性」の理論に同意することは別だからである。

シャッケルは、防御可能な最小限の命題――言語使用や推論には何らかの正誤がある――から出発し、その承認を、彼のより広い合理主義への承認として扱う。しかし原論文では、アロゴシアそのものを論じず、自分が擁護する強固な合理性の積極的内容も展開しない。相手には合理性批判の完全な理論を要求する一方、自分の側は最小限の常識的規範を指示するだけで、より強い立場まで確保しようとする。

これは、シャッケルが定義するフォックストロットの厳密な実例ではない。彼は無立場を装っておらず、自分を明確に合理主義者と称しているからである。しかし、最小限の規範性と強固な合理主義のあいだを往復する、鏡像的な負担の非対称性は存在する。これを「合理主義者のフォックストロット」と呼ぶなら、厳密な同一性ではなく、構造上の類比として提示すべきである。

6 曖昧さから「不誠実」へ――心理的意図の帰属

シャッケルは、単に一部の文章が曖昧だと言うだけでなく、それらを不誠実な布教装置、詭弁的技巧、読者を取り込む仕掛けとして描く。しかし、次の三つは区別されなければならない。第一に、一つの文章に複数の読みがあること。第二に、著者が複数の意味を十分に区別していないこと。第三に、著者が批判を逃れるため、意図的に意味を切り替えていること。

引用文の語義分析だけで直接に示せるのは、通常は第一または第二までである。第三を立証するには、批判前には強い主張を提示し、批判されると弱い主張だけを擁護し、後に強い主張へ戻ったという時間的・対話的証拠が必要になる。シャッケル自身も2014年、知的不正を立証することは難しく、その具体的な仕組みを詳しく記述する労力が必要だと述べている[2]。つまりここでの批判は、「シャッケルも不誠実だ」という対称的な非難ではない。シャッケルの意味論的分析は、彼が下す心理的・道徳的判決を十分には含意しない、というより精密なものである。

なお、原論文は風刺と論証の境界をまったく示していないわけではない。冒頭の挑発的な遊びを終える箇所は「遊びはここまで」と明示されている。したがって「批判されれば風刺へ退却できる構造だ」と断定するのは公平でない。ただし、その区切りの後も、侮蔑的比喩、読者の知的虚栄への推測、思想家の意図への断定が、語義分析や論証と混在し続ける。問題は境界の完全な欠如ではなく、心理的・道徳的な判決が、意味論的分析によってどこまで支えられているかである。

シャッケルは、ポストモダンの読者が難解さを深遠さと取り違え、「理解した側」にいるという満足を得ると説明する。同じ種類の社会心理的説明は、シャッケルの読者にも適用できる。「自分は難解な欺瞞を見抜く側にいる」という満足が、この論文の魅力を増す可能性があるからである。ただし、この対称性は双方の議論が偽であることを証明しない。むしろ、読者心理への説明は命題の真偽を決める代わりにはならないという、シャッケル自身の区別を確認するものである。

7 「腐臭を放つ棄却の場」になる危険

最後に、シャッケルの診断語彙には、自己封鎖的に運用される危険がある。批判対象が「そこまで強い主張はしていない」と答えればモットへの退却、「その語は技術的意味だ」と答えればハンプティ・ダンプティ化、「合理性の前提が違う」と答えれば無立場の立場、と再記述できるからである。この構造では、反証となりうる応答が、あらかじめ病理として消化されてしまう。

ただし、ここでも「あらゆる応答が実際にシャッケルによって病理化された」と断定するより、診断体系がそうした使われ方を許す、と述べる方が正確である。この危険を避けるには、診断を反証可能にする条件が要る。すなわち、強い命題と弱い命題を批判者自身が正確な命題として提示すること。弱い命題の証拠が強い命題の証拠として実際に流用された箇所を示すこと。正当な明確化や立場の修正と、戦略的退却を区別すること。技術語の明示的定義と、同一文脈内での意味のすり替えを区別すること。そして、どのような証拠があれば診断を撤回するのかを、あらかじめ示すことである。

これらの条件がなければ、「棄却のための語彙」は、相手の応答を検討する道具ではなく、応答を読む前に無効化する語彙になりうる。シャッケルの「腐臭を放つ相対化の場」に対して、こちらは 「腐臭を放つ棄却の場」 とでも呼ぶべき危険を警戒しなければならない。これは皮肉であると同時に、モット・アンド・ベイリー以後に増殖した診断概念一般――藁人形、犬笛、シーライオニング等――にそのまま当てはまる方法論的問題でもある。

三 それでも残るもの――自己適用は自己反駁ではない

ここで、「シャッケルにも類似の修辞がある。ゆえに彼の議論はすべて無効である」と結論すれば、こちらが批判してきた過剰な一般化を反復することになる。自己適用の実験が示すのは、論文の全面的破産ではなく、局所的な分析と包括的な判決の分離である。

残るものは実質的である。真理と「真として承認されること」の区別、信念形成の因果的説明と認識論的正当化の区別、日常語と技術語の意味を明示せよという要求、強い読みと弱い読みを分けて検討せよという読解原則は、ポストモダニズムに限らず広範な論争に適用できる。「Pが社会的に生産されたことがPの真理条件である」と本当に主張する理論には、タルスキ的反論が有効である。「合理的規範は一切存在しない」という主張を、読者が受け入れるべき理由として提示することには、本物の自己言及的緊張がある。より正確に言えば、シャッケルは次のような条件文を示すことに成功している。真理を社会的承認と同一視するなら、その真理論は成立しない。理由を単なる原因へ全面的に還元しながら、自説だけを理由によって受け入れさせようとするなら、自己説明上の問題が生じる。強い主張の根拠として実際には弱い主張の根拠しか提示しないなら、モット・アンド・ベイリー型の利用が起きる。

支持を失うのは、これらの条件文の前件を、各思想家が実際に満たしているという帰属の部分である。フーコー、ブルア、リオタール、ローティ、デリダを単一の方法論の担い手として一括し、その全体が意図的な欺瞞装置によって存続し、絶対的非合理主義へ必然的に落ちるという結論は、原論文が提示する事例だけでは支えきれない。条件文の妥当性と、前件の帰属は、別個に立証されなければならない。シャッケルの論文は、後者の仕事を十分には行っていない。

おわりに

シャッケルの2005年論文は、語義の揺れ、主張の強弱、規範使用の非対称性を検出する強力な道具を生み出した。その価値は否定できない。とりわけモット・アンド・ベイリーという比喩は、理論が宣伝時と防御時で異なる顔を見せる現象を鮮明に可視化し、二十年を経て日常語彙にまで浸透した。

しかし、同じ基準で原論文を読むと、道具の切れ味と同時に限界も見える。シャッケルは、局所的な語義分析から思想潮流全体の知的不正へ、最小限の正誤区別から強固な合理主義へ、強い相対主義の反駁から異質な思想家群の一括棄却へと、証拠の射程を超えて進むことがある。原題 The Vacuity of Postmodernist Methodology という断定は、この論文の魅力的だが十分には防御されていない広い領域である。厳密に言えば、それがシャッケル自身の意味での「ベイリー」であることまで、2005年論文だけから確定することはできない。しかし少なくともそこには、彼が他者に要求したのと同じ精査を必要とする、ベイリーに似た広がりがある。

この論文から引き出すべき教訓は二重である。強い主張が批判されたとき、擁護されている弱い主張が本当に元の強い主張を支えているのかを確認せよ――これがシャッケルが与えた教訓である。そして、急進的に見える思想を最も極端で自己矛盾的な読みへ固定したうえで、他の解釈可能性を「退屈なモット」として排除していないかを確認せよ――これがシャッケルを読むことから得た教訓である。

診断概念は、それを作った者の手元に戻されたときに初めて、その精度がわかる。モット・アンド・ベイリーの城の設計図には、設計者自身の立つ場所も記入されなければならない。


  1. Nicholas Shackel, "The Vacuity of Postmodernist Methodology," Metaphilosophy 36, no. 3 (2005): 295–320. 著者最終稿はカーディフ大学の機関リポジトリ(ORCA)で公開されている。本稿における alogosia, Troll's Truism, Motte and Bailey Doctrine, Humpty Dumptying, Equivocating Fulcrum, Postmodernist Fox-trot, Rankly Relativising Field, absolute irrationalism の説明は、すべて同論文に基づく。

  2. Nicholas Shackel, "Motte and Bailey Doctrines," Practical Ethics (University of Oxford blog), September 5, 2014. ここでシャッケルは、モット・アンド・ベイリー型教説(命題群からなる体系)と、それを利用した個別の誤謬とを区別すべきこと、また同一の思想共同体の異なる成員がモットとベイリーを分担しうることを明確化している。

  3. Alan Sokal, "Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity," Social Text 46/47 (1996): 217–252; Stanley Fish, "Professor Sokal's Bad Joke," The New York Times, May 21, 1996.

  4. Peter L. Berger and Thomas Luckmann, The Social Construction of Reality: A Treatise in the Sociology of Knowledge (Garden City, NY: Doubleday, 1966). シャッケルは、書名の「現実の社会的構成」と、本文中の限定的な但し書きとの対比を、トロールの自明句型の移動の最初期の例として挙げている。

  5. Michel Foucault, "Truth and Power," in Power/Knowledge: Selected Interviews and Other Writings 1972–1977, ed. Colin Gordon (New York: Pantheon, 1980), 109–133.

  6. Alfred Tarski, "The Semantic Conception of Truth and the Foundations of Semantics," Philosophy and Phenomenological Research 4, no. 3 (1944): 341–376. シャッケルは規約Tを、真理の定義そのものではなく、真理論が満たすべき実質的適切性の条件として用いる。

  7. David Bloor, Knowledge and Social Imagery, 2nd ed. (Chicago: University of Chicago Press, 1991).

  8. Jean-François Lyotard, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge, trans. Geoff Bennington and Brian Massumi (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1984). 原著 La condition postmoderne (Paris: Minuit, 1979)。邦訳『ポスト・モダンの条件』(小林康夫訳、水声社)。

  9. Bjørn Ramberg and Susan Dieleman, "Richard Rorty," Stanford Encyclopedia of Philosophy. ローティは超文脈的な合理的保証を否定するが、「すべての信念が等しく真または善である」という意味での相対主義は自らの立場として拒否する。ただし、その立場が世界による合理的拘束を十分説明できるかについては批判がある(John McDowell, Mind and World, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1994 など)。

  10. Daniele Lorenzini, "What Is a 'Regime of Truth'?," Le foucaldien 1, no. 1 (2015). ロレンツィーニは、フーコーの「真理の体制」を、命題の真理条件を社会的権力へ還元する意味論ではなく、真理の認定・主体形成・統治の関係を分析する政治的・歴史的概念として再構成する。

  11. Chris Calvert-Minor, "The 'Strong Programme', Normativity, and Social Causes," Journal for the Theory of Social Behaviour 38, no. 1 (2008): 1–22. 同論文は、バーンズとブルアが研究対象の科学者たちの合理性規範を自然化することには成功する一方、彼ら自身が科学者に合理性を帰属させる際の規範性を自然化することには失敗する、と論じる。


本稿は、Shackel (2005) の論証を再構成したうえで、その診断基準を同論文へ自己適用する思考実験である。自己適用においては、厳密な該当、構造上の類似、通常の論証上の欠陥を区別することを原則とした。

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