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【辺野古ボート転覆事故】ご遺族会見の「質問」を考える 第2回 「もう一度会えたら、何と声をかけたいですか」は必要だったのか

本シリーズは、質問した記者個人を非難するためのものではありません。記者の意図を推測するものでもありません。

ただし、個人を責めないことと、質問の問題点を曖昧にすることは別です。公開された質疑応答をもとに、その質問は会見の目的に沿っていたのか、新しい事実を明らかにしたのか、ご遺族に負わせた負担に見合うものだったのかを考えます。

ご両親が誠実に答えてくださったからこそ、私たちは多くのことを知ることができました。しかし、答えてくださったことが、その質問をしてよかったことを意味するわけではありません。

父親が言葉を詰まらせた直後の質問

会見の後半、NHKは父親に、知華さんに対してどのような思いで告訴状を提出したのかを尋ねました。

父親は、知華さんが学校や先生を好きだったため、教員を告訴することやnoteで発信することに、今も葛藤があると答えました。

もし知華さんが話せたなら、「もう十分だよ」と言うかもしれない。

一方、母親は、知華さんは曲がったことが嫌いだったので、正すべきことを正し、もっと多くの生徒が安心して過ごせる学校に変わってほしいと願うのではないかと述べました。

そして父親は、知華さんは絶対にもっと生きたかった、先生や友達ともっと一緒にいたかったはずだと、言葉を詰まらせながら語りました。

ただし、知華さん本人がどう思っているかを確かめることは、もうできません。

だからこそ、残された親として責任の所在を明らかにしていくしかない。

父親は、そのように答えました。

告訴に至るまでの葛藤と、ご両親が果たそうとしている役割が伝わる回答でした。質問も、刑事告訴を公表する会見の目的に沿ったものだったと思います。

しかし、その直後、同じ記者からもう一つの質問が出ました。

もし知華さんに声をかけるとしたら、どのような言葉をかけたいですか。

母親は、難しいと戸惑いながら答えました。

もし、もう一度会えるなら、最初に伝えたいのは「本当に会いたかった」ということ。そして、会って抱き締めたい。

母親の言葉は、そこで途切れました。

胸を打つ回答だった

この回答を聞いて、胸を締めつけられない人は少ないと思います。

事故から4カ月余り。母親は、知華さんがもう亡くなったことを頭では理解しながらも、今もどこかから帰ってくるように感じると語っていました。

毎朝のおにぎり、おやつ、夜食のお菓子やジュースを仏壇に供え、暑さで花がもたないため、約2日おきに自転車で墓へ通っていることも明かしました。

もう一度会いたい。抱き締めたい。

それは、娘を突然失った母親の、最も切実な思いです。

結果として、この質問から、ご両親がどれほど知華さんを愛していたのかが、強く伝わりました。ご両親の人格と、知華さんが大切に育てられてきたことを知る機会になったのも事実です。

しかし、ここで考えなければならないことがあります。

回答が胸を打つものだったことと、その質問が適切だったことは同じではありません。

この質問によって、何が明らかになったのか

この会見は、ご両親が刑事告訴に踏み切った理由を説明し、事故の真相解明と再発防止を求めるために開かれました。

学校と協議会は、何をしていれば事故を防ぐことができたのか。

なぜ、修学旅行生を抗議活動用の船に乗せたのか。

なぜ下見をせず、具体的な航行計画も立てなかったのか。

なぜ引率教員は船に乗らなかったのか。

学校は事故後、ご遺族や生徒に何を説明してきたのか。

こうした質問によって、事故原因、安全管理の欠落、責任の所在、再発防止に必要なことが見えてきます。

それでは、「亡くなった娘に何と声をかけたいか」という質問によって、事故について新たに何が明らかになったのでしょうか。

事故原因ではありません。

学校や協議会の責任でもありません。

刑事告訴の法的な意味でも、再発防止策でもありません。

明らかになったのは、娘を亡くした母親の、最も深く私的な悲しみでした。

その悲しみを、記者が公の場であえて言葉にしてもらう必要があったのでしょうか。

私は、必要な質問だったとは思いません。

自ら語ることと、質問されて答えることは違う

もちろん、ご遺族が知華さんへの思いを語ること自体に問題があるわけではありません。

ご両親が自ら伝えたいと考え、知華さんとの思い出や現在の心境を語るのであれば、その言葉には大切な意味があります。

知華さんを、単に「事故で亡くなった女子高校生」としてではなく、一人の人間として知ってもらうことも重要です。

しかし、自ら語ることと、記者から尋ねられて答えることは同じではありません。

記者会見では、多くのカメラと記者がご両親へ向けられています。質問を受けた側は、答えたくないと思っても、その場の空気の中で拒むことが難しい場合があります。

特に今回、ご両親は初めて公の場で会見に臨んでいました。捜査への影響、学校や生徒への影響、報道での伝わり方にも気を配りながら、長時間にわたって一つ一つの質問に答えています。

母親は、質問を受けた瞬間に「難しい」と戸惑っています。

その反応自体が、質問の重さを示していたように思います。

「答えなくてもよい」と添えれば十分なのか

被害者や遺族への質問では、

答えにくければ、無理にお答えいただかなくて結構です。

と付け加えることがあります。

それは必要な配慮です。しかし、その一言があれば、どのような質問でも許されるわけではありません。

多くのカメラが向けられた会見の場で、質問を受けたご遺族が本当に自由に断れるのかを考える必要があります。

断れば、「答えなかった」という事実が残ります。会見を開いた以上、きちんと答えなければならないと感じるかもしれません。

ご遺族の側に、答えるかどうかの判断を委ねる前に、質問する側が考えるべきことがあります。

この質問は、本当に必要なのか。

本人に直接聞かなければ分からないことなのか。

質問によって得られる情報は、相手に与える負担に見合うものなのか。

配慮とは、答えを拒む自由を伝えることだけではありません。そもそも、その質問をしないという判断も含まれるはずです。

知華さんの人柄を伝える質問との違い

京都新聞は、ご両親から見て、知華さんはどのような娘だったのか、どのようなところが好きだったのかを尋ねました。

この質問も、事故原因や刑事責任に直接結びつくものではありません。

それでも、「亡くなった娘に何と声をかけたいか」という質問とは、少し性質が異なると思います。

事故直後、知華さんには、抗議活動に参加していた、政治的な活動家だったといった誤解が向けられました。ご両親がnoteでの発信を始めた大きな理由も、知華さんへの誤解を解くことでした。

知華さんが、曲がったことを嫌い、学校や先生を大切にし、さまざまな友人と関係を築いていたことを伝えるのは、誤って作られた人物像を正すことにつながります。

また、学校と先生を好きだった知華さんの人柄は、ご両親が教員を告訴するまでに抱えた葛藤を理解するうえでも重要です。

つまり、この質問には、知華さんを一人の人間として伝え、事故後に広がった誤解を正すという意味がありました。

一方、「何と声をかけたいか」という質問は、知華さんの生き方よりも、残された母親の悲しみへ焦点を移します。

どちらも感情に触れる質問ですが、社会が新たに知ることのできる内容と、ご遺族に与える負担は同じではありません。

感情に関する質問を、すべて一括して否定するのではなく、その違いを見なければならないと思います。

月命日の過ごし方を聞く必要はあったのか

同じ問題は、読売新聞の質問にも感じました。

記者は、日々、知華さんを思ってしていることや、月命日をどのように過ごしているかを母親に尋ねました。

その回答から、母親が仏壇に食べ物や飲み物を供えていること、拾骨と納骨が非常につらかったこと、約2日おきに墓へ花を供えていることが語られました。

これも、ご家族の深い愛情が伝わる回答でした。

しかし、拾骨、納骨、仏壇、墓参りは、ご家族の極めて私的な悲嘆の領域です。

刑事告訴と再発防止を伝える会見で、記者が公の場で尋ねる必要があったのかという疑問は残ります。

ご遺族が自ら語りたいのであれば、大切に受け止めるべき言葉です。

しかし、語ってくださったことを、そのまま質問の正当性に置き換えることはできません。

会見に応じることは、悲嘆に満ちた私生活まで、無制限に取材へ差し出すことではないはずです。

感情を伝える報道の意味

事故や事件を数字だけで伝えれば、失われた一人の命が見えにくくなります。

知華さんがどのように生き、ご家族や友人にとってどのような存在だったのかを伝えることには、社会的な意味があります。

ご両親の悲しみを通して、安全管理の欠落が一人の命と一つの家族に何をもたらしたのかを知ることも、再発防止を考えるうえで無関係ではありません。

したがって、感情に触れる質問そのものを排除するべきだとは思いません。

ただし、その質問には慎重さが必要です。

知華さんの生き方を伝えるための質問なのか。

事故が家族に与えた影響を社会へ伝えるための質問なのか。

それとも、深い悲しみを語る言葉を得ること自体が目的になっていないか。

質問する側は、その違いを常に問い直す必要があります。

悲しみが強く表れる回答ほど、映像や記事では人の心を動かします。

だからこそ、「心を動かす回答が得られる」ということが、質問する理由になってはいけないと思います。

質問を向ける相手は誰なのか

この会見で厳しく問われるべきことは数多くありました。

なぜ学校は下見をしなかったのか。

なぜ船長と安全について打ち合わせなかったのか。

なぜ教員は船に乗らなかったのか。

なぜ過去の乗船で生徒が恐怖を感じていたことが、改善につながらなかったのか。

事故後、学校はご遺族や生徒に何を説明したのか。

こうした質問は、学校、学校法人、協議会、行政に向けて、さらに厳しく問われるべきです。

一方、ご両親に対して必要なのは、なぜ告訴に踏み切ったのか、何を明らかにしてほしいのか、再発防止のために何を求めているのかを丁寧に聞くことです。

責任を問うべき相手への追及が十分でないまま、ご遺族の悲しみだけが詳しく伝えられるとすれば、報道の向かう先が逆になってしまいます。

ご遺族の涙ではなく、事故を起こした構造を明らかにすること。

そのために記者会見があるのではないでしょうか。

胸を打つ言葉の向こう側で

母親の「本当に会いたかった」という言葉は、会見を聞いた多くの人の心に残ったと思います。

私の心にも残りました。

だからこそ、その言葉がどのような質問によって引き出されたのかを考えたいのです。

ご両親の回答から、深い愛情や誠実な人格が伝わったことは、この会見が持った大きな意味の一つでした。

しかし、それは配慮の乏しい質問まで、ご両親が拒まず、誠実に受け止めた結果でもあります。

胸を打つ回答が得られたことをもって、質問まで正しかったと考えてしまえば、同じことが次の被害者や遺族にも繰り返されます。

ご両親が誠実に答えてくださったことが、その質問をしてよかったことを意味するわけではありません。


※本稿は、沖縄タイムスが掲載した記者会見の質疑応答をもとに執筆しました。発言の全文は元記事をご確認ください。

辺野古沖転覆 武石知華さんの両親が初会見で語ったこと【記者との質疑応答を詳報】 | 沖縄タイムス+プラス

次回予告

ご遺族が事故後から発信してきたnoteを踏まえれば、会見での質問はどのように変わったのかを考えます。