[読書譚]早尾貴紀『パレスチナ、イスラエル、そして日本のわたしたち』(皓星社)
今野書店で手にした一冊。
帝国列強諸国による、植民地主義「グレート・ゲーム」。パレスチナ/イスラエルの問題が、その現在進行形の延長線上にあるという、紛れもない事実。そして、日本は歴史的にそこに関与し、現在も荷担し続けているという事実。
読むことで、世界の解像度をかなり上げていただいた。例えば、わたしは、1993年に為された「オスロ合意」は無邪気に「善き兆し」であったと思っていた。だが、その実、「オスロ合意」はイスラエルによる植民行為を世界的に黙認するよう仕組まれた企みであり、ハマスが政権を取ったのは、その企みへの抵抗であったことなど。
世の中に不条理が存在することと、その不条理に我々も荷担してしまっている事実がじわじわと染みてくる。
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興味深かったのは、第Ⅱ部「欧米思想史から見たパレスチナ/イスラエル」。マルティン・ブーバー、ハンナ・アレント、エマニュエル・レヴィナス、ジャック・デリダなどのユダヤ系の西洋哲学者が、パレスチナ/イスラエルの問題にどのように向き合ってきたかについて、整理し論じられている。そういう切り口を横串で眺める経験は、今までに無かった。
ブーバー、アレント、レヴィナスなどの思想家ですら、イスラエルという存在とその暴力性を否定し切れなかったという。
その中で、アルジェリア出身のデリダは、ヨーロッパを相対化し、ヨーロッパ的価値観の普遍性に強く疑義を挟み、所謂「脱構築」という思想でその解体を試みた。
デリダは、ユダヤ人としての「亡命性」「周縁性」を重視し、イスラエルという具体的な国家をアイデンティティとして依存することを避けていた。
デリダやジャベスにとって、ユダヤ人の〈場所〉は国境線に画定された国家ではなく、むしろ北アフリカの出身者らしく砂漠的な曖昧な広がりでイメージされる〈向こう〉、あるいはトーラーに対してラビ(宗教指導者)たちが解釈に解釈を重ねた「書物」の〈向こう〉、むしろ〈非・場所〉である。つまり領土国家イスラエルは拒絶されていると言える。
ユダヤ人は、領土国家にではなく「書物」に、砂漠で生まれた砂でできた聖書に、そして「砂漠」という場所ならざる場所に、帰属することなく帰属する「遊牧民=ノマド」であるという。
また、ユダヤ思想家における、イスラム的なものの「不在」(黙殺)を指摘している。ユダヤもアラブも同じアブラハムという出自を持つ者ではずであるのに。
これは、熱かった。
『エクリチュールと差異』に触れてみたくなった。
また、ハミッド・ダバシやその同僚であり師でもある、エドワード・サイードといった思想家の存在も知ることが出来た。暫くは触れられないかも知れないが、心に留め置きたい。
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最後に、巻末では著者自身の煩悶が触れられている。
凄まじい勢いで世界が崩壊に向かっている。暴力や差別や排除が加速している。
自分もその流れの内側に間違いなく入っていて、押し止めることなどできないのはもちろん、別の流れをつくり出すこともできず、無力さゆえに流されている。帝国の側のマジョリティとして構造的に加担もしてしまっている。
この煩悶を、読み手として、自身でも引き受けること。
それは、「日本人」の加害性を改めて自覚すること。例えば、沖縄やアイヌ、そして朝鮮、等々、「日本人」が蹂躙し、未だに蹂躙し続けているものについて、「自覚」し、改めて目を向けることこと。とりあえず、わたしにとって今するべきことはそれかと考える。そこに、思い至らせてくれた一冊であった。

