🔶私の好きな奈良:日の沈む山に埋葬された悲運の大津皇子 鳥谷口古墳
タイトルの写真は何だかご存じでしょうか?
いかつい鉄格子の様な扉で閉められており、監獄か何かの様にも見えてしまいますが、実は二上山(にじょうさん)麓にある鳥谷口(とりたにぐち)古墳です。
歴史好きの人なら、イケメンヒーロー大津皇子が、非業の死を遂げたあと、二上山の頂に葬られたという話を聞かれたことがあるかも知れません。宮内庁により、大津の墓は山頂の二上山墓と治定されていますが、近年の調査で、この鳥谷口古墳が真の墓ではという説が有力になっています。

こんもりとした丘の登り口に説明がある。
今回は、二上山と大津皇子について見ていきます。
大津皇子の出生、同胞
大津皇子は、天武天皇と大田皇女の間に生まれた子です。
大田皇女は、天武の兄の天智天皇と、蘇我氏系の遠智媛(おちのいらつめ)の間に生まれた娘で、後の持統天皇となる鸕野讃良(うののさらら)とは実の姉妹の関係になります。
天智天皇といえば、即位前は中大兄皇子として中臣鎌足と共に乙巳の変を敢行し、中央集権体制の基礎を築いた人ですが、多くの女性と子を設けており、娘達を政治的な意図をもって嫁がせていたとされます。
大田皇女(姉)と鸕野讃良皇女(妹)の二人は、共に天智の弟の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎました。二人の妃はともに子供を産み、大田皇女の息子が大津皇子、鸕野讃良の息子が草壁皇子です。
なお、天武天皇にも多くの皇子がいます。
大津皇子、草壁皇子のほか、高市皇子、忍壁皇子、舎人親王、新田部親王などがいて、天武の後継者としての順位に入ってくることになります。
大津皇子はどんな人だった?
天武天皇のあとの皇位継承順位としては、両親とも天皇の直系になる大津皇子と草壁皇子の二人が、等しく最上位に来ることになります。
年齢は草壁が一歳上ですから、ほぼ同年代ですね。
大津皇子の人となりについて、日本書紀には「立ち居ふるまいは際立っていて、声はすぐれ明るく大きかった。長じるに及んで事をわきまえ、才学があった。文章を書くことを愛し、本邦の詩賦の隆盛は大津にはじまった。」との記載があり、奈良時代に編纂された日本最古の漢詩集とされる「懐風藻」にも「体格や容姿が逞しく、寛大。武芸を好み、巧みに剣を扱った。規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚で人士を厚く遇した。多くの人々に慕われ信望を集めた。」等とあります。
容姿、性格、才能とも抜群の人物と認められていたようですね。
一方の草壁皇子については、人物像についての記録は特に見当たらず、どのような人であったかは良く解りません。
天武天皇による吉野の盟約
672年の壬申の乱を経て、大海人皇子が天武天皇として即位します。
679年、天武天皇、后の鸕野讃良、6人の皇子達が吉野に行幸します。
その際に、自分の後継を巡って兄弟同士が相争わない様に、次期天皇を決め、皆で協力しあうことを皇子達に誓わせました。
これが「吉野の盟約」です。
皇位を巡って身内との凄惨な争いを余儀なくされた天武としては、皇子達には同じ過ちを繰り返してほしくなかったのでしょう。
この盟約の場には、天武の息子である高市、草壁、大津、忍壁と、天智の息子である川島、志貴がいました。そして、次期天皇になることを約束されたのが草壁でした。
大津皇子の活躍と、天武天皇の崩御
大津と草壁が血統的に互角であったなかで、草壁が次期天皇=皇太子とされた大きな理由は、後ろ盾となる人がいたかどうかの違いだったと思われます。
草壁皇子の場合は、のちに持統天皇となる母:鸕野讃良の強力なバックアップがありました。
一方で大津の母、大田皇女は、大津が4歳のときに既に薨去していました。姉に大伯皇女(おおくのひめみこ)がいましたが、初代斎王として伊勢に下向しており、大津は独力で道を拓いていく必要がありました。
大津は、先に述べたように抜群の才を持った人物であったため、能力・人格を認められ、683年には草壁と並んで政治に参加するようになります。
「吉野の盟約」があるとはいえ、もともと互角の血統を持った大津と草壁が、同じ土俵に上がる‥当然、周囲からは比較もされるでしょう。
そこにはお互い、複雑な感情があったかも知れません。
そんな中、686年に天武天皇が崩御します。
大津皇子、謀反の疑いをかけられ自宅で自害
天武天皇が崩御してわずか3週間後、大津皇子は謀反の疑いにて逮捕され、翌日、訳語田(おさだ、現在の桜井市)の自宅に自害するに至ります。
日本書紀には、妃の山辺皇女が髪を振り乱して裸足で走っていき、後を追って殉死したこと、この様子を見ていた周りの人たちが悲しみ泣いたこと等が書かれています。
先に出てきた「懐風藻」には、この逮捕は親友の川島皇子の密告によると記されています。天武天皇の「吉野の盟約」には、皇位を継承する草壁皇子を、大津皇子など実力を持った兄弟がサポートして欲しい、との願いが込められていたのではと思われます。
崩御してすぐにこのような形になったのは、天武もさぞや無念であったことでしょう。
事の真相についてはわかりませんが、わが子・草壁を溺愛する鸕野讃良が、不安になって引き起こした事件の可能性もあるのでは、との見解もあります。興味のある方はご参考に。
大和の葬りの地、日の沈む山
さて、二上山。標高は北の雄岳が517m、南の雌岳が474mと決して高い山ではありませんが、奈良県の西側、大阪府との境界のランドマークとして、地元の人にはお馴染みの山です。
かつては石器に伝われた「サヌカイト(讃岐岩)」が採れるのは、香川県坂出市とこの二上山だけと言われています。
奈良の地では、東側の「日の昇る神の山」三輪山に対して、西の二上山を「日の沈む浄土の山」として捉える考え方があります。

古事記を編纂した太安万侶を祀る多神社(おおじんじゃ:田原本町)は、真東の三輪山、真西の二上山を結ぶ直線上に位置し、春分の日と秋分の日には三輪山から日が昇り、二上山に日が沈む神社として、太陽信仰に重要な地となっています。
古く飛鳥に都があった時代にも、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇などの陵墓は、都のある飛鳥ではなく、西の山を越えた二上山の背後の地に築かれています。
そういえば聖徳太子のお墓も、奈良盆地から見て二上山の背後「太子町」にありますね。
万葉集に、弟・大津の死を悲しんだ姉の大伯皇女の有名な歌があり、二上山を詠んでいます。
「うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我れ見む」
(現世人であるこの私は、明日からは二上山を我が弟だと思ってずっと見続けて過ごします)
万葉集は歴史書ではなく歌集ですが、古事記や日本書紀以上に、創作のない真実を伝えている部分があると思います。
おわりに
大津皇子がどのような経緯で自害するに至ったのか、今となっては推察することしかできませんが、天武天皇の思いも空しく、若い皇子の命が絶たれたことは本当に悲しい事です。
鳥谷口古墳の前で合掌して帰ってきました。
ところで、鳥谷口古墳から歩いて5分ほどのところに、珍しい形をした傘堂(かさどう)があります。

江戸時代前期に郡奉行の吉弘統家(よしひろのりいえ)が、藩主本多政勝候の菩提をとむらうため、この地域の農民たちとともに、1674年に建立したものです。傘堂に三度祈願すれば、長い病による下の世話など人に迷惑をかけることなく「ぽっくり」一生を終えることができるという信仰があり、多くの人が訪れます。
二上山は自然豊かな良いところです。
良ければ一度訪れてみて下さい。
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