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小学校時代までのいろいろ小話

何歳の頃だっけ?と、記憶が曖昧な出来事まとめ

⚫️のんの
まず、ファッション誌ではない。「のんの」というのは赤ちゃんの頃にかけていた「丹前」である。
物心ついても手放さず、やたら臭いを嗅いでいたり、抱っこして寝たり。要は強すぎる愛着アイテムである。
「ブランケット症候群」や「安心毛布」とも呼ぶようだ。幼少期に不安を紛らわすために常に持っているぬいぐるみやタオルや毛布などを持つ幼児。覚えがある人もいるだろう。まあ、成長するたびに次第に離れていく誰にでも「あるある」なこと(たぶん)で、一種の幼児が母親の手から離れる不安に対する防衛本能らしい。
私の記憶では小学校5年生くらいまで持っていたと思う。
ちょっと長いスパンだ。
そりゃそうだろう。いろいろあったもの。
しかしこの執着丹前、小5の頃にはもう形にもなっていないボロボロ具合いで、洗濯も嫌がるほど「匂い」が好きだった。
と言うか原型も留めていないボロ布だ。洗濯物と一緒に干すのも多分母は、恥ずかしかったと思う。さらに母は学校行事で5年生にキャンプ。6年生は修学旅行。などの「お泊まり」ではさすがに持っていけないから、大丈夫かと心配だったと聞かされたが、結局自然に手放し、今それがどこにあるのかもわからないので、私は無事大人になったわけだ。
このブランケット症候群は、別に母親の愛情不足が原因とかでもなく、成長過程の一つだそうだ。母は怖かったけども、それなりに甘えもできた。
もし、そんな小さい子がいても、無理やり離さない方がいいみたい。
ちなみに私の娘は100円ショップで買ったブタのぬいぐるみだったが、3歳くらいにサッサと手放した。

⚫️下の兄弟
四つ上の姉にはどうしても勝てない悔しさで、私は父と母に「妹か弟が欲しい」とごねたことがあるようだが、父の答えは
「お前が父ちゃんと風呂(浴槽)に入るたび、ちんこを踏んでいたからできなくなった」
と言ったそうだ。小さい私には浴槽は深く、何回か溺れていたので、父が先に入り、あぐらをかいて私を抱っこして入れる。
勢いよく父のあぐらに乗っかるたびにアソコを踏みつけたそうだ。
もちろん私には記憶に残ってすらいない頃だが
少し成長してそれを聞いた時
「床までつくものだろうか・・・・」
とだいぶ疑ったことがある。

でも真実はさらに思春期に入ったあたりに母から聞かされた。
当時まだ若手サラリーマンの父と専業主婦の母に
じいちゃん(母から見たら舅)に「三人目はやめとけと言われた」
と打ち止め宣言をされたらしい。
まぁ経済状況からの判断だろうか。

それを知るまで私は父を不能にしていたのかと悩んでいた。


⚫️川で拾われた
長女以外あるある。
「なんでお姉ちゃんと私は似ていないの?」
と両親に聞くたびに帰って来た答え。
次女は拾いっこ・・・って言われていたので本気で信じていた時期がある。
しかし
歳をとるたびに私の顔は父に似てくる。(姉は母似)

⚫️習い事
幼稚園の時2年間ぐらいだと思うが、ピアノを習った。しかし、うちにはピアノを買うほど裕福では無いので、オルガンで代用。当然鍵盤が足りず、バイエルをちょっとやってやめた。
その頃母は上田の生協の2階でやっていた書道教室に通っており、母について行ったのをきっかけに自然に書道に切り替えた。書道は8年くらい続いた。久慈市に転校しても教室に通ったし、流派によって階級ランクが違うが、レベルは四段まで進み、次の特待生の手前でやめた。
落ち着きがなかった私にしてはよく続いたと思う。
書くのが本当に好きなのだ。
私が通ったのは母とおなじ上田の生協の2階ではなく、隣町の館向(たてむかい)町にあった教室。
幼稚園とは逆方向でそこへも岩手大学を突っ切って通っていたが、二回くらい変質者にあった記憶があるw 。
変質者、単に通りすがりに下半身を露出するだけの男。それ以上は無い。
金玉を出すので「ダスキン」と呼んでいた。
「お母さん、今日ダスキン見たよ」
「あらあら、ちゃんと岩大通って行きなさいよ、学校は安全だから」

そこで見たんだってば

⚫️口裂け女
同世代あるあるの都市伝説。耳まで裂けた口をマスクで隠した女
「ねえ、私綺麗?」
と話しかける。
「はい」
と答えると
「これでも?」
とマスクを外す。
登下校は「ポマード」を連呼し、キン肉マンを読みながら歩いた。器用だ。
ポマードって何かは当時知る由もない。

⚫️無知ゆえに殺したミドリガメ
カメは冬眠する。
なので飼っていたミドリガメを生きたまま丁寧に布で包んで、下駄箱に入れて
「冬眠させた」
親切も無知だと残酷行為。
春には即身仏になっていた。
私はきっと天国へは行けない。

⚫️ペット
ペットが飼えない賃貸住宅だったので犬猫はダメだが、小動物は良かったのだろうか?
ブンチョウ、ジュウシマツ、スズムシ、インコを飼っていた。
特にインコは言葉を喋った。逃げても帰ってくるように母は根気よく住所を教えていたのだ。
「モリオカシ、ミドリガオカ、ヨンチョーーーーーーメ!ピーチャン、イイコデショーーーー」
…番地までは無理だった。
あと、狭い庭の畑でキャベツを育てたときに、アオムシを数匹捕まえて飼った。ちゃんと蛹になってモンシロチョウになり、逃した時には達成感を感じた。

しかし、また翌年アオムシを育てていたら、ヤドリバチがアオムシの体内に卵を産み、アオムシの身体を食い破って羽化していた。だいぶトラウマ。

⚫️姉に騙されて野糞
父の実家である花巻市の祖父母の家には田畑があり、田植えや稲刈りの手伝いに家族で行っていた。
当時はコンバインではなく手刈りで天日干し。花巻では「ほんにょ」といって、長い棒を垂直に立て、支え棒を斜めに引っ掛け、稲束を地面と水平に重ねていく干し方である。
高くなっていくと稲を掛けるために父(または祖父)は脚立にあがり、私や姉は先がY軸になっている長い棒で、稲束を引っ掛けて渡す係。

稲刈り後の田んぼで姉と遊んでいた時、姉が尿意をもよおし、「ほんにょ」の陰で用を足す。
私も真似をしてオシッコをした。

しかし姉
「うんこもしよっと」
と尻を出したままうなり始めたので、当然私も真似をした。
私が本気で出していると姉は
「うっそーーーー」
とズボンをあげた姉。しかし私は時既に遅し。見事に姉のフェイントを喰らう。
田んぼなので別にそのままでも良かったのだか、
姉に騙された怒りより、神聖な田んぼで「野糞」をした罪悪感(オシッコしたくせに)に苛まれ。家からチラシを取りに行って、拾って持ち帰り、当時農家には欠かせないコエツボに投げ入れた。
どのくらいの大きさの建康便だったのか、「お釣り」もしっかり顔に浴びた。
何歳かは覚えていないが、出来事はしっかり記憶している。


⚫️おばあちゃんの畑で食物連鎖
祖父は田んぼで米を。祖母は畑で野菜を作って時々盛岡に持ってきてくれたり、夏休みに泊まりにいくと米と野菜をたくさん分けてくれた。
夏休み、おばあちゃんの畑仕事を手伝おうとした時、祖母は堆肥を土に撒いていた。
もちろん臭い。でも野菜にはいい栄養になる。畑の香水と言う言葉もある。
隣の親戚の牛小屋から堆肥を分けてもらい田んぼに撒いているのは知っているし、匂いにも慣れているがなんだか畑に撒いている肥やしには白いものが混ざっている。
よく見ると紙である。
当時トイレットペーパーではなく祖父母の家では「ガサチリ」といって再生紙の硬めの便所紙。もんで拭く。
なんかそれっぽい。

祖母を観察していると、畑に撒いている肥やしの元は牛小屋からのではなく、辺りを見回すと
汲み取り便所の蓋が開いていた

美味しい野菜だった。

⚫️稲刈りで指も刈る
小学校低学年の頃に鎌を持たされて稲刈りをやらされた。
初めての時。なぜか稲を掴む方の左手の小指を立てていたようで、小指の爪の付け根まで刈ってしまい、田んぼを血まみれにした。
爪半分縦に割れ、骨も見えていたようだが、きちんと再生している(跡は今でも残っている)
人体の再生力すこい
それから稲刈り禁止と言われ、私の仕事は「ほんにょ」の稲渡し係になった。

⚫️お母さんのおっぱい
に、よく見ると歯型がある。私も姉も母乳で育てた母。姉と私が歯が生え始めた時につけたのかな?と聞いたら
「小学校のころ馬(農耕馬)を飼っていて、噛まれた」
そうだ。
よくもげなかったな・・・と

⚫️自慢
小学生の時に、盛岡市の広報にドラえもんを描いて送ったら掲載された。
当時夕方6時にNHKで「600(ろくまるまる)こちら情報部」という子供番組をやっていて、
ハガキに絵をかいて、毎週一枚選ばれると「情報部員バッジ」がもらえる。
私はそれを持っているw
描いた絵が全国区に評価された初めての栄光。

いやあ。記憶のアウトプット作業をどんどんし始めたら、色々あるものだ。
次回に続く

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