🔶私の好きな奈良:五劫院 長髪の阿弥陀如来 二度の東大寺焼失 重源と公慶
五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)はご存知でしょうか?
寺社好き、仏像好きの方ならよくご存知のことと思います。
五劫という気の遠くなるような長い歳月にわたって思索や修行を重ねたために、頭髪が長く伸びた阿弥陀如来の姿で、ちょっと不謹慎ながら「アフロヘアの仏さん」などと形容されることもありますね。

奈良市北御門町にある華厳宗の寺院、五劫院(ごこういん)は、その名が示すように、五劫思惟阿弥陀仏坐像を本尊とします。
山号も本尊に因む「思惟山」です。
大きなお寺ではありませんが、二度にわたって兵火で焼失した東大寺を、それぞれ大変な苦労で再建した際に大きく貢献した、重源(1121~1206)と公慶(1648~1705)という時代の異なる二人の東大寺僧と関連が深い、東大寺の末寺です。
今回はそのあたり、お寺の歴史や本尊仏について書いてみます。
五劫について
五劫院・五劫思惟阿弥陀仏坐像の「五劫」は時間を表します。
この「劫」という字は、「未来永劫」などにも使われていますね。
五劫とは、大智度論(おおちどりん:インド大乗仏教の僧・龍樹=りゅうじゅ、ナーガールジュナ による「摩訶般若波羅蜜経」の注釈書)によれば、天女が3年に一度、40里(約160km)立方の大岩に舞い降りて羽衣で撫で、その岩が摩滅して無くなるまでの時間(一劫)を5回繰り返すという、無限に近い時間だそうです。
極めて長い時間、座禅を組んで考え続けた結果、螺髪(髪の毛)が伸びて積み重なった姿が髪型に現れているそうで、これにより完全な救済方法を選び取った深い慈悲と、人々を必ず救うという阿弥陀如来の意志が象徴されています。
ちなみに落語・寿限無(じゅげむ)には「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ‥」とありますね。生まれた子供がいつまでも元気で長生きできるようにと考えて、とにかく「長い」物がいいということでとんでもない名前をつけた、という笑い話です。
若い頃にこの「寿限無」の名前を暗記したという方も、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
五劫院の歴史と重源
五劫院の起源は明確ではないものの、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん:1121~1206年、東大寺勧進職として平家による南都焼討ち後の再建に尽力した)が宋から請来した本尊・五劫思惟阿弥陀仏坐像を安置したのが起源と言われています。
重源は浄土宗の開祖・法然の命をうけるなど宋に3度渡っていますが、その際に阿弥陀像3体を持ち帰り、大像を五劫院、中像を東大寺、小像を京都・大蓮寺(だいれんじ)に安置したと言われています。
五劫院のある奈良市北御門町(きたみかどちょう)の名前は、東大寺の北門があったことに由来します。
1180年の冬、平氏の「南都焼打ち」によって、奈良の寺院の多くは壊滅的に焼失し、東大寺も大仏殿を含む堂塔伽藍のほとんどを失いました。
翌年、大勧進職に抜擢された重源は既に60歳を超えていましたが、寄付のための趣意書「勧進帳」をたずさえ全国を奔走し、晩年の25年間を大仏再建に捧げました。
このとき、東大寺北門の場所に東大寺と同じ華厳宗の五劫院を開いたとされる重源ですが、1206年86歳の生涯を閉じました。
五劫院の東、三笠霊園の坂を上り切った「伴墓(ともばか)」と呼ばれる墓所には、火輪(かりん)の部分が三角錐になった珍しい「重源上人三角五輪塔」があります。

伴墓と呼ばれる墓所

なお重源の死後は、日本臨済禅の開祖・栄西が東大寺再建の仕事を引き継ぎました。
栄西は宋で重源と出会った様で、茶の種を持ち帰って日本に喫茶の習慣を広めたことでも知られます。東大寺に移ってからは梵鐘の再建などを行いました。
五劫思惟阿弥陀仏坐像
本尊の五劫思惟阿弥陀仏は通常は非公開ですが、例年2月(要予約)、8月のそれぞれ10日間、本堂で特別公開されます。
鎌倉時代作の木造漆箔、一木造、像高は124cmで、重要文化財に指定されています。五劫思惟阿弥陀仏は全国的にも珍しく、全国に十数体しかありません。
五劫院の像は東大寺勧進所像と並んで鎌倉時代に遡る最古級の作例です。
制作者や年代には諸説がありますが、五劫院のものは最も古く大きく、螺髪以外のほぼすべてが一木造りです。
ボリュームがある頭髪だけでなく、頭部そのものも大きく存在感があります。宝蔵(ほうぞう)菩薩が悟りをひらき、阿弥陀如来になった瞬間の姿といわれ、瞑想中のため目や口は閉じており、量感豊かな造形や厚い袈裟、腹前で印を結んだ手足を衣にくるむ姿は宋風と言われます。
なお「思惟」とは、心に考えを深くめぐらせることで、この場合、衆生救済のための四十八願を立てることを言います。
表門と本堂
境内はそれほど広いわけではありませんが、よく整備されており、明るく開放感があります。
寺の入口に立つ表門(タイトル写真)と本堂は、ともに江戸時代の建造物で、奈良県指定有形文化財に指定されています。
表門(山門)は本瓦葺、切妻造の薬医門(やくいもん:2本の本柱の背後に2本の控柱を立て、切妻屋根を架けた高格式な門)の形式です。
棟札2枚の記載から、建立は江戸時代はじめの1645年とわかりますが、保存状態は良好です。
本堂は、やはり棟札から1624年に建てられたことがわかります。

方八間、本瓦葺、寄棟造の建物で、江戸初期の再建ですが、前方一間を吹き放しにして向拝が附されています。
奈良ではこうした古代由来の形式を踏襲し、仏堂を再建した例がよく見られます。
堂内は手前を外陣、奥側の中央を内陣、その両脇を脇陣とし、各部屋の境は中敷居や阿弥陀格子で区切られており、その平面は浄土宗寺院本堂の形態に近く、全体に保存もよいとされています。
裏手の墓地に鎮座する公慶の五輪塔
本堂の裏手は墓地となっており、入口に二体の地蔵石仏が祀られています。左側の石仏は「見返り地蔵(朝日地蔵)」と呼ばれ、人々を救済するために歩いている様子を表現しています。
墓地を奥の方へ入っていくと、一角に江戸時代の東大寺再建に携わった公慶の五輪塔があります。

重源による鎌倉時代の東大寺再建から370年余り経った1567年、東大寺大仏殿は三好・松永の兵火を被り大仏殿は再び焼失、大仏の上半身は熱で溶け、建屋を失った大仏は雨ざらしの状態となってしまいました。
1660年、13歳で東大寺に入った公慶は、100年近く風雨に晒された大仏と出会います。1667年、お水取りの練行衆として参籠中の二月堂が火災で焼失するという惨事に遭遇、短期間での復興を目の当たりにした公慶は、打ち捨てられた大仏再建への気持ちを強めたのではないかといわれます。
公慶は大仏殿の再建を志し、37歳となった1684年、江戸幕府に赴き大仏殿の再興と諸国勧進の許可を得ましたが、幕府の積極的な援助は得られなかったため、資金を得るために勧進書を作成して支援を募ります。
支援の動きは全国に広まり、1692年、ついに大仏開眼供養となりました。
つづいて大仏殿再建に取りかかりましたが、これは大仏の修復を上回る莫大な費用を要するものでした。そこで公慶は将軍綱吉に謁見し、今度は幕府からの積極的な協力を取り付け、幕府の要請による諸大名の協力と民衆の勧進によって1705年4月に上棟しました。
公慶は惜しくもその年の7月に亡くなり、1709年の大仏殿完成を見ることはできませんでした。
江戸で病没した公慶の亡骸は10日間をかけて奈良へ運ばれ、五劫院に葬られました。公慶の五輪塔は、その際に建立されたものです。

鎌倉時代の重源、江戸時代の公慶により、約500年の時を隔てて行われた大規模な勧進。
そのいずれが欠けていても、いまの奈良はなかったかもしれません。
長い時間をかけ、労力を惜しまず大仏復興に奔走した重源、公慶の生きざまは、頭髪が伸びるのも構わず衆生の救済を考え続けた五劫思惟阿弥陀仏の姿と重なるようにも思えます。
東大寺大仏殿にお参りの際には、今日の華やかな姿の陰に、かつての名僧達の大変な苦労や努力があったことに思いを馳せ、是非ゆかりのこのお寺を訪れてみて下さい。
奈良公園から近く、近鉄奈良駅からは歩いても25分程度ですが、参拝客は少なくゆっくりとお詣りできます。
バスだと「今在家」下車、徒歩3分ほどです。
駐車場もありますが、お寺周辺の道路も含めあまり広くありませんので、お車でお詣りの方は充分ご注意ください。
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