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他人の目が気になる人は、世界が自分に興味ないことを思い出せ

「他人の目が気になる」

そんな話をよく聞く。
でも、そんなもの本当は存在しない。

誰もぼくのことなんか見ていないし、
たぶん、あなたのことも見ていません。



たとえば今日、ぼくは近所のスーパーに行ったけれど、すれ違った人の服も顔もほとんど覚えていない。ほとんどっていうか全く覚えてない。

無論、レジのお兄さんがどんな表情をしていたかなんて思い出せない。そもそもレジを打ってたのがお兄さんだったかどうかも怪しい。もしかしたらおばちゃんだったかもしれない。全く覚えてない。

とまあ、みんなそんなもんだ。
(もうちょいまともではあるかもしれない)

それぞれがそれぞれのことで精一杯で、他人を気にしている余裕なんてない。

他人の目なんてものは、そもそも存在しない。
厳密に言うと「視線はあるけど、誰のハードディスク(脳)にも記憶されていない」。

どのアーカイブにも残らないなら、気にする必要はないのだ。


わかるよ、言いたいことはわかる。
もちろん、現実にはそういったものはゼロではない。
意地悪な視線や無自覚な偏見は、確かに世の中にある。

けれど、それも結局通り雨みたいなもので、数分後には忘れられてしまう程度のものだ。なのに、ぼくらはなぜか「他人の目」という幻に怯えて身動きを鈍らせてしまう。

それはどう考えても不毛だし、なんかもったいない。
その程度のものを恐れることはない。ほとんどないのと同じなんだから。


とはいえ、ぼくも「見え方(見せ方)」を参考にすることはある。

どう立ち振る舞えば、どう見られるか。
どんな言葉を選べば、どんな印象を持たれるか。

たとえば、無職だと名乗るとき。
ただの「仕事を辞めた人」ではなく「労働を卒業した人」っぽく見えたほうが面白いと思う。なのでそのようにしている節はある。

だから、ぼくは他人の目を気にして行動を制限することはないけれど、他人からの見え方を参考にして少し工夫することはある。


これは似ているようで、少し違う。
相手の動きを読もうとすることと、相手にビビって手が止まることは別物。

ビビらない。でも、しっかり読む。
そして、自由にやる。
現実もたぶんこれと同じで大丈夫。


とにかく誰かの目を気にしてやりたいことをやれないのは、ものすごく損だと思う。というか、ありもしない「周りの目」を気にして意思決定を阻害されるの、すごい滑稽な被害妄想っぽく感じる。

たとえ一瞬笑われたとしても、すぐに忘れられて終わりだ。
そんなことを気にする方がバカバカしい。

スーパーで財布を落としたって、道ですっ転けたって、失敗なんて誰も覚えてない。自分だけだよ、そんなの記憶に残してるのは。


SNSでも話は変わらない。

「こんな発信して大丈夫かな」
いや、そんな見てないよ誰も。

”まだ”そんなに見られていないよ、きっと。
これから見られるようになったら考えれば良いんじゃない?

大抵のことはやってから考えればいい。動いてみて、反応を見て、「なるほど、こう見えるんだな」ってそこで初めて調整すればいい。


ぼくは無職だけど、この肩書きがどう見られるかなんて別にどうでもいい。笑う人は笑えばいいし、バカにする人はバカにすればいい。

むしろバカにされてるくらいがちょうど良くて、変に期待されるとめんどくさいと思う。舐められてる方が「意外とやるじゃん」って印象よくなりそうで楽じゃない?ヤンキーはちょっと良いことしただけで美談にされる、あれと同じ。


繰り返す。

他人の目なんて、ないんだよ。
あると信じて立ち止まっている自分がいるだけ。

世界はあなたのことをそんなに見ていない。
それなのに自分で自分を縛ってしまうのはもったいない。

好きなようにやって、失敗して、笑われて、それでもまた好きなことをしたらいい。繰り返してたら笑われることもなくなるよ。

「他人の目」とかいう言い訳しないで、好き勝手やろう。


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